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三階まで上がると、ここ一年ろくに運動をしていなかったせいで、息が上がった。そして息が上がると、部長と路地裏で全力疾走をしたことが思い出された。思い出した瞬間、ふっと小さな笑いがこぼれてしまったが、それがどうしてだろう、妙に嬉しかった。
おかしな感覚を覚えながら、第二会議室まで足を伸ばした。
会議室という大きな部屋の隣にあるのが第二会議室だ。その部屋はいくつかの教室に隣接されている準備室ほどの広さになっている。使用方法は会議室で使う備品を保管し、収納する、といったところだろう。それならネームプレートには倉庫、とか、会議準備室、と彫るのが適当だったのではなかろうか。第二会議室が会議室として使われている形跡がなかったので、思ったまでだが。
と扉の前で逡巡していても仕方がない。俺は意を決して、引き手を引いた。
すると、中には部長――三日月がいた。
どうして三日月と言い直したのかというと、彼女が、眼鏡を掛けておらず、髪もポニーテールにしていなかったからである。つまり、課業中の容姿のままだったわけだ。
三日月は部長の時と同じく奥の席に座っており、手を膝の上に乗せて折り目正しくしている。しかし俺に気づくと顔を上げ、視線をそっと重ねるように合わせてきた。
「……」
俺は三日月をどう呼ぶべきか迷ってしまい、入口の手前で言葉に詰まってしまった。その一瞬を逃してしまったおかげで、話し始める機を完全に逸してしまった。
困り果てていると、三日月が物腰柔らかに立ち上がり、申し訳なさそうに口を開いた。
「志津摩さん。良ければなんですけど、これから私に付き合ってもらえませんか」
その、綽約たる風姿の三日月さんの言葉を聞き、俺は戸惑いながらも返事をした。
※
三日月さんが校外に出ると言うので、鞄を持ってきていなかった俺は教室に戻り、帰る準備をして生徒玄関に向かった。三日月さんがそこで落ちあいましょうと言ったので、そうした次第だ。
生徒玄関に着くと、三日月さんはすでに外履きに履き替えて待っていた。俺はやや急いでスニーカーに履き替え、彼女に謝った。
それほど待っていませんから、と三日月さんは答え、じゃあ、行きましょうか、と俺を誘〈いざな〉った。
やや斜め後ろに控えて歩き始め、運動部が練習に勤しんでいるのを尻目に校門までの道を通過した。
そういえば、昨日ここを通った時、部長はいやに大人しかった。おそらくあれは、目立って周りの者に三日月だとばれるのを避けるためだったのだろう。
校門で立ち止まり、三日月さんはすぐに昨日と同じ道を行き始めた。これまで一言も言葉はなく、今も何かを話す気配はない。
昨日は、校門で部長がふざけ始め、中国人もどきの口調で話し始めたり、突然罵倒し始めたりで対応に疲れた。しかも、中国人もどきの口調を追及したら、全力で走って逃げていく始末。あまりの驚きに唖然としてしまったが、あれはあれで得難い体験だったかもしれない。
と回想していると、三日月さんが路地裏に続く細い道に入り、俺もそれに続いた。
ここでは嬉しそうに笑いながら走る部長をひいひい言いながら追いかけた。運動不足が祟り、カフワまでの道は地獄に思えた。だが、町中を全力で走ったことなど小学生の時以来で、年甲斐もなくわくわくしてしまったことも事実だ。
路地裏を抜け、一時歩道を歩いていると、カフワにたどり着いた。三日月さんは立ち止まり、店内をガラス越しに見ている。
店内は幾らか客が入っているようで、メイド服のウェイトレスが忙しなく行ったり来たりしている。
ここのコーヒーは美味しかった。インスタントや、自宅でドリップするのでは満足できなくなるほど、薫りが美味かった。
マスターは元レディースのような人で目つきが怖かったが、実際は気前のいい良店主だった。コーヒーとケーキを奢ってくれ、さらにはヴァイオリンの生演奏まで聴かせてくれた。人は見かけで判断できない、という言葉は、カフワのマスターのためにあったのかもしれない。見かけで判断できないという言葉は、マスターだけに言えたことではないが。
