第一章:追われる少女――10
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二番地の学生寮に辿り着いたときには、既に日が暮れていた。
小柄とは言っても、人間一人を乗っけて全力疾走を続けたから、太股もふくらはぎもパンパンだ。
だが、まあ、何とか、追っ手は捲れたようで、少女も怪我をすることなく、この〝四〇六号室〟に到着できた。
「ここまで来れば、流石に大丈夫だろ」
室内の明かりを点けて、そう言えば彼女の名前を知らないことに気付く。それ以前に、こちらの自己紹介もまだだ。
「そういや、まだ名乗ってなかったっけ? オレは月詠政って言うんだけど、キミは何て……ギャアァァァ――――っ!!」
保身のために一応言っとく。オレの精神は正常だ。当然、いきなり奇声を上げるようなことは、普段ない。
それなのに、語尾が絶叫になったのは、何もとち狂ったとか、幻覚を見たとか、非現実的な原因ではなくて、少女がいきなりローブを脱ぎ始めたと言う、現実的に起こり得るものだった。
いや、この発言自体、とてつもなく妄想染みてはいるけれど。
玄関先でストリップを始めた少女は、もう、下半身が露出されており、汚れない処女雪にも似た真っ白い肌が、仄暗い闇の中で際立っている。
黒のレースなのか、意外に大人だね。などとセクハラなジョークを言ってる場合じゃない。
網膜に焼き付けようとする男の性を、必死にコントロールして、このまま暫く傍観しようとする邪な気持ちを封じながら、少女のローブを掴んで引き下ろす。
「な、な、なななな何をしているんだ、キミはあぁぁ――――っ!!」
スポンと効果音を立てながら現れた、彼女の顔は赤く、羞恥心が働いてるのは分かるのだが、同時に顔つきがどうしてか意外そうで、
「えっ? 体が目的じゃないんですか?」
「人を何だと思っているんだあぁ――――っ!!」
どうやら、余りにもあっさりと手助けしたことに、体目当てだと、勝手な邪念を捕らえたらしい。
全く以て、逆に失礼だ。
「で、でも、それなら、何故あんなにも颯爽と? は、初めてなんで、優しくして頂ければ、ワタシは……」
「女の子なら、もっと我が身を大切にしなさい! あと、オレは犯罪目的の鬼畜じゃないからなっ!!」
早口でまくし立てて、息を荒らげる。それでもまだ彼女の表情は不思議そうで、何でか分からないが、残念そうにも見えた。
「と、取りあえず、中に入ってくれ」
仮に。そう仮に。またしても少女が暴走して、そこが玄関だったら完全に変態だ。こちらが。
彼女の顔を直視できない状態ながら、部屋へと招き入れる。
「……お邪魔します」
律儀にもお辞儀をして、彼女はリビングへと続く廊下を真っ直ぐ歩み行った。
今更だが、女の子が自室にいる事実に胸がなる。先ほどの比ではないが。
対して彼女は警戒心を完全に解いたのか、それとも未だにその気なのか、不安の見えない様子で室内を見渡している。
政の自室は簡素な造りだ。
内装はワンルームに近く、リビングとキッチンが直結。
玄関から見て左側に浴室とトイレ。先に進むとキッチンに、更にリビングと言う順だ。
現在、少女がキョロキョロと目線を彷徨わせているリビングは、奥にベランダ。左側にシングルベッド。右側奥にデスク。あとは本棚が三つ。
デスク上には最新型のOS〝アスクレピオスⅩ・3〟搭載のデスクトップ型パソコンがあり、本棚の住人はほとんどが魔術、コンピュータ関連。
ちなみに、テレビはパソコンでこと足りるため置いていない。中央に簡易的な四角机があるだけだ。
薄い水色の壁紙には、三匹の愛猫がイタズラしていて、ひっかき傷が目立つ。
特徴はあれども、魅力的ではないだろう。
「本が一杯……、勤勉な方なんですね、政は」
しかし、振り向いた彼女の口元には微笑みが浮かんでいる。順応性が高すぎる。まるで、彼氏の部屋を初めて訪れた恋人のような、むず痒いシチュエーションだ。
「そう、かな? 儀式科に通う学生なら当たり前だと思うけど……」
「儀式科? 政の通う学校ですか?」
「ああ、黎明学園の学科の一つだよ。この法陣都市の近代儀式を、管理する方法を教わってる」
「近代儀式……それで、魔術のお勉強を。凄いですね!」
照れ隠しに左手で頬を掻いていると、もう一方の手を両手で包まれる。やはり、柔らかくスベスベしていて、加えて、先の少女の霰もない姿がフラッシュバック。
――な、何故だ? 何故、オレが手込めにされている――?
