希望の薬、恩人との約束
少年には理解が出来なかった。
あの時、自分は傷口に向かって手を伸ばしていた。
だが、気が付けば血など付いておらず、先程出会ったばかりの女に抱きしめられている。
少年は彼女の手を引き剥がし、離れようとした。
「は、離してくれ・・・。」
「大丈夫です。私はあなたの味方です・・・大丈夫です。」
心の中はさっきに比べてゆっくりとだが落ち着いてきた。
女はまだ自分の発作が治まらないのだと思っているようだった。
発作は止まった。もしかしたら発作がこんなに簡単に止まったのはこの人が抱きしめてくれたからなのかもしれない。
それには感謝をしている。
しかし、今は恥ずかしさが増してきているので、早く離れてもらいたいのだが、そう言うのも自分勝手なようで言い出しづらい。
一言「もう大丈夫だから。」と言って離れようともがいたが、彼女はより一層力を込めて、手を回してきた。
恥ずかしいと思う気持ちが、次第にまた違う形へと変化していった。
心の中が安心感に満たされてきたからなのだろうか、少年はこの女の優しさに包まれて、ある決心をした。
今まで誰にも言えなかった自分の、今の感情・・・。
ずっと隠していなければいけない、もしかしたらそれを考える事すら禁じられているかもしれないこの秘密を、この人であれば打ち明けてもいいのかもしれない。
いや、打ち明けたい。
そんな気持ちを吐き出したくなって、感情が溢れ、その感情が涙へと変わっていく。
「俺・・・まだ人間でいられてるのかな・・・他人の血を見ると・・・・理性が抑えられなくなるくらい・・・・その・・・飲みたくなるんだ・・・こんな事考えるなんて・・・俺はもう・・人間じゃなくなっちゃったんだ・・・」
「大丈夫です。あなたは立派な人間です。ちゃんと純粋で、高貴で、慈愛に満ちた心をお持ちのお方です。」
きっと今まで誰にも言えなかったのだろう。ずっと自問し続けてきた言葉を言えたからかさっきまでの少年の強張った表情が和らいでいき、女も安心し、涙が流れた。
「一人で辛かったですよね。でももう大丈夫です。安心してください。この甘い香りのする香水には発作を抑える効果があるのです。落ち着いてきましたか?」
「凄い効き目ですよ。今までで一番速く発作が治まりました。こんな魔法のような薬があったなんて・・・。
失礼ですが、お名前を教えていただけませんか?」
彼女はようやく手を離し、挨拶と経緯を話し始めた。
「申し遅れました。私、ネリール・ファーストレイトと申します。突然ですが、ジン・フィート様をご存知ですか?」
ネリールは一瞬、少年の瞳が大きくなるのを見た。
ジン・フィート。
忘れるはずがない。全てを失った自分を養い、生き方を教えてくれた大恩人の名だ。
魂に刻まれている名前を忘れるはずがない。
ネリールはなぜ、ジンの事を知っているのだろうか。
「えぇ、知ってるも何も俺の大恩人の名前です。なぜ、それを?」
「すると、あなた様がリグナード様ですね?」
少年はまたも驚き、身構えた。
少年が怪しんだので、ネリールは急いで弁明した。
「失礼しました。私はジン・フィート様のご友人である、オルドー・ハンス様という方と親交がありました。」
またも聞いた事のある名前だった。
「そのハンス様より、リグナード様を探し出して、こちらを渡すようにと頼まれまして・・・。」
ネリールは、あれ?おかしい。という顔をしながら鞄の中から自分の上着の裏の隠しに至るまで色々と探り始めた。
リグナードは彼女を今一度観察し、どこかで会った事があるか思い出そうとした。
しかし、彼女の栗色の長い髪も、薄茶色の瞳におっとりした目元も、小さくて薄いが品のある唇も全くの初対面だった。
まだもそもそと探しているネリールにどうして自分の事がすぐわかったのか尋ねてみた。
ネリールはようやく目当ての物であろうメモ紙を探り当て、差し出しながら答えた。
どうでもいいが、どこから出てきたのか生温かいメモ紙が妙に少年をどぎまぎさせた。
「ハンス様から特徴を聞いていたんです。『ジンが言うにはぼさぼさ頭の銀髪で、透き通るように青い瞳が特徴だ、会えばわかる』だと。」
「それだけでよくわかりましたね?」
「私も探そうとしていたらすぐに見つかって驚きました。すぐにわかりましたよ。だって・・・。」
ネリールは何かを言おうとしていたが途中で黙りこんだ。リグナードは少し気にはなったが紙に書いてある内容の方も気になったので、まずはそこに書いてある内容を確認する事にした。
その紙には、ここから相当遠くにある教会の名前と住所に簡易の地図が書かれていた。
「あんな山の上にある教会に何があるんです?」
「その教会をご存知なんですか?」
「あぁ、昔家族でよくスキーをしに、その教会近くの山に行った事があって。大体の場所は覚えています。」
「そうなんですね。ハンズ様はその教会にいらっしゃる牧師様の所へ行くようにと。」
「その牧師になぜ会いに行くんですか?」
「ハンス様が言うには、その牧師様が治療薬をお持ちだそうだからです。」
「・・・この病気の・・・医者でもない牧師が?」
「はい、経緯まで分かり兼ねますが、治療方法を見つけたという連絡がハンス様の所へ届き、リグ様に実際に治療薬を持ち帰るようにとの事で。」
「なぜだ?ハンスの奴が行けばいいじゃないか。確かに俺はこの病気にかかってはいるが別の者でもいいんじゃないのか?なぜ俺になる?」
ついカッとなって声を荒げてしまった。
ネリールは申し訳なさそうに俯きながら答えた。
「それは・・・ハンス様からの遺言でして・・・。」
「もしかして・・・ハンスも感染してたのですか?」
「・・・はい。」
ネリールは俯いたまま返事をした。
「そうか、それを確かめに行かせた挙句、俺に実験台になれって事だな・・・。」
「いえ、ハンス様はリグナード様が病気だとは知らなかったようです・・・。」
その後もネリールは経緯を説明した。
「ある日、フィート様がハンス様にお会いし、俺の愛弟子で若くて優秀なのがいるから自分が死んだ後は面倒を見てもらえないか?と相談をされたようでして。」
ジンの奴、そんな事まで心配してくれてたのか?
