◆ 女神の領域

「ミナミ?!」

 マサアが声をかけても、ミナミからは何の反応も返ってこなかった。

 先ほどまで跳ね上がっていた左腕はだらんと力なく垂れ下がり、血がぼたぼたと滴っている。キーナによる腕輪の解放の詠唱もすでに終わっており、早く治癒魔法をかけたいところではあるが、彼女は結界を強化しているために動くことが出来ない。

「うぅぅ……っ」

 他に治癒魔法が使えるのはマサアだけだったが、彼もキーナのように結界を強化している状態に変わりはない。体が空いていた場合とて、扱えるのは下位の術のみである。多少の擦り傷や切り傷には効果があるが、いまのミナミには焼け石に水……にもならないだろう。

 ぎりぎりと歯を食いしばってミナミを見守るマサアの正面、マサアやキーナと同じように結界の一角に佇むミカノが「ねぇ」と声を上げる。

「静かすぎない? さっきのミナミの様子を見ると、腕輪の解放は出来たみたいだけど」
「……たしかにな」

 首を傾げる彼女に頷いたのは、マサアの傍に立つハイネだった。その眼は倒れたミナミをじっと見つめている。

「あとはこの嬢ちゃんが、女神に呑まれないことを祈るだけだ」
「っ?! どういうことだよ!!」

 マサアがハイネに喰ってかかる。魔法陣から離れることは出来ないが、並の人間ならそれだけで殺せそうな視線をハイネに向ける。
 他の四人も同じく、ハイネのことを睨むように見つめていた。

「んー……」

 ふぅ、と何度目か分からないため息を吐いた彼は、ガリガリと頭を乱暴に掻きつつ、ようやく口を開いた。

「“鳥籠”で聞いた話じゃ、女神の残留意識みたいなのがその法具には残されているらしいんだ。破壊神を封じ込めた結界を通り抜けるために必要な力を、その意識が管理と言うか手助けと言うか、してるらしい」

 女神の力の片鱗を封じ込めた法具は、片鱗とはいえ人の手には余る強大な力を秘めている。それゆえに女神らは、自分の意識の欠片を法具に封じ込めて、それを身に付けたものが正しく力を扱えるよう導くことにしたというのだ。

 しかし、ハイネは気まずげな表情で言葉を切り、

「――女神の意識に負けて、嬢ちゃんがその身体を明け渡す恐れもある」

 そう告げられた言葉に、マサアたちの口から驚愕の声が漏れた。

「なっ?!」
「なんでそんな」

 顔を歪めるマサアの傍でタヤクも思わず声を出し、ミカノも眉根を顰めてハイネを見つめている。
 しかし、答えは別の人物からもたらされた。

「――オーバーフロー、ね」

 呟いたのはキーナであった。
 小さな声はしかしよく透り、マサアらの耳を打つ。

「ミナミの魔力と女神の魔力では、女神の方が圧倒的に強いわ。腕輪から流れ込む女神の力にミナミの力では耐え切れず、溢れだした魔力を支えるために、女神の残留意識がミナミの意識を抑え込んで出てきてしまうのよ」
「そういうこと」

 ふぅっ、と息を吐いたハイネはその瞳をミナミに向けたまま固定する。血に塗れて気を失っている少女を警戒するかのように。

「残留意識ってのはセンサイらしくて、こうやって無理矢理に解放すると理性をなくして暴走することもあるってハナシだ。それを防ぐために結界を張ってもらった、ってーワケだけど……仮にも“神”に効くかどうかは分かんねぇけどな」
「お前……っ」

 ぐ、と拳を握りしめていまにも飛び掛かりそうなマサアを制したのはケイヤだった。頭が沸騰しているマサアとは正反対に、冷静な眼差しで静かに首を振る。

「ミナミが自分で決めたことだ。とやかく言うな」

 淡々と言う彼にマサアは何も返せない。
 たしかに、これは彼女が決めたことだ。マサアがどうこう言っても仕方のないことであった。

 しかし、やはりミナミが傷を負う姿がマサアには苦痛だった。
 タヤクはそんな彼を痛ましげな表情で見やる。

「あー……あのよ……」

 少しだけ心苦しそうな表情をしたハイネが再び口を開きかけたその時。


『?!』


 ミナミを中心として、砂漠の砂が渦を巻いて舞い上がる。すさまじい風が音を立てて集まり始めた。

「っ! ミナミっ!!」
「うおぉ、きたきたぁっ!」

 ハイネの歓喜の声もすぐに風によって掻き消された。まともに目も開けられない砂嵐の中、両の足を砂に埋めてでも立っていようとするのだが、あまりの強風によろめく。

「う……っ」
「――キーナ」

 名を呼ぶケイヤに言葉を返すことも出来ない。ミナミを囲う結界の周りは、それほどまでに強い暴風の中心地となっていた。
 ケイヤとキーナとは離れた位置にいるミカノとタヤクも、同じように風に押されてよろめいていた。

