◆ 紅い華
「私たちはこの目の呪いを彼に付けられた。未来永劫、彼がすることをこの目に焼き付けられるよう。死んでも死ねないよう。肉体が朽ち果てた今も、魂だけでこうして生きている」
ローブの中から聖水瓶を取り出す。
「苦しかったわ。景色も人も変わっていくのに、自分だけ変わらない。呪いの眼は私たちの意識にずっと囁き続けるの。“お前らが憎い”って」
ゆっくりと、瓶の中身をキーナが敷いた魔法陣の上へと垂らしていく。強風渦巻く中でも吹き飛ぶことなく、それはとくとくと注がれていった。
「憎い。辛い。苦しい。どうして。返せ。耳元で延々囁かれるように繰り返されるのよ」
空になった瓶を砂地に叩きつける。すると瓶はいとも容易に微塵になり、その破片はキラキラと輝きながら、聖水の上へと均等に散らばっていく。
「死んでも眠れることを知ったけど、声がうるさくて眠れなかったわ。まぁ、睡眠不足なんてものもなかったけれど」
こぶし大ほどのルビーの原石を取り出し、何やら白い粉を振りかける。ルビーはあっという間に紅い粉へと変わった。
両の手から溢れ零れるそれは風に乗って砂漠の砂へと混じり、瞬間、魔法陣一帯の砂全てが真っ赤に染め上げられ、魔法陣を白く浮かび上がらせた。
ここまでの過程を淡々と話しながら行うリイセを、誰もが黙って見守っていた。
「彼が優しい人だっていうのは分かっていた。同じ村に住んでいたのだから。それでも、妬みや嫉みはついてしまうのだと身をもって知ったわ」
やけに細く長い針を取り出し、ミナミに一番近い六紡星の頂点に投げて刺す。強風にもかかわらず突き刺さったそれは、あっという間に魔法陣を駆け巡り、端と端が繋がった瞬間だけ眩く光った。
「いまも、彼が憎いのかもしれない。でもそれも分からない。あまりにも長い時を過ごしてしまったから」
リイセ本人が言う通り、彼女の言葉には“憎しみ”と呼べるような激しい感情は見られなかった。あるいは憎しみが深すぎて煮詰まり、そのせいで表面上は大人しく見えるだけなのかも知れない、とタヤクは考える。
語っている間もリイセの口は淀みなく動き続けていたが、「でも」と呟いた言葉のみ、僅かな熱が籠っていることに気が付いた。
「でも、今がチャンスだと思ったわ。ローウェンの話を聞いて」
「ロウ? ロウがどうした?」
自分の仲間の名が唐突に出て、ぴくりとハイネが反応する。
ハイネとリイセは“鳥籠”にいた時にはそれなりに話をしていたが、彼女とロウが何かを話しているところを見た覚えはあまりなかったのだ。
ハイネは“騎士”であり、ロウと彼女はハイネを管理する“飼育者”の側の人間である。
自分の知らないことがあったとしてもおかしくはないのだが、二人の関係が“飼育者”という以上に親しいような印象をハイネは抱いた。
若干とげのある視線を受けながらも、ちらりとハイネを見ただけで、リイセはすぐに話を続けた。
「ローウェンは言っていたわ。とんでもないのが五人もいる、って。どれも歴代の“花嫁”や“騎士”が霞むほど。カレアナンで確信した、って」
白い反物をするりとローブの袖口から取り出し空中に投げると、それは四本に別れてミナミの四肢へするする巻きついていく。両手両足首を縛ったそれは、ミナミの体を大の字の体勢で空中に張り付けた。
「今度は“封印”なんかではなく、“消滅”させることが出来るって。この“呪われた目”から解放されて、死ねる、って」
今度ははっきりと。
リイセの言葉は歓喜に震えていた。
白黒反転した瞳はミカノやマサアを順繰りに見回し、感情のなかった顔には恍惚とした感情が浮かび上がっていた。