いつも、自分の事は自分で何とかしろとか言ってたくせに、どこまで世話焼きなんだよ。
ていうか、誰が愛弟子だ?弟子にしてくれと言った覚えはないぞ?
昔、よくしたジンとの他愛ないやりとりを思い出し、当時を懐かしんだ。
「丁度その頃、牧師様から手紙が届き、その治療薬をリグナード様に取りに行かせ、それを持ち帰れば十分過ぎるくらいの生計が立てられるだろうとのお考えでした。」
リグナードはそれを聞いて、さっき自分の吐いた言葉を思い出し、恥ずかしくなった。
「ですから、まさかリグナード様までこの病にかかっているとは思ってもいなかったはず・・・。」
「実験台でも何でもいいさ、どのみちこの忌まわしい病がこの国から無くなる可能性があるのなら何でもやってやるさ。」
単純な話だ。
薬を持ち帰り、それをこの女に渡して広めてもらえばいい。その後で自分の死場所を探そう。俺はもうこんな世界に生きたくはない。他に生きたい奴が一人でも多く生きた方がいいに決まっている。ジンとの約束が果たせて自分も希望が叶う。簡単な事じゃないか。
ようやく、ジンとした昔の約束の答えが出せた事で安心し、そしてまた、リグナードは嬉しくなった。
自分の知らないところで自分の事を気にかけてくれる人達がいた。その人達の期待に応えられる事がこんなに嬉しいとは思わなかった。
リグナードは何か吹っ切れたような表情で決意を固くした。さっきまでとは違う生気をネリールは感じ始めた。
そしてリグナードが立ち去ろうとした時、ネリールが呼び止めた。
「リグナード様!それからもう一つ申し上げなければならない事が。」
「何ですか?」
少し息を整えてからネリールは言った。
「私も同行するようにとの事です。」
「えっ?」
「私はハンス様から病や薬について沢山教えていただきました。ですからきっとお役に立てるのではないかと・・・。」
「薬について知っているのは助かりますが、これは俺の問題です。一人で行きます。」
「駄目です。私もハンス様に頼まれているのですから、リグナード様一人でという訳にはいきません。」
しばらく二人は睨み合っていたが、きっとこの女は何度振り払っても付いてくるだろうという感じがした。
「あそこの教会までは数日かかります。料理などは出来ますか?」
「得意中の得意です!」
なぜか必要以上に元気一杯答える彼女に少々戸惑ったが、料理も出来るのであればと、しぶしぶ了承した。
「わかりました。じゃあ、道中食事作りも兼ねて同行をお願いします。」
表情には出ていなかったものの、ネリールは何だか嬉しそうに見えた。
「それから、俺の事はリグでいい。あと、固い口調はなしでいこう。」
昔は綺麗で丁寧な言葉を使っていたリグは第十三地区に来て以来、全く使っていない。
最初は戸惑っていたものの、慣れてくるに従い、丁寧に話そうとすらしなくなっていった。
「はい、リグ様。私もネリーでお願いします。言葉遣いはこちらの方が慣れていますので私はこれまで通りでお話いたしますね。」
「それはそうと、早速ですがリグ様、ここから早く離れた方が良さそうです。」
「確かにな。今日は何だか人が多い。街で何かあったのか?」
「きっと私を追っているのだと思われます。」
「えっ?」
「実は先程、お勤めしていたお屋敷のご主人様を突き飛ばしてしまいまして・・・。」
「町の噂では、これから草の根分けてでも全地区を捜査していくみたいですよ。」
「おい、それを早く言え!こんな所でゆっくりしてる場合じゃないだろ!」
リグは走りながら一杯食わされたと、心底腹を立てていた。
時すでに遅く、馬に乗った統率軍連中にじわじわと囲まれていった。
よほどその屋敷の主人は執念深いのか、屋敷を守る警備の私兵を全て駆り出し、近隣屋敷の私兵に至るまで集め、捜索させているようだった。
この第十三地区は家と家の間が狭く、道幅も入り組んでいて狭い。
二人を発見した統率軍の一人が笛を鳴らし、近くの捜索班が鐘を鳴らしたのを合図に、一気に駆け寄ってくる。
どの道からも軍の馬がやってきて完全に退路を失った。
ここに集まってきている軍兵の数はおよそ三十。
徒歩で駆けつけた警備兵も二十人程。
本来であればこのくらいの数なら突破は容易い。しかし、この三日間、何も食べていない上に先程の戦闘で残りの体力を使い果たし、更には女を連れての突破など不可能だった。
リグはこの逃げ場のない状況からの退路を模索した。