◆ 疑問

 洗剤が泡を立てて皿をキレイにしていく。くるくると目まぐるしいほどに色を変えて。

 夕餉を摂った後の片付け。
 今日は、タヤクとキーナの順番だった。

「タヤクが洗ってくれると助かるわ。お皿も割れないし、洗剤もきれいに落としてくれるし」
「割るのはマサアの馬鹿力だろ? 洗剤だって丁寧に落とせばいいだけさ。早く終わったほうがお前さんもいいだろう?」

 そう答えると、彼女は柔らかくふわりと笑った。彼女の笑い方は優しげで好きだが、どちらかというと、儚い。
 存在の希薄な微笑みだなと思いながら、タヤクの脳裏に、ふと一人の姿が浮かんだ。



人の目を惹きつけて止まない、鮮やかすぎる真紅の髪。
それに合わせたかのような、淡紅の中に沈む緑の瞳。


彼女は、美しかった。


存在を強調するようによく笑い、怒り、くるくると変わる感情を表に出し。
他人に甘えすぎることなく、誰よりも凛々しく己の意志を貫き……



「――ミカノちゃんも連れて行きたかった?」

 突然のキーナの声に、言われた名に、動揺は隠せなかった。思わず目が宙を泳ぐ。
 それを見て、彼女はまた薄く微笑った。

「あの子とあなたは仲が良かったものね」
「別に。オレはキーナを逃がしたかったんだよ」
「あの子たちに頼まれたんじゃなくって?」

 その言葉に、普段は穏やかなタヤクの表情が少しだけ険しくなった。憮然、と称してもいい。キーナのほうを見ることも無く、わずかに尖った口調で返す。

「……オレの意志だ。お前を逃がしたら駄目だったのか?」
「いいえ……ありがとう。でも」
「でも、なんだ?」

 問いかけると、キーナは瞬き一つ分呼吸を開ける。

「この二年、彼女を助けに行こうとしていたでしょう?」
「っ!」


――静かに、皿が重ねられる音がした。


 彼女は先を促すでも答えを求めるでもなく、ただ与えられた仕事を黙々とこなしていく。タヤクもしばらく呆けたのち、蛇口を思い切りよくひねって手についた泡を洗い流した。

 最後の一枚を拭き終わった時だったろうか。
 タヤクは少しだけ困ったように笑って言った。

「助けに行きたかったよ」

 短い言葉。
 それでも思いは痛いほどに募って。

「……そう」
「ほら、後はやっておくから、お前は部屋に戻れ。明日はオレが体術を教えるんだからな。しっかり寝ておかないと知らないぞ?」
「……えぇ」

 いつもと変わらない、無邪気さと穏やかさを混ぜた笑顔でタヤクは言う。
 いつものように。

 だから、キーナもいつものように返した。
 普通でなければいけないのだ。

 濡れたフキンをきちんと掛け、「おやすみ」と言って台所を後にする。タヤクはその背中を見つめ、彼女の姿が見えなくなるまで、ひらひらと左手を振り続けた。


◆ ◆ ◆


「キーナ、寝ちゃった?」

 月が中天に昇り瞼が重くなってきたころ、子供特有の高い声が聞こえた。

 眠さに負けぬよう、明かりの落とされた部屋の暗闇の中、緩慢な瞬きを繰り返す。そうしているうちに段々と目が慣れていき、いつの間に部屋へ入っていたのか、ミナミが顔を覗き込んでいるのに気が付いた。
 そこでようやく、自分を呼び起こしたのがミナミだと思い当たる。

 この広い屋敷には、ダイニングや風呂場などの共有スペースを除いてもなお多くの部屋があり、屋根裏までもが存在した。

 いつ誰が……“なに”が侵入してくるか分からないので、ミナミを二階の真ん中に位置する部屋に置き、左右にマサアとキーナの部屋を用意した。さらに屋根裏にケイヤを、ミナミにあてた部屋の下にタヤクが暮らすことになった。
 こうすれば戦闘に慣れていない彼女でも、窓か廊下のみを警戒すればいいという寸法だ。

 ベッドは一階の使用人部屋にあった二段ベッドをばらして各部屋に置き、それ以外は元々あったものを使用している。

「キーナ?」

 不安げな声が聞こえるが、呼びかけられている当の本人の耳には届いてなかった。寝つきが悪いくせに寝起きも悪い。今のような状態は特に中途半端で一番タチが悪いのかもしれない。


――寝起きに関しては“あの子”のほうが悪いけれどね


 ぼんやりとそんなことを思っていたら口の端に笑みが上ったらしく、ミナミが訝しげに見つめてくる。その視線に軽く頭を振ってから、ようやくキーナは声をかけたのだった。

「どうしたのかしら?」

 眠さのせいか、キーナの声はわずかに掠れていた。ミナミはそれに頓着せず「ごめんね」と小さく謝ってから口を開く。

「あのね、ちょっと教えてほしいの」
「なに?」

 優しい眼差しに背を押されるように、

「あの……“花嫁”って、なんのこと?」

 そう、問いを投げ掛けた。それに対してキーナは、ミナミが思っていたよりも変わらない表情で、

「あぁ、マサアかしら、教えたのは」

 と、頬に手を添えて呟いただけだった。しょうのない子ね、と子供を諌める母親のような穏やかさがそこには滲んでいる。
 そんな彼女のことを、ミナミも不思議な面持ちで眺めていた。


――キーナ、って不思議……


 自分より幾つか上に当たる女性の横顔をまじまじと見つめる。こんなに間近で見たのは初めてかもしれない。

 薄いカーテンを引いただけの窓の下。シンプルな木製のベッドに病的なまでに白いシーツがきっちりと敷かれ、キーナは上体だけを起こして座っていた。
 月明かりの下、彼女の濡羽色の黒髪は見事艶やかに浮かび上がり、白い頬に微妙な陰影をつける。


――すっごく……なんだろう、綺麗? うん、綺麗


 ほう、と熱に浮かされたようにミナミは吐息を漏らす。

 か細く儚げな人。
 それがキーナのことをぴたりと言い表しているとミナミは思った。

 いつの間に空けていたのだろう、微風が窓から入り込み、キーナの黒髪を揺らす。それと同時に、黒と紫の瞳がかち合った。

「!!」
「どうしたの? そんなに驚いて」
「べ、別にっ!」

 抑揚のない声で問われて、ミナミはさらに慌てふためいて言葉を返す。

「そ、それで結局花嫁ってなんなの? 誰かのお嫁さんになるのとは違うの?」

 その言葉に、キーナにしては本当に珍しく、ぽかんと目を丸く見開いてミナミを見つめる。まるで自分が知っている“花嫁”と彼女が言う“花嫁”が、全く違うものだと気が付いたという風に。

「そうよね、普通はそういうものよね……」
「?」

 小さく吐き出されたキーナの言葉は、ミナミの耳には届かない。そうして彼女はミナミの目をじっ、と見つめて、

「マサアの花嫁にでもなれると思った?」
「うっ」

 逆にキーナが問い返せば、少女は図星と言わんばかりに言葉に詰まった。そんな彼女を微笑ましげに見ながら、言う。

「無理、なのよ」
「……え?」

 どういうこと?

 そう訊ねようとした矢先、勢いよくキーナの部屋の扉が叩き開けられた。

伽世
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伽世

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