七鳥ことりは俗にいう天然を体現した女子生徒だった。部長が好き勝手にしゃべり、彼女の天然発言が炸裂すると、俺の処理能力では収拾がつけられない事態となった。もし談話部が存在し、彼女が実際に入部していれば、部活動は混沌を極めたかもしれない。
部長がカフワで部長のままでいられたのは、マスターと七鳥が三日月を知らなかったからだ。要するに、マスターと七鳥が部長の側面だけを知っていたから、自然体でわだかまりなく接することができた、ということだ。
とっくり思考に耽っていると、横にいた三日月さんがいつの間にかいなくなっていた。首を回して歩道の先を見ると、すでに十メートルほど先まで歩いて行ってしまっている。俺は小走りで追いかけていき、斜め後ろの定位置まで来ると、歩調を合わせ始めた。
カフワを出た後も、一悶着があった。部長が図書館に行こうと言い出し、なぜか俺の借りている本の返却期限を知っていてそれを心配するという、妙ちきりんな様相だ。俺が中座している間に鞄の中を漁ったようだが、さて、どれほどの腹積もりがあって返却期限のことを言い出したのか。おおよそ気まぐれで鞄の中を物色し、偶然、花崎が通っている図書館の本を見つけ、都合が良いと判断したのではなかろうか。まさか、俺が図書館でどの本を借りたかまでは把握していなかっただろう。部長が俺に目をつけたのは水曜日であるし、俺が図書館で本を借りたのは一週間前だ。あるとすれば、花崎を観察しに来ていた部長が、偶然俺が本を借りている瞬間を目にし、その本を記憶していた、ということだが、どうだろう、それはあまりにも暗合がいきすぎている気がする。
※
図書館に着くと、三日月さんは駐車場の前で立ち尽くし、入り口を見た後に建物全体に目を向けた。それが終わると、また次の場所へ向けて歩き出す。
きっと、というかそれ以上の確率で、次の行き先はモモ&ココだろう。その次にどうするのかは予想がつかないが、ほぼ確定だと思う。
即かず離れず付いて行きながら、図書館で起こったことを回想した。
まず、部長が迷子になった。本を返却して振り返ったら、忽然と姿が消えていたのだ。部長は奥の席に陣取り、図鑑とにらめっこをしていた。その行動もかなり常軌を逸したものだったが、どうやらどこかで計算をしていたらしい。花崎が座っている席の隣の机に陣取るという行為がまさにそれだろう。
部長は花崎が笑いやすい人間だということをあらかじめ調べていたのかもしれない。その上で俺を緩衝材とし、笑いのツボを刺激することで打ち解けようとした。ふざけたやり方だったが、部長の思惑は結果、当たった。
俺を間に入れたのは他にも意味がある。部長は、花崎が三日月を知っているか否かの判断がついていなかったため、俺を利用して小手調べをしたのだ。そうすることで、変装がばれていないかを判断し、三日月を知っているか否かも探りを入れた。ほとんど賭けのような企みではあったが、部長が、図書館に足繁く通っていただろうことを加味すると、それも目論見通り、と言えるだろう。
※
商店街に入り、まだそれほど混雑していない人波をすり抜けると、モモ&ココに到着した。
例のごとく三日月さんは店内を見やり、ただそれのみで中に入ろうとはしない。
俺は、店内であの女性店員と客が仲良く話すのを眺めながら、疑問と格闘を始めた。
正直、昨日の出来事の中でここに来たことだけが合理的でない。全体的に見ても行き当たりばったりで計画性がないように思えるが、目的だけは達している。しかし、ここに来たことはなんの成果も残していない。
ここであったことはなんだ……。店員と仲良く話した。猫と戯れた。あとは……そう、部室でできなかった自己紹介をしようとした。だが部長がまたふざけ、結局お流れとなった。
この場所のキーワードはまさに猫。それしかないだろう。猫、ねこ……。猫という単語が出てきたのは部室を出る前。つまり最初の自己紹介が破綻してしまった後だ。そういえば、部長は俺が読書をしている間に好きだ、と言った。後から訊くと子猫のことだと答え……。
自己紹介。猫。
……。
要するに、そういうことか。
ここに来たことは、計画でも企みでもなかった。ただ純然に、気持ちの向くままに訪れた。理由は、言わずもがな。そして計画も企みもなくそこにあったものは、偽らざる気持ち。
あるいは思惑すらなかったのかもしれない。ただその気持ちがあるだけで、行動を起こし、あとから見れば結果としてそうなっていたように。
