4話 地獄からの脱出
悲鳴の嵐。
入学式というおめでたい場は突如として絶望の渦に巻き込まれた。座っていた生徒に保護者、立っていた教師たちなど関係なく、そこにいるほとんどの人がホールの出口へ向けて殺到している。
その中で冷静なのは、命の危機に精神を研ぎ澄まされた八尋、そして彼の隣に座る女子、さらなる獲物を得ようと空を漂うゴーストだけだ。
「あの……」
「ん?」
あまりにも動きなく、この状況を見守っている八尋に声がかかる。それはもちろん、混乱に飲まれた人々を見て逆に冷静を取り戻した少女のものだ。
人々のごった返すたった1つの出入口から視線を外し、八尋は据わった視線で少女を見る。
「逃げなくていいんですか?」
「ああ……いや別に、ゴーストはこっちへ来ないんだから逃げる必要もない」
自身の変化を除けば、八尋は今の状況を正しく認識していた。
危険なのはゴースト。しかしその影は団子となる人々の中で、後ろに位置する者を襲っている。それぞれ違う色の粒子を放出しながら倒れ行く人間のせいで、その辺の空間は煌びやかだ。
とにかくゴーストがいない今、ここにいる限りは人々の殺到する中に紛れて逃げるよりは危険が少ない。
「それに、外がどうなってるかもわからない」
「えっ?」
「朝のニュース観てないか?」
「す……少し寝坊しちゃいまして」
なんだか恥ずかしそうに俯く少女。肩まで届かない後ろ髪とは逆に、少し長めの前髪がもったりと下がって彼女の目を隠す。
「……アメリカにゾンビが出てたよ」
「ゾンビ?」
「死んだ人間が動くってことだ。そしてそいつらは、生きている人間を襲う」
「じ、じゃあ! あの幽霊も……」
「そう言う事だ」
アメリカとは違い、日本は火葬が主。死んだ人間の肉は遺らないのだから、果たして蘇るならどのような形になるか……その答えがあの影なのだ。
八尋は今まででは考えられないほどの頭の回転で、その答えをなんとか導き出した。中学の歴史で少しだけ聞いていたのを思い出したのだ。とはいえ、それがわかったからといって何かが変わるわけでもない。
「君はなんで逃げなかった?」
何かを考えるように黙りこくってしまった少女に、八尋は1つたずねてみる。
「それはえっと……あなたの体から白い光が出てて、何かあるのかと思ったから」
返ってきた言葉を受けて、八尋は自分の体を見回してみた。
すると確かに、目の前で倒れた男子とは比べ物にならないほど微かな白い粒子が制服に張り付いている。
「これは……なんなんだ?」
剥がすようにそれをすくい取って、ましまじと見つめる。しかし答えが返ってくるはずもない。わかるのは、それが体の中から生まれてくるということだけだ。
「あの……」
「何だ?」
答えのない事を全力で考えていたところで、最初に声をかけてきたときと同じ言葉が飛んでくる。
「死んだ人が生き返るなら……」
と、最後を濁しつつ、少女は指先を目の前で倒れている男子へと向ける。ついさっきゴーストの手にかかってしまった彼だ。
「……逃げるか」
見たところ外傷は無いが、動きもないものだから油断はできない。離れておくことに越したことはない。
そう判断すると椅子の列を外れ、八尋は入口とは反対のホール前方へ進む。少々不安げな面持ちで少女も当たり前のように彼の後ろに続く。
さすがに入り口が1つということはないだろう。地面に造られているのだから、少なくとも1つは裏口があってもおかしくはない。そんな予想をもとにホールの袖口に入ったところで、八尋は一応事態を再確認しておこうと後ろを振り返る。
「げ……」
そこで彼は息を飲んだ。そんな八尋の様子に釣られて、少女も同じように後ろを振り返ってさっきまで居たホールの出入り口に視線を向ける。そこで彼女もハッと目を見開いて動きを止めた。
フラフラと揺れながら人の塊へと向かっているのが、明らかにさっき倒れていたはずの男子生徒だったから。やはりゴーストに捕まった者は死を与えられるらしい。
見ていると、避難が間に合わずゴーストに捕まった人々もゆっくりと体を起こし始めている。ただ体の中から何かを引きずり出されただけの彼らには外傷が無く、見た目ではゾンビと判断するのは難しい。
しかしその凶暴性だけは明らかだ。
人が殺到し、押され揉まれ、あえなく体勢を崩して混乱する人々に足蹴にされた敗者たちへと群がるのはゾンビだけ。その人歯で、呻く人々の肉を引きちぎっている。
吹き出す赤い血が地面を染め、空はまんべんなく粒子で埋め尽くされる。犠牲者のお陰で数を減らした人塊は段々とその大きさを萎ませ、ホールからは人がいなくなろうとしている。
「行こう……」
「はい」
引かれる視線をその冷静な判断力にて切り、少女にも声をかけてから八尋は小さなドアより外へと出る。と同時に、彼はフラリと体を揺らす。少女が声をかける間もないほど一瞬の出来事で、しかし八尋が倒れることは無かった。
「……あれ?」
自分の頭の中に満たされていた、冷たい力が抜けだしたような感覚を得て、八尋は戸惑いをみせる。
「白い光が無くなりましたね……」
とは少女の言葉。確認してみれば確かに、八尋が纏っていた白い粒子は完全に消えてしまっている。
「あれがある時だけ……か」
さっきまでは快晴だった脳内が、いつも通りの晴れに戻ってしまっている。今まで得てきた全てを活用して考えることが出来るのは、白い粒子を纏っている時だけ。
今は、それを想像することしか八尋には出来なかった。