新たな約定
剛健の後を追った先は旧市街の一画、わずかに整備されたビルだった。
どうやら現場の方で何か非常事態があったようで、あの男はこの場にはいない。
わずかに軋む扉を開け、中へ入る。
想像していたよりも整頓された室内と、外見からは想像もつかないような設備の数々がずらりと周囲に立ち並ぶ。
その中心、そこで優雅に紅茶を啜っている人物に、オレは呼吸を止めるほどの衝撃を受けた。
「……そうか」
理解できない納得と安心が、そんな言葉を紡ぐ。
そうして、少女はようやく気づいたようにこちらへと顔を向けた。
互いに、一言も発さない。
かといって視線を逸らすほどに気まずいという雰囲気ともまた別の気がする。
「オレが守ろうとしていたのは、君だったのか」
自分のどこを探したところでそんな記憶はない。
だが、確信に近いものがあった。
赤のメッシュが入った濡れ羽色の髪と、澄んだ琥珀の瞳。
顔立ちのせいで人を睨んでいるようにも見えるだろうが、優しい少女だ。
「汐音、その名前で間違いないな?」
「そうだよ、バカ野郎……っ!」
忘れていた。
そんな意味もないことを言う前に、言葉が遮られる。
脇目も降らずに飛び込んできた汐音を受け止めてやる。
いきなりのことに驚きはしたが、常識の欠如しているオレでも泣いている少女を引きはがすことはできない。
「何がオレを囮にして逃げろだよ……っ、こっちはな、ずっと音沙汰もないアンタを探すのに必死だったんだぞ……!」
力ない拳が振り下ろされる度、鈍い痛みが去来する。
その理由を、今のオレは知らない。そのワケを、オレは分からない。
「言いにくいが、記憶を失くしてしまったんだ。できることなら、色々と教えて欲しい」
「はは……そういう空気を読んでるようで読んでないところ、変わってないよ」
なんてことない言葉が、酷く懐かしかった。
ゆっくりと、少女の体温が離れていく。
それを名残惜しいと感じているのは、元にあった記憶のせいなのか。それとも……。
「改めまして、だね。私は五十嵐汐音。あなたと同じ時代からやってきたシンメトリだよ」
「同じ時代から来た?」
「一応ね。信じないとは思うけど、私の能力は『時間加速』だから」
……思考するまでもなく、その能力が如何に埒外なものかは察して余りある。
時間を加速させる。
一見して無意味のようにも感じるが、その使い方次第ではいくらだって常識を覆せるだろう。
だが、問題はそこだけではない。
シンメトリの性質。それは言わずもがな対称となる異能が必ず存在しているということにある。
「時間加速と時間後退……考えるだけで厄介なものだ」
「あの機械の敵には、もう会ったんでしょう?」
「ああ」
「あれを操っている親玉が、時間後退を持った正真正銘の化け物よ」
それは、考えたくもないことだ。
実質的に時間を操れる相手ともなれば、そんな相手と戦うだけこちらの不利は変わらない。
状況は良くなかった。
「でも、私のシンメトリで相克できる。力が拮抗するなら、時間は今と変わらずに進むはず」
「……そうだろうな」
そう、オレはそのことを知っている。
知っていてなお、かつてのオレは逃げることを余儀なくされた。
「もし、自分に自信が持てないと言うのなら、それは、私のせい……」
ぽつりと、懺悔のように汐音は重い溜息を吐き出す。
「私を庇って、そのせいであなたは囮になった。ならざるを得なかった。こんな私を、助けるために」
「そうだったのか」
そう言われたところで、あまり実感はわかなかった。
それは恐らく、そうすることを当たり前だと思っているせいだろう。
物事には適材適所があり、たまたま運が悪く最悪な状況に放り出された。ただそれだけのことに過ぎない。
「だが一つだけ、伝えておくべきことがあるな」
彼女にかけるのは慰めの言葉ではない。
必要なのは、これからの覚悟だ。
どんな状態であろうと。どんなに無謀な状況であろうと。
かつてのオレが選んだように。あるいは今のオレが自然とそうしようとするように。
彼女もまた、一つの選択をしなければならないのだ。
「もし本当の意味で誰かの隣に立ちたいなら、実力を揃えることから始めるんじゃなく、隣に立つだけの勇気を持つことだ」
それは、契約。
古い記憶の中にある、最も泥臭い『約定』だった。
「敵を排除する。そのために、お前が必要だ」
差し出した手を、汐音はためらいながらも握り返してくる。
まだすべての記憶を取り戻したわけでも、この空虚な心が満たされたワケでもない。
だが。
今ここに、この契約を交わしたという事実は、紛れもない真実だった。