† 十八の罪――地獄元帥(参)
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もう、どれほど進んだのだろうか。深部に来ているのだという感覚はあるが、延々と続く迷宮に、気が遠くなりそうだった。
「いつになくまじめだね。きみがそんなに緊張してると、こっちまで力入っちゃうじゃん」
傍らの三条が呼びかけてくる。
「気持ちわりい…………」
俺は前方を睨んだまま、一言だけ声にした。
「まあ、たしかにいい感じはしないけど――」
「似てんだわ」
「へっ……?」
覗き込んでくる彼女。
「ここの澱みきった空気は、兄貴と親父が死んだ日の臭いによく似てやがる」
「……信雄、あのときのことは思い出せないって――――」
はっきりと憶えていないのは事実だが、忘れたのではない。
いや、忘れるはずもなかった。
あの痛み、苦しみ、そして恐怖――そうだ、二人は自殺したんじゃない。
「ぅうう、助け……て…………」
薄れゆく意識の中で瞳に焼きついたのは、天井から壁までを埋め尽くし、泳ぐようにうごめく、無数のおどろおどろしい黒影と、彼らの中央に佇立する青年の姿。今や漆黒に支配された部屋では、その表情までは読み取れなかったが、その狂気じみた片目だけが爛々と光っていた。
「……兄貴、どうして――――」
なぜ忘れていたのだろうか? 思い出さないようにしていただけか。
何より、どこかで嘘だと信じたい自分がいた。それが悪夢で済めば良い、と。
だが、あらためて視たら確信(わか)った――この記憶は間違いではない。この神殿に入ってからの尋常じゃない悪寒が物語っている。
(二人とも死んだことになってるけど、親父を殺した後、兄貴はどこに……?)
違う。誰よりも平和な世を願って頑張っていた兄貴が殺しなんて、そんなことをする訳が――――
「信雄ッ! あぶな――――」
間一髪。反らした半身を掠めるようにして、数発の魔力弾が通り抜けていった。
上の空に不意討ちでもやり過ごせたのは、ルシファーとつながっているおかげだろう。しかし、あの湧き上がる魔力は感じられない。茅原との戦いに、よほど全力で臨んでいるようだ。
「なかなかの魔力じゃねーか。当たったらどうしてくれんだ」
次弾を魔法陣で受け止めつつ、攻撃のあった方へと向き直る。
「隊長、あれ……!」
「ここまで深入りして出てきたってことは、自立防衛的な使い魔みたいだね」
得物を失っている俺を庇うように、三条が歩み出た。
「ああ、それに――大物もお出ましのようだぜ」
「てごわいぞ……!」
並々ならぬ気配に、ベルゼブブも身構える。
「……信雄、先にいって」
「俺はバランス型の妖屠だぜ? こんな連中、魔術だけでも――」
「この空間は主をどうにかしない限り、もとには戻らない。みんなもいるし、こっちは大丈夫。きみの読みが当たってるなら、きみがいかなきゃ」
確かな力がこもっている、彼女のまなざし。
「責任重大だな。分かってるよ、死んでもこのバカげた祭を止めてやる」
「心強いけど、死んだら本末転倒だよ。戦う心を、立ち向かう勇気をくれたのはきみだったね……でもあの後きみ、すぐ転校しちゃったんだもん。あのときのお礼、まだ言えてなかったよね――きみが死んだら、言えないままでしょ」
三条は、軽くはにかんでみせると、得物に魔力を帯びさせた。
「緑川さん、お任せしましたよ!」
凛とした面構えで、部下たちが敬礼してくる。
「さあ出番だよ、相棒。このばかのために、ばかになってやろうじゃないの」
「この恩、わすれるでないぞ」
ベルゼブブも、不敵にこちらを一瞥した。相も変わらずふてぶてしい。けど、それを補って余りあるほど頼もしいヤツだ。
「こまかいのは任せたよ。ぼくは最大火力であの親分を倒す」
通路の彼方に巨体を覗かせたのは、見るもおぞましい汚泥の如き怪魔。
「……ありがとな。桜花」
いつからだろう。三条(こいつ)のことを、名前で呼ぶようになっていたのは――――
「おたがいさまでしょ」
そう微笑むと、彼女は魔槍の先端に迸る焔を集束させた。
「必毀火葬(クレメイスィオ・デスペランサ)……!」
迷っている暇はない。背後に莫大な熱量が生じるのを感じながら、俺は駆け出した。
(こいつらのためにも、俺が全て終わらせてみせる……!)
走ること数分、いや十数分だろうか? 時間感覚も支配されているかのように、漠然として実感が湧かない。
重ねて不自然なのは、彼女たちとと別れてから、俺は一度も襲撃にあっていなかった。やはり、ヤツの狙いはどうにも俺らしい。
「ああッ! くそっ、まだか……!」
化け物の体内みたいに張り巡らされた回廊を、無我夢中で通り抜けてゆく。
ふと、壁面が脈動するかのようにして、口を開けたと思った刹那――――
「ッ、まぶしっ!」
網膜に刺さるかのような煌めきが俺を迎えた。しかし、どうやら屋外に出たというわけでもないらしい。
その妖しい灯りは、太陽ではなかった。
「……なんだ、ここ……?」
目も眩むほどに、明々と燃える大量の人魂。喩えるのなら、怨念が形を成したような、烈しくも美しく、それでいて哀しい、深紅の浮遊体が至る所に渦巻く。
そこが部屋だということは分かるが、端までの距離感も、外側に何があるのかも全く掴めない。飛び込んだ箇所は、あたかも最初から存在しなかったかのように見当たらなくなっている。
あまりにも突拍子もない一室ではあるが、かねてより脳内で繰り返される、あの日の惨劇に、ここの景色は似ていた。
その主、空間の中心に佇む背中が一つ。
隻眼の男が、悠然と振り向いた。
† † † † † † †
火力の衰えた得物を杖に、桜花が呆然と見つめる先には、進路の隙間を押し潰すようにして迫り来る巨躯。
「まさか、こんなに…………」
三人の部下は成す術もなく喰われ、彼らも燃料と化した。隊長だけあって、粘り続けているものの、打開策を見出せないまま力尽きようとしていることには、彼女も変わりはない。
足の鈍った桜花へと、槍衾さながらに毒針の雨が殺到する。
「だめ……魔術は効かない」
もはや迎撃する手段も、余力も彼女にはなく――――