◆ 祝福されし者
「ケイヤ、マサア……タヤク?」
「キーナ?」
どこか呂律の回らない舌で声をかけてきたのは、階下で寝ているはずのキーナだった。
疲れのせいか先ほどまで眠っていたせいか、足取りもふらふらしている。すかさずタヤクが腕を引き、ミナミが寝ていた向かいのベッドへと腰掛けさせる。
ほうっ、と吐息一つ、「寝てしまってたわね、ごめんなさい」と、消え入るような声で彼女は謝罪した。
「気にするな、って。体力のないお前さんに、今回みたいな走り通しはきつかっただろうし」
微笑みながら気遣うタヤクに「ありがとう」と短く返す。傍に来たケイヤを見上げれば、彼は目を伏せ沈黙しか返さなかったが、キーナには十分彼の考えがわかっていた。それ故に、同じように「ありがとう」とだけ言って、淡く微笑む。
そして向かいのベッドに座るマサアと、彼が抱きかかえる少女の姿に気が付いた。
「マサア、その子は?」
「ん? えっと」
呼ばれたミナミはびくんっ、と肩を跳ねさせて、ますますマサアにしがみつく。その様子にキーナは不思議そうに首を傾げ、タヤクがそっと耳打ちをした。
ミナミの名と、彼女がどうしてここにいたのかを。
途中、キーナの表情が蒼褪めたが、それもすぐに元に戻る。ケイヤら三人に心配させたくない、という思いもあったのだが……
――いまはこの子のことのほうが大事ね
しばらく考えるように口元に手を置いていた彼女であったが、数秒ののち座っていたベッドから立ち上がり、ゆっくりとマサアとミナミに近付く。
ミナミは一度もキーナを見ない。
「こんばんは、ミナミ。驚かせてしまってごめんなさい」
膝を付き、目線をミナミより下げて声をかける。
「私はキーナ・プレアというの。マサアの仲間よ」
「……マサアの?」
彼女が一番懐いているとみられるマサアの名を出すと、ようやくミナミは伏せていた顔を上げ、キーナを見た。
マサアにしがみついたままであったが、それでも良いとキーナは思う。
「えぇ。ケイヤとタヤクも、私の大切な仲間よ」
「……」
おずおずと自分を見てくるミナミに、にこりと微笑んでやる。その微笑みに安堵したのか、少女の体から力が抜けたのがマサアには分かった。
マサアの膝に乗ったまま、キーナと向き合うように座り直す。片手でマサアの服を掴んだままだったが、もう片方の手は自身の膝の上で軽く握られているだけだった。
淡い月明かりに照らされて初めて見るミナミの顔には、先ほど泣いた涙の痕が残っている。キーナはそれを悲しそうに目を細めて見、そっと指先で拭ってやった。手を伸ばされた瞬間は体を竦ませていたミナミだったが、それもすぐに治まり、ふっと目を閉じてされるがままにしている。
そうして、キーナの白い指が少女の頬に残った痣の一つに触れた。
「……痛くはない?」
「え? あ、うん。そこはけっこう前に打たれたあとだし」
問われた意味が一瞬理解できず、きょとんっ、と目を丸くしたミナミだったが、すぐに首を振って笑う。
彼女の笑みを受けて、キーナは唇を真一文字に引き締める。その黒い瞳はミナミを真っ直ぐに見つめ、そのままもう一度、先ほどなぞった痣に触れた。
「う?」
ぽうっ、とキーナの指先に柔らかな光が灯り、触れられた箇所がじんわりと温かくなった気がした。
「これで……」
言いながら、触れていた指先を離す。
ミナミが不思議そうに首を傾げながらマサアのことを見上げると、彼は「触ってみなよ」と笑って彼女の手を取った。されるがまま、自分の頬に触れる。
「え?」
思わず声が漏れ、何度も何度もそこを擦る。ぷっくりと腫れて膨れていたそこは、いまや指先が引っ掛かることもなく、するりと顎まで簡単に到達してしまった。
