仮面を得る事で自我を消去する? 自発的に自我を消そうとするなんて、余りにも矛盾した表現じゃないか。
今迄は微塵の疑念も湧かず、仮面を被る事に由って個が消されると一面的に捉えていた。しかし寧ろ仮面へ自我を預けているとすれば、最早仮面を被っていない素顔の僕こそが何者でもない……、無だ。
今迄の社会生活、人生の全記録はあらゆる媒体でこのヘッドギアの電脳に保存されている。出生から家庭での団欒、学校や教室の気怠い空気、授業の内容、試験の点数や成績、運動会や学園祭での結果、読書した本の内容、鑑賞したテレビや映画、音楽の内容、旅行地での景観、友人との交際、恋人との逢瀬……。
文章や映像としての詳細な記録情報だけで無く、日記としてもそれこそ追想のアルバムとしても電脳はその目的を果たしてくれる。振り返りたければ、些事に過ぎない生活の一瞬すらも巻き戻し再生を行って鑑賞が可能なのだ。年月日から何時何分何秒迄をも詳細に指定して。
そんな一連の記録や記憶が体系化されて格納されているとすれば、今となっては物言わず無機質で硬質なこの仮面こそが僕の素顔……。僕自身の存在証明で在り、自我と解釈出来るのではないだろうか……?
自室での時間は、ヘッドギアを着脱出来る唯一独りの空間だ。僕は近頃鏡と対峙する度、対面する相手へ呟く様に問い掛ける。
『……君は何者だ?』
『……君は美しいのか?』と。
憲法上の経緯からメディアも規制され、人民は悉皆自分以外の外貌を見た経験が無い。故に、顔の造作等への美的感覚も完全に欠如している。
何が美しく何が醜いか? 古来では、容姿こそが自己証明や他者認識等を図る為に最も生理的且つ簡便で強力な要素だったらしいが……。前時代では第一印象で人間性迄が結論付けられる事も日常で、美貌在る者は優遇される事も当然だった。それこそ羊頭狗肉な人間すら芸能界では持て囃され、それだけで生涯豪奢な生活が享受出来た者達も存在したと言うのだ。
一種の道徳観に反して、人間は平等に生まれた訳では無いのが世の真実なのか? 万人は平等で在るべきだ、と言う社会的倫理観は偽善的建前に過ぎないのか。
確かに現代では差別等存在しない。しかし現状は、人々が平均化されている以上に画一化されているに過ぎず、人間の差別心の芽そのものが潰えた訳では無い筈だ。
そう、只区別が困難な程、個々が不透明にされているだけだ。
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