鳰の浮く海

あれから長い時間が過ぎたように感じたが、今思えば一睡の夢に近いものだった…
くすは自ら願って竜子の侍女となり、竜子が羽柴秀吉の寵愛を受けると父と弟の仇と同じ屋根の下に住むことになった。
実宰庵に居た三人の妹も秀吉に保護されていた。小谷落城の年に生まれた江は三度の婚礼を挙げる。初は高次に嫁してくすとの再会を喜んだ。竜子は秀吉に事情を話てくすを再び弟夫婦に預けた。以降は初と共に過ごすことになるが、秀吉もくすを無下にはしなかった。
茶々が秀吉の側室になったとき、くすはそれが妹を守る使命感からの行動だと理解し、変わらない長妹に呆れもしたが、自分にできない頑なさを愛おしく思えるようにもなっていた。初の縁で高次は出世し、大溝城を与えられる。小谷や今浜は対岸になるらしい。長政と共に見た琵琶湖への夕陽はここでは見れない、琵琶湖の向こうから朝日が昇るのだった。
同じ近江で、同じ琵琶湖と日輪を見ながらその見え方は全く違う。不動の天地がそうならば、人は尚更のことではないか。人は迷うが正しい答えはない。ただ見え方で変わるだけ…くすはこの悟りを胸に髪を下ろし宝光院と号したが、初は離れることを許さなかった。
この先の三人の妹の運命は世に知られた通りである。
くすは、初と共に生き、高次が最後に得た若狭において龍潭寺を建立した。これは両親の菩提を祀る寺だった。徳川氏の幕府への遠慮もあり茶々が付けた長政の戒名をそのまま使わず似た名にした。形こそ両親の寺だが、くすは茶々も万福丸も含むと考えている。そして自分より先に浄土へ向かう家族全てとも…


長い昔話の間に、子どもたちの親が迎えに来て、誰も居なくなっていた。
そして若狭の海に鳰が飛来した。
「まさか、鳰は湖の鳥なのに」
くすは、我が目を疑った。いや疑う視力すらくすには残されていなかった。
年老いて光を失ってから、わずかな音でも敏感に聞こえるようになった。波の音を聞けば目の前に海も広がり、鳥の姿も浮かんでくる。
しかし、海に鳰を浮かばせるような幻は見た事がない。
波の向こうに見える山に夕陽が沈んで行くのが見えた。
「これは、若狭ではなく近江。今浜から見た懐かしい琵琶湖の風景」
幼い頃、父が鳰を冬の渡り鳥だと思い込んでいた。それは春から秋に領内を回ると領民が仕事の手を止めねばならないため、冬しか鳰を見に行けなかったためだった。このためくすも冬の鳰が浮かんでくる。
鳰は三羽の大人と六羽の子どもだった。大人は長政とお市様と、そして母。
父長政にはくす以外に三男三女がいた。六羽のうち母を睨んでいるのは茶々だろう。三羽は自由に泳ぎ周り、二羽がこちらを見ている。
初と万福丸なのか?
二羽とも、くすが来る事を待っているように見えたが、茶々はこっちに気が付き母に対してよりも強い拒否をし、そんな茶々を万福丸が一瞬見据えて無視した。
初は、茶々の背中を嘴で一度突き、茶々はひと声だけ鳴いた後に首を左右に振ってからもう一度くすを見た。その目は慈愛に満ちていた。
「もう、逝かねばなりませんね」
ここに居る者たちより、長く生きた。でも私は三姉妹たちのように歴史の役に立たなかった、浅井長政の娘として生まれながら、平凡に余生を過ごしてしまった。それが三人に対して、同じ両親を持ちながら若くして無残な死を遂げた万福丸に対して、そして父やお市様に対しても顔向けできなかった。
「私は、茶々の申す通り、浅井の恥でした」
だから、そこには行けなくて長く長く現世に留まったのかもしれない。
「人は生前に決めた役割を終えなければ死ぬことができない。それは歴史的な活躍のものもあれば、戦で死ぬ数の一人でしかない者もいる」
私の役割は、家族の菩提を弔うことであったのだろうか? そして死後の茶々から念を少しでも抜くことができたのだろうか?
もう、考えるのはやめよう。
体が急に軽くなり飛んだ。習いもしないのに翼を羽ばたかせて九羽の中に加わった。
その周りにはもっとたくさんの仲間たちがいて、こっちに気が付き寄ってきた。豊臣秀吉、徳川家康…
そこには織田信長までが「儂を忘れるな」と言わんばかりに迫っているが、やはり鳰の姿だったことに名の通りくすっと笑っていた。

古楽
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