7話 同調圧力
静かになった駅を早々に越えて反対口へ。飛行機が突っ込んだ側とは違い、こちらには未だ少なくない人がいた。当然そんな彼らの視線は、いきなり崩壊した駅へと向いている。
そんな駅の中から八尋が出てきたのだ……まさか注目されないはずもない。
階段の上で、駅前の広場を見下ろす八尋。いつもであれば何も考えること無く、きっと周囲の喧騒をうっとおしく思いながら通っているこの場所。しかし今日は、そこからの景色に圧倒されてしまう。
原因不明の火に包まれた駅を前にして立ち往生していた者たちが、そこにはいる。
それはきっと、運動会の開会式で開会の言葉を言う人が見る光景と同じ。
違うのは下にいる人々が困惑の表情を浮かべていること。まるで神になったかのような気分だった。
だが……。
――急がないと。
一度目を閉じて、開く。八尋はその行動によって無駄な思考を排除した。それからすぐに、少し幅の広い階段を素早く駆け下りて真っ直ぐ走る。
「おい君!」
と、駅前のロータリーで駅の様子を見ていたスーツ姿のおじさんが八尋に声を飛ばす。その声音からは、今の状況に適応しきれていない焦りが感じられた。その後ろで立ち止まっている人々も不安げな表情を浮かべながら、おじさんと八尋に注目している。
きっと彼らは知り合いというわけでは無いはずだ。今日不思議な出来事に遭遇して、駅から電車で何処かへと向かおうかと思った人々……という点では仲間と呼べるのかもしれないが、きっと自分が犠牲になるのならば身代わりとして、何も考えること無く差し出すことができる他人なのだろう。
もちろん八尋も、声をかけてきたおじさんのことなどは知らない。
そして今は、そんな他人の事を気にかけている暇も惜しい。
八尋は少しだけ進行方向を変えた。目の前で声をかけてくるおじさんを避けるために、気持ち左へと階段を降りる。そのおじさん以外は、他人に声をかける勇気もない受動的な人々でしかないようで、八尋が定めた進行方向に居たものは素早くはけて行く。
だが声を上げたおじさんだけは違った。
「君! 向こう側はどうなってるんだ! 電車は!? 警察は!?」
本当に逃げたい、助かりたい、という気持ちが伝わってくる言葉の勢いで、関わらんとする八尋からなんとか情報を引き出そうとしてくる。
電車も警察も機能しているはずがない。今のこの状況を見れば聴かずともわかることだろう。急いでいる状況でわかりきった質問をぶつけられて、八尋の心の中には小さな怒りの感情が芽生えた。
「こっちにはお前しか来てないんだぞ! 何か隠してるんじゃ無いか?」
そんな八尋の感情を知らないおじさんの言葉は、段々とトゲのあるものへと変化していく。向こうにも余裕が無いのは同じなのだ。
だが双方共に余裕が無い時、少数の方は圧倒的に不利となる。
「確かに……さっきの爆発もあいつがやったんじゃ……」
普通に考えれば絶対にありえない、馬鹿げた内容であっても、心に余裕のない人々にはまるで毒にかかったように染みこんでいくのだ。
たったひとつ、誰から漏れたかもわからぬその言葉は徐々に周りの人々へも広がっていく。その内容はみるみるうちに改変され、大勢が有利になるように姿を変えられながら。
「つまりあいつをどうにかすれば……俺達は助かるのか?」
1つの言葉が、駅前に溜まった人々にそのような判断をさせるまで、一瞬だった。
八尋は未だ、最初に声をかけてきたおじさんすら突破していない。
人々が自然と開けてくれた道が閉じられる。さっきまでは非干渉で、情報のおこぼれに授かろうとしていた者は、今や誰もが真剣な表情で八尋の動きを見ている。
「止まれ!」
「止まれ!」
「止まれ!」
傍から見れば恐ろしい光景だ。
たった1人の15歳を、きっと百人を越える人々が押しとどめようとしている。
既に彼らの中に正常な思考は存在していない。大勢で同調することによって、自らの中に燻ぶる恐怖を小さく出来ればそれでいいのだ。もし、八尋が本当に何も知らなかったとして、彼に非人道的な暴力を振るったとして、でも彼らは何か他の理由を付けて自分たちの行動を正当化するだろう。
それを解ってか解らずか、八尋はむしろ走る速度を上げた。温い空気を感じながら、彼は人の波へと突っ込んでいく。
しかし全速力で走っているはずなのに、何故か八尋の感覚では速度が落ちている。速度が落ちているからこそ彼は足の動きを速めたのだ。もう最高速度で駆けているはずで、筋肉の悲鳴すら聞こえてきてもおかしくは無い速度を出しているはずなのに、まるで歩いているかのような速度で周りの景色は動く。
ここで八尋の周囲に白い光が漂い始めたことに気がついた者は、きっと数えられるくらいしか居ない。
自身のピンチに、彼の心は反応した。
学校のときに訪れた、頭が冴え渡る感覚が戻ってくる。
自分だけでなく、前で行く手を遮る人々の動きすらも遅くなる。
その御蔭で、横から迫っていたおじさんの手を身を伏せることで回避した。
――行ける!
百人もの人が居るとはいえ、駅前のロータリーは広い。まさか全範囲をカバーできるはずもなく、お互いに意思疎通も無い人々が作るバリケードは穴だらけだった。
普通なら四方八方から迫り来る腕に捉えられて終わりだっただろう。世界の常識が変わっても数の暴力というものは存在する。だがそんな力をもねじ伏せる能力が生まれたというだけのことだ。
決して八尋が異常な速さを出しているわけではない。しかし確実に触れられると思って手を出せば、彼の体は触れられてもいないその手に押されているかのような滑らかさで離れていく。
八尋には全てが見えていた。
相手が力んだ瞬間も、喉を震わせ声を出そうとする瞬間も、自分の動きすらも、全てが見える。
そんなスローモーションの世界で、頭の中だけはクリアな彼は相手の動きを見切り、紙一重のところでかわす動きを可能とした。
穴だらけのバリケードを縫って走る。
左へ、右へ、上へ下へ、体重を巧みに移動させながら、八尋の体感では数分、現実では15秒という僅かな時間で、狂う人々の群れを突破した。
白き光を纏ったままに、八尋は振り返ることなく前へ進む。
後ろから飛んでくる怒声など恐るることはない。
社会人の老いた身体能力で、成長期真っ盛りの八尋に追いつけるはずもないのだ。
数人は食らいついて追ってきたものの、ロータリーから出る頃には息も絶えだえ。しかし八尋の速度は落ちない。
無尽蔵な体力により、彼はその先数分……一度も止まることなく自身の家へとたどり着いた。