部長は、この場所では、三日月満月という一人の女の子だった。だからだろう、俺が心ない発言をした時、手痛い仕打ちを受けてしまったのは。
俺の発言は、純粋な女の子の気持ちを顧慮しない、それこそ子孫七代まで祟られても不思議ではない、無分別な振る舞いだったのだ。手痛いどころか、手酷い仕打ちを受けてしまっても、それはやむなし、よんどころない、と言ったところだろう。
しくしくと疼く下顎の辺りをさすりながら、店員が抱いている子猫がじゃれつく姿をしばし眺めた。
三日月さんは鞄につけたストラップを揺らし、また違う場所へ足を向ける。
一目見ただけではわかりづらい、銀色の猫のストラップを揺らして。
※
店を離れてから、モモ&ココを出た後のことを道々考えた。
部長はまだどこか行くところがあると言い、毎度のごとくふざけてきたが、果たして、あの後どこへ向かつつもりだったのだろう。
もしかすると、今向かっている場所が、昨日、行きそびれてしまった目的地なのかもしれない。
それはそれとして、昨日は、店を出た後に悠と行き合い、部長の様子がおかしくなった。豹変、と言うといき過ぎた表現にも思えるが、実際、部長はそれまで自由奔放に振舞っていたにも関わらず、悠に会った途端、広げていた羽を折りたたんでしまった飛禽のようにしおらしくなってしまった。口数も極端に減り、どこかおどおどしていて、自信なさげな様子。……それも当然か。三日月が談話部を作ろうとしていることを知っている悠に放課後に会い、三日月のことをどう思うか訊かれて興味が無いと答え、その後に談話部の部長として振舞っているところに出会ってしまったのだ。正体が露呈することを恐れて当然だろう。正体を隠そうとした後ろ暗い気持ちもあるだろうし、三日月と部長の気質の違いも一般的に見て良い印象を持たれるとは思えない。
三日月はまさにあの時、窮地に立たされていたのだ。
月に叢雲花に風。悠に会う前までが思惑通りなら、それは三日月にとって喜ばしきことであり、悠に会ってしまったことが不慮の事態なら、それはまさに好事魔多し、不本意なことであったろう。
そんな折、俺が談話部の部長として紹介した。だから、悠の中で、点と点がつながってしまった。談話部の部長ということは、部を作ろうとしているのが三日月さん一人なのだから、この人は三日月さんに違いない、と。果たして、そこまで情況証拠が揃ってしまった三日月は正体を暴かれた。あれだけ証拠が上がれば、変装も意味を成さない。ただでさえ眼鏡に髪型変更という、危なげな変装なのだ。勘付かれないわけがない。
俺が口調を変えた時、涙したのは何故か。
思い寄る理由は、罪を犯して矢面に立たされ、糾弾されることが怖かったからだ。俺を騙して入部したと思い込ませた上、部の活動と称して色々な所へ連れ回し、自由気ままに振る舞って困らせ、あまつさえ二人の女子生徒まで勧誘し巻き込んだ。談話部の関係で騙した人間は都合五人以上だ。別人として振る舞い、周りを騙した人間を数えると結構な数になるかもしれない。部長としては三日月を知らない人間を騙し、三日月としては部長を知らない人間を騙した。ただ、結果として騙すことになったのであって、三日月――部長には、その意図は全く無かったのかもしれない。……いや、実際なかったのだ。だからこそ別人として振る舞うことのジレンマに陥り、俺が掛けた言葉により針の筵に座らされ、それまで保たれていた仮面が瓦解し、結果として感情の発露に耐えられなくなった。
それはまさに、一人の人間が別人として振る舞うことの皮肉であり、そうすることへの皮肉でもあった。
違う人間になど絶対になれはしないと。
過去を切り捨て決別することなど決して叶わないと。
そして、変わりたいのなら、それまでを背負い、押し潰されそうになりながらも、足掻き、もがき苦しみ続けろ、と、そう言っているのだ。それを続ければ、いつか、どこかで、何かが変わるかもしれないと。
※
商店街を抜け、しばらく歩を進めていると、住宅街に入った。
昨日より一回り小さく見える三日月さんの背中を見つめながら、俺は思量した。
悠の情報によって、普段の三日月が部長とかけ離れていることを知った。
三日月。部長。容姿に大した差はないが、その気質は大きく違う。清楚可憐と自由奔放。温良優順と傍若無人。その性質は同時に存在せず、また、相容れない。
