逃亡、敵のような味方
どの道からも敵が迫ってきている。
一人でなら正面からでも突破は出来るが、ネリーを連れて逃げるとなるとそうはいかない。
リグは思案に思案を重ねた。
二人で逃げるのならやはり馬が必要だ。
何とか馬を一頭手に入れる事が出来ればここを突破出来るかもしれない。
リグはまず、一番に手柄を得ようと隊から離れ突っ込んできた兵に目を向けた。
走って来る馬に向かってリグも走り、トレンチナイフを握った。
馬の乗り手は腰から剣を抜き、ギタギタに刻まれていく少年の姿を想像して高揚しているような気色の悪い表情を浮かべていた。
リグはギリギリまで引きつけてから馬に向かって『跳躍』をした。
騎兵は剣を高々と天に掲げ上半身を右に捻っていった。
少年は正面より少し左から飛んできた。妙に跳躍力があるとは思ったが、この男は相手が殺られる場面を想像し、悦に入っており、思考は完全に止まっていた。
捻った身体を反対方向へ一気に捻っていく。この男の得意技らしく、動作が速く正確で少年の首元へと寸分の狂いもなく刃が向かっていく。
剣を馬の左側へと振り下ろした時にはすでに少年はそこにおらず、少年のナックル付きの拳が右側に見えていた。
リグは刀が振り下ろされる瞬間、左へ旋回しながら男の右側へ移動し、その遠心力で拳を男の右頰へ打ち込んだ。
このナックル付きの特殊なナイフで殴られた男は、骨が砕けるような鈍い音を放ちながら馬から飛び上がっていった。
リグは斬り倒す方が体力も削らずに良かったのだが、出血を見ればまた発作が起きる事を恐れ、この場は刃を使わずに突破する事にした。
馬を奪い、手綱を握ったが、馬は一向におとなしくならず、振り回されっぱなしだった。
リグは子供の頃から馬術を習い、気性の荒い馬でもなだめて乗りこなす術は知っていたし、この馬もさほど暴れるような馬には見えなかった。
馬は少し怯えているようだった。
きっとこの病なのかもしれない。
きっともう乗馬は出来ないんだろうな、と寂しい気持ちを抑え、馬を降りて次の突破への糸口を模索し始めた。
今、二人の周りには道が六本、どの方向からも敵は迫ってきている。
体力は殆ど残っていない。
どうやってネリーを連れて逃げればいいのか。
左右を見渡して何とか活路を見出す方法を考えた。
リグは必死で考えた。
周辺の塀や建物を見ると、割と低い家や壁もあり、『跳躍』で飛び越えられそうだった。
しかし、問題はネリーを抱えるか背負いながらいきなり『跳躍』するのは筋力を相当使う。
何とか助走をつけられれば・・・。
「リグ様!後ろから敵が!」
細い道を抜けた三人が剣を抜き、遅いかかってきた。
そのうちの一人がリグの後ろから刀を振りかざし、斬りかかる態勢に入る。
リグはネリーの声でハっと我に返り、後ろの騎兵に向かって高く跳躍し、顔の高さに達したところで胴に右足を当て、騎兵を後ろに吹っ飛ばしながらネリーの後ろにいる騎兵まで跳躍した。
先程ネリーに呼びかけられ、一瞬彼女を見た。ネリーは落ち着いていてしっかりとした表情でこちらに視線を向けていた。
この状況で覚悟を決め、落ち着いているネリーを見て安心感を覚えた。
きっと、この人となら・・・。
そう思うと途端に力が湧いてきた。
ネリーのすぐ近くまで迫っていた騎兵の馬の後首を掴みながら左足を騎兵の右脇腹へめり込ませ、宙に飛ばしていく。
首を掴んだ腕のみで更に『跳躍』しながら下にいるネリーに左腕を伸ばした。
「ネリー、跳べー!」
ネリーは跳びながら左腕を伸ばしリグの左腕を掴んだ。
リグもネリーの左腕を掴み、上半身を右に捻りながら、ネリーを宙に高く持ち上げていった。
ネリーを宙に引き上げてから腕を離し、左腕で膝下を、右腕で肩を抱え、近くに迫ってきた騎兵の頭に右足を置き、その男を後ろに飛ばしながら近くの建物に向かって『跳躍』をした。
ネリーは最初、高く舞い上にがっていく自分に驚きながら、お姫様抱っこをされた事に気付くと恥ずかしそうに顔を真っ赤に染め上げた。
リグは二階建ての屋根上まで飛び、そこから更に向いの三階建ての屋根へと向かって跳躍していった。
建物が古いせいか、屋根を蹴り上がった建物の中に住んでいた住人が何事かと窓から顔を出してきた。
怪訝で迷惑そうな視線を向ける母親らしき女と興奮した眼差しを向けてくるその二人の子供。
男の子は宙を跳んでいく二人を見てはしゃぎ、女の子はうっとりした表情を浮かべていた。
「素敵・・・。きっとどこかの国の王子様がお姫様を連れ去ろうとしているんだわ・・・。」
それを聞いたネリーは顔をにんまりと綻ばせた。
「リグ様、私、給仕係からお姫様に昇格しましたよ!」
こんな窮地の中で何を呑気な事を・・・。
空腹な上に逃げ切れるかの瀬戸際でピリピリしてるリグは、意地の悪い返答をした。
「残念だが、この地区に地位も肩書きも関係ない。ここでの優劣は腕っ節の強さだけで決まる。お姫様なんて肩書きが付いていたら陵辱の対象になるぞ。」
