2話 荒れ狂う世界情勢

 2017年4月9日7時30分、日本。

 寝間着から制服へと着替え、リビングにて用意された朝食を摂る八尋。夜型小説家の母親は今日も、いつもと同じように八尋の食事だけを用意して眠っている。

 時折、高い鳥の声だけが聴こえる静かな朝。昨日渦巻いていた緑の粒子は夜のうちにどこぞへと消え、いつもと変わらぬ春の朝だ。
 黙々と食事を口に運んでいた八尋は、何気なく近くにあったリモコンでテレビの電源を付けた。静かゆえに不安が渦巻く思考へ没頭してしまうのを防ぎたかったのだ。特に音を立てることもなく、真っ黒だったテレビの画面に光が灯る。

 パッと映ったのはニュースだった。いつもであれば柔らかな雰囲気で、それなりのバラエティ要素を含んだ軽いニュース番組。しかし今日は、そんな雰囲気が少しも感じられない。

 まるで巨大な地震が起きたときの様な緊迫感に包まれた表情で、座っている女性アナウンサーが手元の紙を見ながら言葉を発している。八尋はそんな画面を、まるで人事のような感覚で観ていた。

〈はい、ここで映像が届きました。これが今のアメリカの様子となっております〉

 と、横から慌てた男が画面に入ってきて、女性アナウンサーに耳打ちをしたと思えば彼女はそう言った。

 その言葉通り画面が切り替わる。画面の右下には『4月8日15時(日本時間4月9日7時)』と刻まれている。自然と八尋の視線は画面の右上へと移動し、今の時間をその視界に映す。そうしてようやく、いまニュースに映っている画面がつい先ほどアメリカで起きた出来事であることを把握した。

 画面はガクガクと揺れている。その多くが灰色で、きっと道路でも走っているのだろうことは予想に難くない。
 聞こえてくるのは甲高い悲鳴と、この映像を撮っているのだろう人の激しい息遣いだ。なにやら意味のある言葉も飛んでいるようではあるが、それは英語で更には慌てたような早口であるために意味を察することは出来ない。

 と、突然揺れが止まる。
 ガクガクと、下と前を激しく移動していた画面が固定された。
 そこに映っているのは2人の人間だ。
 しかし、その一方は普通では無い。

 右二の腕の肉が無かった。そこにはくすんだ白の上腕骨が覗いている。それだけではない。かつては整った顔立ちをしていたことが予想される顔面も、その半分がごっそりと剥がされているように無くなっていた。

 それでも動いているのだ。ガクガクと、衰えてしまった筋力をなんとか働かせながら。
 その姿は……紛れも無く様々な創作物語に登場する『ゾンビ』そのものだった。

 そんなゾンビの目標はもう一人の男。足にびっしりと真っ赤な液体を付け、明らかに動けるとは思えないほどの怪我を負っている。必死に後ずさってはいるものの、残念ながら少なくとも立って歩くゾンビの速度には敵わない。

 遂には追いつかれ、女ゾンビは男へと覆いかぶさった。同時に、口が大きく……顎の関節など無かったかのように開かれる。その歯は、くすんだ骨とは違って光を反射するほどに綺麗な物だった。
 真っ白な歯が、無慈悲にも男の肉へと突き立てられる。

 男の口も大きく開かれて、その喉から……絶叫が飛び出す。人間の、大して鋭くは無い歯に肉を引きちぎられる痛みは、男の声を詰まらせるような物ではなかったようだ。その叫びを楽しむように肉を食んでいたゾンビは、おもむろに口を離すと、今度は逆に凄まじい勢いで男の首へと噛みつく。

 男の声は消えた。
 その瞬間、カメラは再び動きを再開した。さっきまでより速く、さっきの恐ろしい光景からの逃走を始める。
 そこで映像は、スタジオへと戻った。


〈えー……朝に刺激的な光景を映しましたことをお詫び申し上げます――〉

 そんな女性アナウンサーの言葉は、あまりにショッキングな光景に食事を口へ運ぶことも忘れた八尋には届かなかった。

「なんじゃそら」

 エイプリルフールはもう一週間も前に終わりを告げている。これが嘘だというのなら批判は必死。さすがに許されることではない。

「いや……え」

 この後に「実は映画の予告でした」などと、このニュースいつものメンバーが笑いながら現れることは無いかとテレビへ意識を戻す。しかし残念ながらニュースはそのまま続いていて、何やらいつものニュースメンバーも神妙な面持ちでお互いに意見を交わし合っていた。

 それを確認して、八尋は机の上に避けて置いておいたスマートフォンを手にとった。手早く画面を操作することで情報を探す。
 当然、このような出来事が話題になっていないはずもなく、むしろ呟きを集めたアプリはアメリカにゾンビが現れたという話題一色に染まっていた。

「いや……でも、日本はそんなに……」

 そう、どの呟きを見ても日本でのゾンビ発見情報は見当たらない。逆に言えば、日本以外の国ではかなり多くの情報が発見できる。全世界規模で恐慌が起きていることは明らかではあるものの、日本だけはその流れから取り残されているようだ。

 自分たちが安全だと、いくらかの人々は察し始めている。そんな彼らは日本という国を大きく持ち上げ、他国、またはそこに住む人々を見下す。
 「なぜ日本に住んでいなかったのか」「外国なんかに住んでるからそういう目にあうんだ」などと、ネットワーク上で大きな口を叩いているのだ。

 八尋は多少の焦りに包まれながら開いた画面を、その気持ちを憤りに変えて閉じる。
 彼は優しい人間だった。そして何より、聡い人間だった。

「今は安全だからって、この先もそうだとは限らないんだけど……」

 決して油断は出来ない。日本は島国とはいえ、少なくとも外国と交通機関は繋がっている。ゾンビが発生する要因によっては外国から輸入されてくることもあり得なくはない。

「はぁ……」

 世界が混沌に包まれ始めた事を感じつつ、八尋は1つため息を挟んで食事を再開させる。既に彼の中には入学に対する不安などは微塵も無い。そんな物はニュースの映像から感じ取れる死の恐怖に打ち消されてしまった。

「ごちそうさま」

 用意された全てを平らげ、手を合わせて挨拶を述べる。
 着替えも終わっていて、初々しくも小柄な体格には少々大きめの制服に身を包んでいる八尋は既に登校の準備が完了したことになる。時間も丁度いい。特に家に居る意味も無いために、彼は余裕を持って登校を始めることにした。

 今一度カバンの中身を確認して、元気よくそれを背負うと母親へ声をかけることもなく家のドアを開けた。家の中のこんもりとした暖気が外の少しばかり肌寒い空気と合わさる。一度、ブレザー型制服の襟を整えてから、八尋は太陽の眩しい春の朝へと足を踏み出した。

相羽 桂
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相羽 桂

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