「……嬉しかったわ。すごく。だから“鳥籠”から離反して、私たちは貴方達の手助けに回ることにしたの。ハイネさんのせいでこんなに表立っちゃったけれどね」
くすりと笑う口元は実に普通で、ハイネは思わず舌打ちをした。
「“鳥籠”の人たちを解放したのはもう必要ないから。そんなに多くいても、無駄でしょう?これでハイネさんの疑問点は終了でいいかしら?」
「いや、ちょっと待て」
「言っておきますけれど、私はあなたについていく気はないですから。私は私の考えに基づいて動きます。もう“鳥籠”の意味はない」
きっぱりと言い切り、ハイネと話すことはないと言わんばかりに口を閉じる。取りつく島もないその様子に、ハイネは舌打ちをした。
その隙を縫って、マサアがようやくリイセに尋ねる。
「なぁ、あんたがやってることはミナミを助けるためだよな? ミナミは助けられるんだよな?! これ、止められるよな?!」
必死にすがるようなその姿に、キーナは目を細めた。
いまだ自分の結界で押し留めている“ミナミ”の力は勢い衰えず、それでも幼馴染のこの男が心配だった。それはケイヤも、そしてタヤクも同じ思いである。
ミカノはただじっと、リイセのことを睨むように見つめる。
リイセはマサアのほうを振り向き、そして告げた。
「無理です」
「……え」
「無理なんです。止められない」
白い反物が、ミナミの手足を引き千切らんばかりに張った。
「これは、あの子を殺すための準備」
「は……」
「幸い、あの子は“鳥籠”で育てたわけじゃない、たまたま貴方達と出会って、たまたま腕輪を手に入れただけの、普通の子。まだ残っている“鳥籠”からきちんと選べば」
「っざけんなぁっ!!」
――怒号とともにマサアが駆けた。
「マサアっ!」
「お前、何やってんだっ!」
ひどい砂嵐の中心にいるミナミ目掛けて必死に走る。あまりに強い魔力によるその風はキーナを斬り裂いたのと同じく、マサアの全身にも傷を刻んでいく。
それでも、マサアは進むことを諦めなかった。
凶器の風に身を晒しながら、ミナミの四肢に絡む反物にしがみつく。布のはずなのだが、魔力が通っているのであろうそれは鉄のように硬かった。
なんとか取り外そうと力を入れるが反物はびくともしない。力を入れるたびに膨らむ腕を、風が容赦なく刻み、砂がざらりと傷を撫でていく。
「マサアっ!」
「死なせるかっ!」
「どいて下さい。たとえその子が死んでも、代わりはいる」
言った瞬間、リイセの体がびくっと震えた。その背筋をぞわぞわとなにかが這い上がり、冷や汗が一筋流れ落ちる。
リイセがそちらを向くよりも早く、
「いないわよ、そんなもん」
今まで沈黙を保っていたミカノが、リイセの言葉を叩き切った。
襲い来る女神の凶刃からキーナを護る壁役をケイヤに任せて、彼女はゆっくりとリイセへと歩む。
「いないわよ、ミナミの代わりなんて」
「いるわ、もっと純粋に能力の高い……」
「いらない、そんなヤツ」
緑の瞳が昏く澱む。
「あたしらが一緒にいたいのはミナミ。他なんていらない。ミナミは他にいない」
「……言いたいことは分かるけれど、でも」
「分かってない。あんたは結局、自分らの都合しか考えないんだ。だから“破壊神”の大事な人? それも殺せた。“人柱”なんていうテも実行できた」
「っ」
いつもなら耳に響く甲高い声が、いまは腹の底から震え上がるような凄味を孕んでリイセを追い詰めていく。
「下がってて。あんたにミナミは殺させない」
