雨と手鏡
……あれは確か、先月の中頃の小雨が降る夕暮れだったように思う。小テストの結果が悪かったのを覚えているから多分その日で間違いなかったのだろう。でも、あんなことが起こらなければきっと何でもない、いつもと同じ、時が経つに連れて忘れて行ってしまうような『何でもない一日』になるはずだったんだ。
……存外、平凡っていうのは非凡よりもありがたいものなのかもしれないな。大事なものはいつも自分のすぐ側にあって、失った時に初めて気づくものだって小説や漫画なんかではお決まりのように言っているんだし。
……ああ、全くもってその通りだと思うよ。何も間違ってなんかいなかった。大事なものってのは、いつだって例外なく『そういうもの』なんだからさ。ここ最近で嫌という程思い知らされたよ。
__ああ、本当に大事なものっていうのは財産や名誉みたいな非凡なものでも、恋人みたいな特別なものでもないんだなって心底思ったよ。ただそこに黙って居座る、平凡こそが一番だったんだ。
……おっと、話が反れてしまったな。俺が本当に聞いて貰いたいのは愚痴でも懺悔でも後悔でもなくて、今俺に起こっている『事実』なんだ。だからそのまま、黙って聞いていてほしい。
あの日俺は傘を忘れて来ていた。帰りに雨が降り始めて、慌てて最寄りのコンビニにビニール傘を買う為に走っていた。置き傘もしてなかったことと雨で服が濡れて身体に張り付いてたことで少しイライラしていたような気がする。
コンビニ前の道路で赤信号に引っ掛かり、身体が濡れることにイライラしながら、何とかして時間を潰そうと携帯を取り出そうと下を見た時にふと、電柱の脇に一つの小さな手鏡が落ちているのを見つけたんだ。
普通なら、特に気にするでもなくスル―していたんだと思う。でも、その時は何故かその手鏡に惹きつけられたんだ。
吸い寄せられるようにその手鏡に手を伸ばし、手に取る。手鏡は木の枠に小さな鏡が埋め込まれた質素な作りで、綺麗な月桂樹の模様が彫られていた。
暫く見ていると青信号に変わったので、カバンにその手鏡を突っ込んでそのまま走って横断歩道を渡った。携帯電話を取り出すことなんてとうに忘れていて、俺はそのままコンビニに入った。
コンビニの中はクーラーが効いていて、濡れた身体が余計に冷たくなって風邪をひきそうだった。
ビニール傘を買ってコンビニを出て、その日はそのまま真っ直ぐ家に帰った。何でもないはずのその質素な手鏡が気になったからだ。
家に帰ってシャワーを浴びて、部屋着に着替えて冷蔵庫から麦茶を取り出して飲みながら、カバンに入っていた手鏡を取り出した。
どこにでもあるような、何でもない普通の小さな手鏡。少し黒ずんでしまっているが、どこか懐かしいような匂いがして、それでいて何故かしっくりと手に馴染んだ。まるで、昔から愛用していたようなものみたいだなと、その時は感じたんだ。
鏡に映った自分を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。子供の頃によく分からないものに愛着を抱くことが多いが、まさにそんな感じだったように思う。
何だかこの鏡が、とても大事なものに見えた。俺はもうその時既に、この鏡の虜だったのかもしれない。いい歳こいた高校生が何やってんだよとは思うけど、本当にその手鏡が魅力的に思えたんだ。
……馬鹿な話だろ? 高校生が手鏡一つに夢中になってるんだぜ? 母さんが知ったら、きっと呆れた顔をして俺を笑うんだろうなぁ。本当に馬鹿な子ねってさ。それでも最後は許してくれて、きっと何でもなくなるんだろうなと今でも思っている。ああ、母さんにだけでも話しておけばよかったな。
俺には、一人の親友がいた。美也子という同学年の女子で、家が骨董屋の影響か珍しくて変わったモノが大好きだという変わった奴だ。何で過去形なのかは追々話すつもりだから知りたかったら黙って聞いていてくれ。順序ってのは大切なもんだろ?
これを見せたらきっと美也子は喜んでくれる、俺はそう思っていた。急に見せたくなってきたけど、その日は自分だけのものにしておきたいと思い、教えるのは明日にすることにした。
明日美也子にこの話をしてみよう。そんなことを考えながら、俺は鏡をもう一度カバンに突っ込んだ。
__結局そのまま、その日は手鏡を触らなかった。手鏡ばかり眺めるのも何だか気持ち悪いなと思ったし、その日は課題が多くて手鏡をずっと触るどころではなかったのを思い出したからだ。
美也子は明日どんなリアクションをしてくれるのか、そんなことを考えながらその日は過ぎていった。
__ああ、そう思えば一日目は本当に何でもない『出会い』だったなぁ。小学生の頃に珍しくて綺麗な石を持って帰ってきてたりしてたけど、それと何ら変わりないじゃないか。ちょっと細工が綺麗なだけの質素で小さな手鏡一つの何がそんなにいけなかったのか。俺はまだ全く知らなかった。
……ああ、そもそもあんな所に鏡が置いてある時点で怪しむべきだったんだ……なんて今更後悔するだけ無駄、だよな。
はぁ……何でこんなことになっても頭だけは冷静に働くんだろうな。今こうして説明できるからありがたいんだが。
……とまあ愚痴は置いておいて。それじゃあ話を続けて行こうか。ここからが大事な話だからよく聞いてほしい。
だって俺に降りかかってきている災厄が本格的に始まったのは、何を隠そうその翌日の二日目からだったんだからさ。