10話 キラキラガール
静かな昼の住宅街を歩く青年、須坂八尋。
風になびき乱雑になっていく髪は少し長い。本当なら今日高校生となるはずだったために、近々の証明写真に備えて調整していたがゆえの長さだ。
世界に混沌が訪れた今となっては邪魔でしか無い。
時折その、人懐っこい印象を与える目に掛かる髪を横へ流しながら、彼は近くのコンビニへと向かっていた。
――静かだ……何も居ないし。人どころかゴーストも居ないし、ゾンビも居ないし。
元々、ここへ来たときから人影は無かったものの、あれから1時間経って変化が無いのにも不安が残る。
特に家で待機していた人々なら自身の目で惨劇を見ていないだろう。それならば正常な思考、冷静な思考を取り戻していてもおかしくはない。そんな人々は、これからの生活について考えるはずだ。
八尋は頭の中で、ここで何人かの人に出会って協力して行きたいと考えていたのだが……少々アテが外れた形となる。だがここで帰るという考えに行き着くはずも無いわけで、八尋が足を止めることはない。
さすがは東京(というのは言い過ぎだが)、駅の近くということもあって、コンビニまで徒歩10分もかからなかった。足に疲労を感じる前に、白と他三色で彩られた看板が目に入った。
警戒。外から中を伺う。レジの辺りが荒れているばかりで、その他は至って正常。
大通りから少し外れたこのコンビニは、朝の通勤ラッシュを越えると一気に客が少なくなる。それが幸いして、何かに襲われた店員が慌てて逃げただけで済んでいるのだろう。
八尋はドアの前に身を晒す。ウィーンと、小さな駆動音を鳴らしながら扉が開いた。電気はまだ生きているようだ。
取り敢えずは素早くコンビニの中へ入る。中に誰が居たとしても外にいるよりはマシだろう。外にいるというだけで不安によって体力を削られていくのだから。
いつもであれば、そこから横へ曲がって雑誌コーナーを見つつ飲み物コーナーへ向かうところだが、今日は真っ直ぐ進んで食べ物が置いてあるところへと進む。そこではたと、八尋は動きを止めた。
――保存出来たほうが良いのかな。
目の前の大きな棚から漏れ出す白い空気をその身に感じながら、八尋の頭の中に一つの考えがよぎった。
まず、自分の部屋に冷蔵庫など無い。そして何より、電気がいつまで通っているのかも解らない。彼は発電所がどこでどのようなシステムにより稼働しているのかなど知らないが、人の管理無くして長時間起動しているようには思えなかった。
よって冷蔵保存されている美味しそうな物の棚から離れ、常温保存されているスナック菓子やカップ麺の方へ向かった。出来る限り小さな物を、出来るだけカバンへと詰め込んでいく。どちらも容器が大きく嵩張ってしまうところが困り者で、満足行くまで回収することは出来なかった。
――こんなのばかり食べてて栄養大丈夫なんだろうか……。
とは、下ろしていたカバンを背負い直し、増えた重さに満足気な笑みを小さく浮かべた八尋によぎった考えだ。
カバンの中には大量のスナック菓子。水を使ってしまうことを考えて、カップ麺の類は入れていない。
ただ食料を確保できたのは良いものの、そればかり食べていればきっと体はボロボロになるだろう。生き残らねばならないのに、最後には動くこともできなくなって死んでいくに違いない。
なんとかして栄養素だけでも取れないものかとコンビニの中を歩き回ってみれば、八尋の視界に栄養素を簡単に取れることを謳ったサプリメントが見つかった。もちろんそんな物、八尋は使ったことも無いどころか手に取るのも初めてだ。
だが今はそんなことも言ってはいられない。適当に、幾つか聞いたことのある栄養が取れそうな物を見繕ってカバンへと押しこむ。それらはまだ、箱が小さいのが救いだった。
「ふぅ……」
一度息を整えると、八尋はカウンターの向こうへと入る。その下から、真っ白で大きめのビニール袋を幾つか引っ張りだす。
それを持って、透明な戸に閉じ込められた飲み物たちの元へと歩いた。
戸を開けると、中から漏れ出してくる冷気を感じながら水の入ったペットボトルを取り出した。もちろん1つだけではなく、幾つも。それをビニール袋の中へと4本づつ入れ、両手をビニール袋で塞ぐ。
「うおっ……も」
水の重さに、ビニール袋の持ち手は細く伸ばされて容赦なく八尋の手へと食い込む。
そこで彼はすぐさまコンビニを後にした。ギチギチと音がなりそうなほど負荷がかかったビニール袋は、今にも千切れそうで、何より八尋の腕が水の重さを支えきることができない。
家へと向かう道をせっせと歩く。コンビニへ向かう時よりは確実に遅く、しかし足を止めるという愚行は侵さない。幸いな事に未だ辺りは静かな物で身を隠す必要性が無かった。
だが、早くなっていく自分の呼吸と、やけに大きく聞こえるビニールのこすれる音だけを捉えていた八尋の耳に、1つの声が届く。
「イヤアアァァァァァァ!」
住宅街の静寂が切り裂かれた。