驚いたようにキーナを振り向くと、彼女は月明かりに溶けるような淡い微笑みを浮かべていた。そして両の手で水を掬う器の形を作り、ミナミの頭上へと掲げる。つられて自分の真上を見上げる彼女の瞳には、さらさらと砂を零すように光の滴を自分に降らすキーナの手が映った。
きらきらと輝く光の粒子は、ミナミの頭から爪先まで降り注ぐ。その光が消えるのと同時に、彼女の全身にあった傷や痣は、きれいさっぱりなくなっていたのだった。
「すごい……」
「あなたのおじい様やおばあ様も治癒術が使えたのでしょう?」
呆けたように呟くミナミの言葉に問いかけると、彼女はぶんぶんと首を強く振って、
「詠唱すれば出来るけど、何にも言わないでこんないっぺんに回復なんてできないわ!」
と、やや興奮気味に返した。
詠唱とは魔法を発動するために必要な言葉である。
通常、発動させる術に応じて必要な詠唱が決まっている。一口に“白魔法の治癒術”とはいっても、下位から高位まで実に数百種の魔法があるのだ。もちろん、効果も範囲もさまざまである。
白魔法は術ごとに対応する神々から力を借り受けて発動させるものであり、詠唱とは彼らに力を貸してくれるよう頼み願う意味となっている。
故に、詠唱を間違えれば全く別の術が発動したり、力の貸主の不興を買って発動すらしなかったりするのだ。
「詠唱破棄ができるのはよっぽど下位の魔法だけだと思ってたけど」
「そうね、下位魔法なら詠唱がなくても発動はできるわね」
興味津々、といったように顔を輝かせるミナミに頷き答える。
長話になると思ったのか、タヤクとケイヤはいつの間にかそれぞれ窓とドアの傍へ移動し、壁にもたれるようにして話に耳を澄ましていた。
「でも、いまわたしにかけてくれた魔法は高位魔法でしょ?」
「いいえ。精霊魔法の水属性、中位の治癒術よ」
「中位?! それでこんなに効果が出るの?」
驚いたように目を見開くミナミに、「水属性は相性がいいのよ」とキーナは軽く返したが、それがそんなに簡単なものではないことをマサアは知っている。
彼も下位のみではあるが、魔術を齧っている分それがどれほどのことか分かっているのだ。
魔法は下位、中位、高位の順に威力や効果が増していくが、下位魔法は世界中に溢れる魔力の残滓を掻き集めて発動させる術である。一方で中位魔法は術に対応する力の貸主が存在する為、下位よりも効果や威力が高くなっている。
では、“中位と高位の違いは?”と問われれば、“力の貸主の階級が違う”と答えるべきであろう。
より高位の存在の力を借り受けるのが高位魔法であり、人の魔力では扱いきれない、そもそも詠唱を唱え上げることさえ難しいと言われている。
研究肌の魔導士はともかく、ミナミの祖父母のように治癒院を経営しているクレリックや、旅に出て見聞を広めるような魔導士たちは、中位の魔法くらい扱えなければ生きていけない。
それでもキーナのように、“詠唱破棄且つ術名を詠みあげない”で中位の魔法を発動させることなど、普通の魔導士では出来ないことであった。
高位の術を扱える魔導士であっても滅多にいないであろう。
詠唱とは、人間よりも高位の存在に力を貸してくれるよう、頼み、請う言葉であるが故に、無詠唱――詠唱を破棄するということは、“頼む”のではなく、“力を寄越せ”と言っているも同じ行為だということになる。
そしてその効果は、ミナミが高位魔法だと錯覚するほどに優れていた。
術の効果や威力は力の貸主によって左右されるが、その術を発動させる術者の力量にも影響される。
炎の矢を出現させる魔法でも、二、三本しか出せない者もいれば、十本も二十本も出現させるような者もいるのだ。
そしてキーナは、間違いなく後者の魔導士である。
そういった魔導士たちは“祝福されし者”や“力を服従させし者”などと、仰々しい名で呼ばれることが多い。力の貸主たちに愛されているがゆえに無条件で力を借りられる。高位存在ですら平伏し、服従を誓うほどに魔力が溢れている存在である。