ミカノの周りに魔力障壁が生まれ、真っ赤な髪がたなびく。そのまま右手をかざし、“ミナミ”が発生させる魔力の風を打ち消すために、自身の魔力を横からぶつけた。
「ミカノちゃん……」
「頑張ってキーナちゃん。あたしはキーナちゃんのサポートくらいしか出来ないから」
「……」
「絶対殺させないから」
「……うん」
キーナはミカノに向かってはっきりと頷き、再び二人で“ミナミ”の風を止めるために魔力を込めた。
一方でミカノに気圧されたリイセは砂漠にへたり込んでいた。
その眼は光を宿しておらず、傍から見ていたタヤクはあまりのおとなしさに怪訝そうな視線を向けていた。しかしそれもすぐにミカノとキーナへ逸らされる。
ケイヤとハイネもミナミを助けようと奮闘する二人の様子を伺っており、リイセに注視する者は誰もいなくなった。
「ミナミっ! 助けるからっ! 大丈夫だからっ!」
砂漠の砂を自身の血で濡らしながら、それでもマサアは布を引き千切ることを諦めなかった。その布も、彼の血によって赤く染まっている。
女神の巻き起こす風は彼の皮膚も肉も切り裂き、幾つもの裂け目を作っても止むことはなく、ただただマサアは傷つくだけであった。
「助けるからっ! 大丈夫だかっ!?」
大声を出す為に開けた口の端が、ビッ、という音を立てて切れる。血の味が口内に広まっても、彼は叫ぶことを止めなかった。
――何をしているのだろう
リイセは単純にそう思った。
せっかくの“花嫁”と“騎士”が、わざわざ自分達から死に向かって行っている。
“花嫁”たちは魔力のことも気にせず、魂を削るように力を出し続け。
“騎士”はただの少女を助けるという無意味なことのために、傷を負い続けている。
――あぁ、私はそれを止めなきゃいけないんだ
ふらりと立ち上がるリイセを、タヤクは目の端に捉えた。続いてハイネもそれに気が付いたようで、二人そろって訝しげな眼差しで彼女の動きに注目する。
二人の視線に気が付いているのかいないのか、彼女は口の中でブツブツと呟いていた。
「だって、死なないのも死ねないのも彼のせいなのよ? 女神に自分だけ可愛がられて。その力を振るったのは彼なのよ? なんでこんな何千年も何万年も彷徨って」
その内容に、タヤクは不快感から、ハイネはわずかな憐れみから顔を顰めた。
「だってそうじゃない。私たちはここで終わるわけにはいかないのよ。彼らに進んでもらってあいつを殺してもらわなくちゃ眠れもしない」
ふと、タヤクの眼がリイセの右手を捉える。
その手には、魔力を宿したナイフが一本。
“やばい”
漠然とした悪寒がタヤクの背筋を粟立たせる。ハイネはまだ気が付いていない。
『危ない』
そう叫ぶ前に、リイセが動いた。
「そこを退きなさいっ!!」
喉が切れるような声でリイセは叫び、同時にナイフが振り投げられた。瞬間、一本だったはずのナイフは中空で十数本に増え、一斉にミナミへと襲い掛かる。
タヤクがリイセに駆け寄った時にはもう間に合わず、ハイネがナイフに手を伸ばしたが、それは彼の手のひらを薄く裂いて通り過ぎただけだった。
ケイヤが止めに入るには遠すぎて、ミカノやキーナではどうしようも出来なかった。
ナイフはどれも真っ直ぐにミナミへ向かって飛んでいき、このままいけば彼女の全身に万遍なく突き刺さることは容易に想像できた。
「ミナミっ! マサアっ!!」
「間に合ってっ!」
どうにも出来ない。
それでも誰かは声を上げ、誰かはナイフの進路を遮ろうとした。
そんな中で――ケイヤは、思った。
スローモーションの出来事とは、こういうことなのだろうと。
誰もが向けた視線の中。
一際大きな紅い華が、砂漠に咲いた。