八尋の向かう先、家の近くから劈くような悲鳴が聞こえてくる。
その声の高さからして……女。それも若い。
八尋は一度動きを止めた。この先で何かが起きていることは想像に難くないのだ。
両手は塞がっているし、何より今は白い粒子を纏っていない。纏い方もわからない。敵に対抗できるような手段は何一つとして無い。
だが、八尋は足の動きを再開した。
助けに行く……というわけではない。あの、粒子を纏ったときの冷静な感情があるならまだしも、普通の状態の八尋はそのような勇気を持ち合わせていない。
しかし頭の片隅に燻ぶる冷静な……というより冷酷な部分が、情報を得よと訴えかけているのだ。
ゴーストや世界について、八尋はまだ知らないことばかり。そんな中では情報も、食事と同じように重要な要素になりうる。
彼はそれを獲得するために、ゆっくりと道を進んで……交差点から声の聞こえてきた方を覗き込んだ。
緑色のゴーストが、女の人を掴んでいる。
それが八尋の視界に飛び込んできた光景だった。
一瞬、母親の部屋が映る。
そこに倒れる母親の姿が、動かない死体が、安らかな顔が、八尋の視界へフラッシュバックした途端に、ドサリと大きな音を立てて水の入ったビニール袋がコンクリートの地面へと落ちていた。
背中にある重りを放り投げながら、八尋は緑のゴースト目掛けて駆ける。
敵の手はもうすぐ女の人の胸へと吸い込まれようとしている。それを許せばどうなるか、八尋はもう何度も見た。母親が、同級生になるはずだった男子が、名も知らぬ人々が、胸の中から不思議な結晶を取り出されたことで死んでいった。
さっきは間に合わなかった。しかし今回は……まだ間に合う。
八尋は緑のゴースト目掛け、母親を襲ったソイツへしたのと同じように、握った右手を繰り出す。
その手にはいつの間にか白い光が付きまとい、八尋の攻撃には不思議な力が乗っている。
八尋の腕に大きな衝撃。そして緑のゴーストはきりもみ回転しながら吹き飛ぶ。今回は壁の向こうへ消えるということもなく、なぜか地面を数回バウンドして止まった。
それを見届けること無く、倒れこむ女の人の背中に手をまわして支える。
フリフリとした服が目に眩しい。力なく目を閉じてはいるが、ふっくらした胸は上下しているので死んではいないだろう。
それを確認したところで安心した八尋は、たった今自分が吹き飛ばしたゴーストの方へ視線を向けるも……
「あれ?」
そこには、いつも通りの住宅街が広がっていた。半透明な、非現実的な物体など見当たらない。
「逃げられたか」
そこで八尋の身を包んでいた白い光が、フッと消える。
今回は倒れて動けなくなるようなことは無かった。だが頭のなかの冷静さも同時に消え、彼の背中を冷や汗が伝う。白い粒子に抑えられていた鼓動があっという間に早くなり、それに対応するように呼吸の感覚が狭まる。
「んん……」
体が勝手に動いたことの恐怖に飲まれかけた八尋を、一つの声が覚醒させた。
そしてモゾモゾと動き始めた手の中の女の人に視線を落とす。改めて見ても綺麗な顔立ちをしていて、ウェーブのかかった茶色の髪も合わさると、まるで綺羅びやかなオーラが溢れ出しているかのよう。
そして何より……
――どこかで見たことあるような?
と、ありもしない妄想が生まれてきて、もう一度八尋は首をふる。
綺麗な洋服で着飾り、控えめながらもメイクをしているこの人は、外交的とは言えない八尋とは正反対に位置するはずだ。彼自身もこのような誰かと交流を持った記憶は無いために、何より越してきて同い年の人と関わったことが無いために、すぐさま知り合いという考えを捨て去った。
「大丈夫ですか?」
学校で、隣の少女に話しかけられたときとは違って尖りの無い声で、怯えさせないように声をかける。
「えっと……うん」
ゆっくりと目を開いた女の人と、視線が重なる。
ほんのりと黄色味がかった瞳孔が八尋を捉え、そして自身の体を確認するように手が胸元へと寄せられる。
ふにゅりと形を変える部位から意識を逸らしつつ、八尋は女の人が自ら立ち上がれるように手の位置を変える。背に回された支えはそのままで、露出した女の人の肩から伝わる震えをしっかりと認識していた。
「大丈夫ですか?」
「うん、たぶん」
視線を八尋の方へと戻して、
「助けてくれたの? あの変な影から」
「えっと……まあ、はい」
八尋が歯切れ悪くそう答えると、揺れていた女の人の瞳が真っ直ぐ彼を貫いた。
その圧力に、八尋も視線を動かすことが出来なくなる。
それから10秒も経たず、むしろ5秒も経つこと無く、女の人は口を開いた。
「ありがとう」
そう言って、彼女は八尋の肩に手を付きながらも何とか立ち上がる。
それを確認したところで八尋もゆっくりと立ち上がった。そしてさっきまで自分の持っていた荷物を取りに戻ろうと振り向いたところで……
「大丈夫かお前ら」
3人の大人が、八尋のカバンと水の入ったビニール袋を持って近づいてくるのが目に入った。