そういう意味合いを兼ねて呼ばれるようになったと言う。
それをかつて祖父母に聞いたのであろう、ミナミは大きな目をさらに丸く見開きながら、
「キーナは精霊たちに愛されているのね!」
と、興奮気味に言うも、言われた本人は「どうなのかしらね」と冷めたように返すだけであった。
「あなたも大分、精霊や神々に愛されているようだけれど」
「なんのこと?」
彼女の言葉に不思議そうに首を傾げたミナミだったが、その言葉には答えず、キーナが再び少女に向かって両手をかざす。そうして彼女が小さく何事かを呟いたのと同時に、その場にいた全員の耳に、ガラスが砕け散るような高く澄んだ音が聞こえた。
「……なに、いまの?」
自身の体から聞こえてきた音に動揺し、顔を上げて不安気にマサアを見つめるミナミ。しかし、彼女を抱えているマサアにもキーナが何をしたのかはわからず、その目を見つめ返すことしかできなかった。
「キーナ、なにをしたんだ?」
その場にいる全員を代表して、タヤクがシンプルに問いかける。
彼の言葉にミナミもマサアもキーナを見つめ、ケイヤはただ一人だけ、目を伏せて壁にもたれた体勢を崩さなかった。
問われたキーナはミナミの柔らかな髪を優しく撫でてやりながら、
「ミナミに掛けられていた術を解除したの」
と、静かな声で語る。
「わたしにかけられていた、魔法?」
「えぇ」
不安げに、それ以上に興味を持ってミナミが復唱すると、キーナはこくりと頷いて見せた。
「あなたの魔力に迷彩魔法がかけられていたの」
「迷彩魔法……?」
聞き慣れない魔法に首を傾げる。迷彩魔法とは“物事を人の意識から逸らし、隠してしまう”魔法である。
キーナはミナミの魔力に迷彩魔法がかけられていた、と言った。魔法がかけられていた為に、協会の魔道士が彼女を調べても魔力が感知できなかったのだ、と。
「きっと、あなたのおじい様かおばあ様が、あなたのことを思ってかけられたのね」
「え……?」
儚げな月明かりの様な微笑みを浮かべながら、キーナはそう告げた。
ミナミの両親は、祖父母が働いた金で好き放題に暮らしていたことが、彼女の話からは伺えた。それは自分たちの親だけではなく、娘にまで手が伸びるところだったのだ。
もしも協会の者が「この娘には優れた魔力の資質がある」などと言えば、両親は喜んで娘を協会へ預け、祖父母の跡を継がせたであろう。そうして死ぬまで金を稼がせることを考えたのではないか。
祖父母はそれを分かっていたからこそ、少女の魔力を迷彩魔法で覆い隠し、協会の目を欺いたのだ。彼女が自分の親に縛られないように。
「協会の目を誤魔化すのも容易ではないと思うわ。魔法に精通している組織ですもの」
「え、でも……え?」
戸惑い目をしばたくミナミの頬に、白い指先が優しく触れる。
「知らず知らずのうちに、あなたがおじい様たちの手助けをしていたのかもしれない。そうでなくても、おじい様とおばあ様はあなたの未来を護ることに、必死だったのでしょうね」
その行為が“使えない娘を売ってすぐに現金を手にする”という両親の短絡的な思考を呼び寄せてしまい、家を飛び出したこの現状を招いてしまっていても。
――どうぞ この子をお守りください
――精霊よ この子の未来を照らしてください
それは、必死の祈りであった。
ただ一人の孫の未来を憂い、将来を案じ、いまを救うための祖父母の祈り。
「おじいちゃん……おばあちゃ……っ」
ぼろぼろと大粒の涙を零して泣き出したミナミに一瞬驚いたマサアだったが、すぐに彼女の背をあやすようにたたいてやった。
彼の大きな手は温かく、優しく、ミナミはただそれに縋って泣く。
「すっげー良いじいちゃんとばあちゃんだったんだな」
笑いながらそう声をかければ、彼女は泣きながらもこくこく頷いた。その様子をタヤクやキーナも微笑みながら眺めていた。