そこで俺は立ち返り思うのだ。端倪すべからざる事案ではあるが、三日月は、どれほどの勇気を持って、部長になったのかと。清楚可憐な三日月が、全くもって性質の違う、自由奔放な部長になったのはなぜなのかと。三日月の行動の真意は、どこにあるのだろう、と。
第二会議室で俺が意識を取り戻して話しかけた時、三日月はどう思っただろう。部長にならなければならないと思い、焦っただろうか。三日月だとばれはしないかと緊張し、怖がっただろうか。最初の一言を発するとき、少しでも物怖じしたのではないか。人を騙す罪悪感に苛まれもしたはずだ。
ふざけている時は、悪いと思いながらも、少しでも楽しい会話ができればと考慮して頑張っていたのではないか。部室から出て、校外に出るまでだって気を張っていたはずだ。校外に出ても、自分を知っている人はいないだろうか、と想見していたに違いない。いきなり走りだしたのは、自分と俺の緊張を紛らわそうとしてやったことかもしれない。
カフワに一緒に入店したことは、マスターが言っていたように、誰かを連れ立ってやってきたのは初めてらしかった。初めて一緒にコーヒーを飲んで、初めて他の人と一緒にマスターと話をして、七鳥とも会話した。もしかしたら、七鳥とあんなに話すのは初めてだったのかもしれない。マスターの演奏を聴かせるのも、俺が初めてだったのではないか。
図書館に行こうと言い出し、俺が借りている本の返却期限を心配したのも、俺を楽しませようとしてやったことかもしれない。図書館に入って突然いなくなったことも、自分が楽しいと思うことを実行しただけで、他意はないのではないか。そのせいで女の子に迷惑を掛けてしまったことは良くないが、それは三日月なりのコミュニケーションだった、とはとれないだろうか。花崎を笑わせたことも、打ち解けようと思ってやったことだ。その時も、嫌われはしないか、なにか失敗はしないかと、不安でいっぱいだったに違いない。花崎と話すのは初めてで、しかも部長として人前で振る舞うのはあの日が初めてだったのだ。そんな状況で、恐怖も何もなく、泰然としていられるわけがない。
もしかすると、三日月は前々から『部長』として振る舞う練習をしていたのかもしれない。自然体で喋れるように何度も予行し、しぐさや身振り手振りも、そつがなくなるまで反復したのかもしれない。第二会議室で独りで。自宅の自室の中で独りで。それくらいの造作をかけなければ、急に自身のあり方を変えることは難しいはずだ。よほどの器用さと柔軟性、順応性があり、加えて最高に機転が利く人物でないかぎりは。でなければ、急激に変化させた気質に違和や不自然さを感じるはずなのだ。少なくとも、俺が見てきた部長はあくまで自然体だったように思うし(俺が人情の機微に鈍感ではないと信じての考察だが)、三日月の片鱗などおくびにも出していなかった気がする。
ペットショップを出た後、悠に遭遇して、三日月は何を思っただろう。あまりの偶然に驚愕し、唖然としただろうか。なぜここでこの人と出会うのか、と嘆いただろうか。三日月は焦ったはずだ。慌てたはずだ。恐れたはずだ。自身の正体が露顕することを。いつ三日月という単語が出るかと気が気でなかったはずだ。そんなところへ、俺が決定打を放ってしまった。部長、という悠にとってのキーワードを。
俺の大声〈たいせい〉を聞いた三日月はどんな気持ちだったろう。涙を流しながら、何を思っただろうか。ごめんなさい、ごめんなさい、と、心の中で謝罪を繰り返しただろうか。
涙が独りでに出る、ということは、精神が耐えられなかったのだろう。人を騙したことに対する罪悪感と、そんなことをしてしまった自分の情けなさに。
小さい頃、悪戯をして母親に叱られ、泣いてしまったことは誰しもあるはずだ。幼い時は、母親に裏切られたような気持ちと、思い通りにならない不満とで声を上げてしまうのだが、でもどこかで、なんとなく、自身の罪と至らなさを自覚していた気がする。
三日月の感情は、それと少し似ているかもしれない。
見捨てられ、自由を奪われ、しかしそれは自身の過ちによるもので、だから己の浅はかさを思い知る。
部長は――三日月は、そうまでして、変わりたかった。
変えたかったのだ。自分の世界を。