リグは跳躍で屋根を飛び越えていきながらネリーをちらと見た。
ネリーは酷くむくれっ面をしていた。
こんなに感情豊かで表情がころころ変わる人は初めてだった。
きっと、ネリーとならこれからの道中、飽きる事はないだろうな、と笑いながら屋根づたいに跳躍を重ね、敵の包囲網から逃れていった。
包囲網を突破し、敵の姿が見えなくなったところでネリーを下ろし、地区の中心部から離れていった。
二人はなおも逃げ続けた。
騎兵と鉢合わせしそうになったり、逃げていく道の前後から警備兵が偶然やってきたりと
ひやひやする場面が何度かあったが、街外れの広く深い森の近くに辿り着いた時には人影すら見なくなっていた。
二人はようやく息を落ち着ける事が出来た。
そして、近くに小さな食堂があるのを見つけ、その前までやってきた。
この辺りは夜になると人気もなく、追手も明日までは来る気配もなかったので、厨房付近の壁に腰を下ろし、ここで一晩過ごす事にした。
初夏に近付くこの季節、夜はまだまだ冷える。この場所はまだほんのり温かかった。
夜明け前、リグは人の気配で目を覚ました。大柄の女らしき人物がエプロンを付けて立っていた。
長袖からでも腕の分厚い筋肉がわかるし、堂々とした直立姿勢が足腰の強さを感じさせた。
この人は本当に女なのだろうか?と疑問を持ったが、女だ・・・おさげだし、スカートだし、 きっと。
額に血管が浮き出ていて、いかにも戦闘態勢が整っていた。昨日統率軍に囲まれていた時よりも恐怖を感じながら恐る恐る離しかけた。
「こ、このお店のご主人ですか?
ご、ごめんなさい。勝手にこんな場所を寝床にしてしまって。すぐ発ちますので。」
エプロンをしていたので、追手ではないとは思ったが、命の危機を感じた少年は咄嗟に、思い付く限りの言葉で謝罪をした。
その声にネリールがやっと目を覚ます。
どこがお役に立てる・・・だ?
リグはまだ寝ぼけ気味のネリールの肩裾を掴み上げ、いそいそと離れようとした。
「待ちな。」
ドスのきいた野太い声に心臓が悲鳴を上げた。
「まず言っておくがね。あたしゃ、この店の主人じゃない。看板娘だよ!」
これは威嚇なのだろうか、冗談なのだろうか。
返答に困った少年は、「仰る通りです。」と謝り続けた。
だがそれ以外に何と言えばいいのかわからない。こんな時こそネリーの出番だ。
女同士なら会話も弾んでこの場を何とか・・・という期待はすぐに絶望に変わった。
ネリーは震えていた。この地獄からやってきた看板娘に顔を向けようともしない。
二人は獅子に出くわした小動物のようにその場に立ちすくんだまま震え、怯えていた。
自称看板娘は野太い声で笑い出し、二人を食堂の中に招き入れた。
最初は自分達が調理されるのではないか?と震える二人だったが、意外にも沢山のご飯を用意してくれて、お腹が破裂するまで次から次へと仕込みが終わったばかりの料理を出してくれた。
もう満腹だと伝えると食後にお茶まで出してくれた。
こんなに世話を焼いてくれるなんて、嬉しい反面、それはそれで自分達を十分肥やしてから調理されるのではないかと不安になる。
しばらくすると看板娘は厨房の奥へ入ったまま、しばらく出てこなかった。
代わりにこれまた大きい男が現れた。
見た目とは裏側に気さくで優しく声をかけてきた。
「あんたら旅の人かい?」
あの看板娘と一緒にいるくらいだ。
優しく声をかけて安心しきった所を・・・と、どうしても好意を素直に受け取る事が出来なかった。
二人で声を揃え、怯え気味に、「そうです。」と答える。
「珍しいな、ミミの奴。いつもなら水ぶっかけて追い払うくせに。」
そう言いながら男は厨房にいる看板娘に話しかけに行った。
二人はあの看板娘の名前が可愛かったので見た目と全然合わないな、と目だけで会話し、無言で笑い合った。
ミミは奥から四角い籠を持ってきた。
中には美味しそうな香りのする食べ物が詰め込まれていた。
厨房から男の「俺の作った朝食がないぞ!」という怒鳴り声がした。
ミミは笑いながら「気にするな。」と籠を手渡してくれた。
二人はこの天使すぎる看板娘にお礼を言いながら外へ出ようとする。
ネリーだけ呼び止められ、奥の部屋でミミと何やら騒がしくしている。
外で待っていると、大男も出て来た。
「あいつ、自分の娘みたいで楽しいんだろうな。何年か前も全然知らんガキの客呼んで誕生会とかやってたしなぁ。」
と、少し寂しげに語ってくれた。
しばらくして、女二人が出て来た。
ネリーは背中に荷物を抱えていた。
薄い毛布や木で出来た食器など、野宿に必要そうな荷物がぎっしりと入っていた。
二人ははミミ達に何度もお礼を言った。ミミは照れるから早く行けと振り払う動作をしながら寂しそうな表情を浮かべた。
食堂にも病の者はよく来るらしい。
こちらの事情は全て知っているようだった。
二人は森へ入り大きい荷物をリグが背負いながら教会を目指して歩き出した。