「ミナミっ!」

 どうにか現状を把握しようと薄目を開けたマサアが叫ぶ。口の中に砂が入ったが、そんなものは気にもならない。
 砂塵の中見たミナミの瞳は、色を無くしていた。

「……」

 ゆっくりと宙へ浮かんで行った小さな体は砂地から一メートルほどの高さでぴたりと止まり、両手は相変わらずだらりと垂らされたまま、風にあおられた髪が波のようにうねってははためく。
 左腕を伝っていた血は風と砂に紛れて消え、白い肌に裂けた傷跡が露わになった。

 風は、ミナミを中心に巻き起こされているのだ。

「ミナ……っ」

 マサアの声も届いていないようで、その小さな口は何事かを呟くように、はくはくと動いていた。

 事態が把握出来ないケイヤとタヤクは、結界を維持しているキーナとミカノをそのままに、マサアの傍にいるハイネの元へと駆け寄った。
 彼は興奮したような、ひきつった笑みで二人を迎える。その額には汗が滲んでいた。

「おいおいおい、きたぞきたぞ! 解放成功じゃねーか!」
「なんでそんなことが分かるんだ?!」
「分かんねーのかよ、騎士三号くんっ!」
「タヤクだっ!!」

 この風のせいで、近くにいてもかなりの大声でなければなにも聞こえない。今までへらへらと笑っていたハイネの眼が変わった、とタヤクは感じた。
 ハイネはじっと、ミナミから目を離さずに言う。

「慈愛の女神の象徴は“風”だ! 風を使って世界を均して大地を作った! “これ”も女神の力の奔流が嬢ちゃんの体から漏れ出てんだろうよっ!」

 言われてばっ、とミナミを振り向く。その瞳はいまは静かに閉じられおり、それに合わせたかのように風は徐々に収まってきたが、タヤクの胸には嫌な予感がざわざわと押し寄せていた。

「……っ!」

 誰もが息を呑み見守るなか、やがて風は完全に止まって、舞い上がっていた砂は雨のようにバラバラとミナミを除く全員の上に降り注ぐ。剥き出しの肩に砂がばちばちと当たるのは痛かったが、マサアは微動だにせずミナミのことを見つめ続ける。


――と。


「ミカノちゃん、マサアっ!」

 叫ぶキーナの声。
 同時に、両腕に走る衝撃。

「っ!!」
「んぁっ?!」

 ぐんっ、とキーナの結界がしなり、二人の結界を震わす。
 それに呼応するように三重の結界が強くしなり、そして――



 結界が弾け飛んだ。



「っあ!?」
「ふわっ?!」

 ミナミから強引に押し出される力に打ち勝てず、ミカノとマサアは魔法陣から弾き飛ばされ、水面を跳ねる石のように砂地を跳ねて転がった。結界を内側から破壊された衝撃も加わっていたのだろう。

「う、ぐ……っ!」

 柔らかな砂地に投げ出されたとはいえ、受けた衝撃は殺しきれるものではなかった。咄嗟に取った受け身も、場所が不安定なだけに効果はあまりない。
 呻きつつも痛む体に耐えて上半身を持ち上げたミカノは、その目に血塗れの友人を映した。

「……っく!」

 キーナはただ一人結界を保ってはいたが、細い両腕からは真っ赤な血が止めどなく流れていた。鋭い刃物で切り裂かれたような傷口は、どれも赤い肉を見せてぱっくりと開いている。
 普段は儚げで美しい表情も、いまは苦痛に歪み、額には汗が滲んでいたが、結界を維持する意志だけは強く保ったままだ。

「キーナちゃんっ!」

 慌てて結界を張り直そうとしたミカノは元いた場所へ駆けよるも、結界を壊した“何か”に弾き出されてしまう。


そこは、すでにキーナが準備した“自分達の空間”ではなく、暴走する女神の領域と化していた。

伽世
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伽世

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