もうすっかり彼女がペースを掴んでいた。おかしくないか? 彼女は軍に追われる、か弱い女の子じゃないのか?
「そ、それより、オレはキミをなんて呼べば良い?」
慌てふためいているこちらに、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、残念な胸を精一杯反らして、
「〝ドグマ〟と呼んでください。〝ドグマ・ルイ・コンスタンス〟。それがワタシの本名です」
〝教理(ドグマ)〟? 変わった名前だ。まるで、偽名のような……、本名とは言ったが、彼女は何かを隠しているのではないか?
思い、政は聞く。
「ええ……と、ドグマ? いくつか質問して良いか?」
「スリーサイズですか?」
「違ぇよ」
何でソッチ方面に話の腰を折るんだ、この子は。
額を掌で覆いながら、痴女っぽい少女に真面目に尋ねる。
「キミは、何もしていないと言ったけど、心当たりは本当にないのか?」
ドグマは小首を傾げた。
「流石に、人違いだとか間違いとか、そう言う類いには思えないんだ。キミを疑う訳じゃない。――けど、理由もなく追われるってことはないと思って。……本当に、何も理由が見当たらず、キミは追われていたのかな?」
一拍の間を置いて、彼女が息を吸い、二拍目で僅かに視線を逸らし、だが、
「そうですね。本当のことを言うのは礼儀ですね」
こちらを直視して、言った。
「彼らは、多分、ワタシが持っている〝魔導書〟を狙っていたのではないでしょうか?」
「魔導書?」
疑問形は、何だそれ? との意味ではない。
現在の魔術社会は、魔導書の発見から始まったもので、魔導書なんてファンタジーじゃないか、と言う考え方は、一周回って時代遅れ。
つまり、疑問の内容は、どこに隠しているのか? との意味合いだ。
ドグマの両手は自由になっているし、彼女の所有物と呼べるのは、体を包む質素な黒い生地だけ。
だとしたら、ローブの中に隠してあるのかと思い至ったが、あえて口にはしなかった。
「――今、ちょっとだけエッチなことを考えませんでした?」
「だから、何で少し嬉しそうなんだ! 脱ぐなよ、絶対に!」
何故ならば、そう言うことだ。
ドグマはつまらなそうに頬を膨らませて、
「魔導書はありますよ。ワタシの中に」
「中に? 記憶しているってことか?」
「いいえ。記憶するだけでは再現性に欠けますし、後世に残すことはできません。刻まれているんですよ」
「ワタシのDNAに、テキストデータとして」
DNAに、刻まれている?
思わず、政は絶句した。
「別段不可解なことではないでしょう? 魔術が当たり前になり、科学技術の進歩も著しい昨今です。ゲノム編集とか、ホムンクルスとかも、さして珍しい話ではない筈ですよ?」
ドグマはそれでも笑っている。その表情に嘘はなく、寧ろ、秘密の共有を喜んでいるように、内緒話をする悪戯っ子のように見えた。
「キミは……、何者なんだ?」
「〝魔導司書〟。――魔導書を保存するために創られた、生きた〝DNAコンピュータ〟です」
三匹の愛猫が、不思議そうに見上げる中、ドグマは言い切る。