■旅立ち
朝、まだ薄暗く霧がかかるころに、与次郎は俵を持って岩窟にやってきた。予定どおりこの俵の中に入り、与次郎の屋敷へ入って、屋敷で一夜明かしたあと、また早朝に俵に入り、庄屋の大八車に乗せられたほかの荷の中にまぎれこんで、木之本へと向かうことになっている。
オトチの岩窟からの険しい山道、与次郎は三成の入った俵を背負って下りた。村の者はそれを見ても、何も言わなかった。庄屋からの根回しができているのかもしれないと、与次郎は思った。
役人に怪しまれることもなく、難なく屋敷へ戻ると、与次郎は奥座敷に俵を下ろして三成を俵から出し、すぐに布団を敷いて寝かせた。
「明日はまた大変になりますはかい、じゅうぶんお休みやす」
与次郎はトミに茶を持って来させた。トミは茶をうやうやしく三成にさし出し、深々と頭を下げ、奥座敷から下がった。
「おまえの娘にも世話になったの」
三成がそう言うと、与次郎は首を横に振り、
「なんも、だんないことです。気にせんといとくれやす」
周囲を気にしてささやき声でそう言って、与次郎はほほえんだ。役に立てていることに喜びを感じていた。
「お休みやす」と与次郎が下がると、三成は、ほうっとため息をついて布団にゆったりと横になった。あとのことをあれこれ心配しても始まらない。無事に逃げおおせ、再起を図る。そして、必ず古橋の者には恩を返さねば。はたして逃げおおせることがかなわなかったならばどうするか。かくまった与次郎と一家の者は無事に済むまい。自分は仕方がないが、あの者たちが罰せられぬようにせねば……。
あれこれと考えているうちに、三成は深い眠りに落ちた。
その襖の裏側で又左衛門は考え事をしていた。
三成公は今、この家にいる。捕らえたと申し出れば金も入るし、年貢を免がれるばかりか、義父や嫁をも守ることができる。訴え出ない法はない。しかし、義父も嫁も、あんなに三成公を大切にしている。しかも、どこへ向かうつもりなのかすら教えてもらえない。又左衛門だけは助けたいという与次郎の言い分は、頭ではわかっても気持ちでは納得できなかった。もし訴え出た場合、この家はどうなるのか。三成公がうまく逃げおおせたとしたら。訴え出ないまま見つかってしまったら。あれこれと、又左衛門は考えていた。
台所では、トミがせっせと働いている。
「トミ、茶をくれ」
又左衛門が言うと、トミは「はい」と素直に返事して茶を持ってきてくれた。渡された茶碗を手にして、じっと考えた。
訴え出なかったら……。
翌朝、与次郎の家はあわただしかった。まだ朝霧が晴れない早朝から、怪しまれぬようにと家族みなで仕事を始めていた。与次郎は三成をまた俵に入れた。
俵に入る前、三成は与次郎の家の者の顔を一人一人しっかりと見て、「世話をかけたの」と頭を下げた。その礼儀正しいふるまいは、たとえ体が弱っていても気高さを失っていなかった。与次郎もトミも、目に涙を浮かべて深く頭を下げた。それは三成の無事を願ってやまない気持ちの表れだった。
又左衛門も同じように頭を下げたが、戦の敗北者がこれ以上逃げおおせたとしてどうなるのかと、心のどこかにある疑問をぬぐいされないままであった。腹を下してやせ細り、ニラ粥を口にするのが精一杯の状態で何ができるのか。しかも、嫁のトミまでが、婿である自分よりも三成公を大切にし、食事などかいがいしく世話する姿を見て、心の中は疑問を通り過ぎて不満だった。
三成は俵に入り、与次郎に背負われて屋敷を出た。家の正面から出れば竜泉寺の庭に出て人目につきやすい。与次郎は、屋敷の裏手にある背よりも高い石垣を飛び降りた。俵をかついだままだったが、三成はやせ細り軽くなっていて、田畑や山仕事できたえた与次郎の足はしっかりと地面を踏みこらえた。そのまま周囲に気を配りながら庄屋の屋敷へと向かう。
その時、又左衛門はこっそりと与次郎の後ろをつけていた。又左衛門は畑へ種まきをしに行くことになっていたので、父と間をあけずに屋敷を出て行くのをトミはまったく不思議に思わなかった。又左衛門は、とにかく与次郎を追うしかなかった。どこへ向かうのか確かめねばならない。どちらの方角に向かうかさえわかれば見当はつく。
一晩のうちに、又左衛門は田中吉政に三成の行方を告げると腹を決めていた。自分は与次郎の家の者。与次郎がたとえ逃がそうと動いていたとしても、三成をだましてさし出すつもりだったのだと言えばみなが助かると、そう考えたのだ。
与次郎は、庄屋の屋敷に着くと、庄屋の計らいで約束どおり庭先に用意してあった多くの俵が積まれた大八車の上に、三成が入った俵をまぎれこませ、ゆっくりとそれを引き始めた。なだらかな下り坂を荷くずれしないように注意深く、朝霧の中を進んで行く。
村の者はもう田畑に出て働いており、大八車を引く与次郎を見ると、何も言わずにただ、小さく頭を下げた。そして素知らぬふりをして仕事に戻る。与次郎はありがたかった。古橋のみなが三成を守ろうとしてくれている。集落から出て高時川へ向かった。えんえんと田んぼが続く道。やっと川へさしかかった時だった。
「その者、待てい」
数人の役人が出てきて、与次郎を呼び止めた。与次郎は驚いたが、顔には出さぬよう落ち着いた様子で役人たちに頭を下げた。
「田中吉政公配下の者である。その荷は何か」
強い口調で問いただされ、与次郎は心の中では動揺していたが、平静をよそおって落ち着いた口調で答えた。
「これはイモです。木之本の市へ持っていきますんや」
「ふうむ」
役人たちは何やら考える素振りをし、一言二言言葉を交わしたあと、与次郎に言った。
「われらは人を捜している。荷をあらためさせてもらうぞ」
与次郎は一気に青ざめた。できることなら何とかやめさせたかった。しかし、気の利いた言葉も見つからず、どうかほかの荷でやり過ごせるようにと祈るしかなかった。
役人は、俵を槍で突き始めた。中のイモが突いた穴から見える。だが、役人は一、二俵だけでは納得せず、すべての荷をあらためるようだった。
「うっ」
役人たちがいくつ目かの俵を突いた時、声が漏れた。
与次郎は顔をこわばらせ、役人たちは目を見開いて顔を見合わせた。俵は大きく切り裂かれ、中から人が引きずり出された。役人はその者に問いかけた。
「石田治部少輔三成殿とお見受けいたす。我らは田中吉政公の配下の者。ご同行願いますぞ」
くずれるように、与次郎はその場でへたりこんだ。何ももう考えられなかった。数人の役人に脇を抱えられ、三成は連れて行かれようとしている。
「お待ちくだされ。お待ちくだされ」
与次郎は、震える足をなんとか立たせて役人を引きとめようとした。すると、役人は与次郎に耳を疑うような恨めしい言葉をかけた。
「与次郎太夫であるな。話は聞いておる。ご苦労であった。おまえの娘婿より知らせを受けた。治部殿を見つけ、われらに引き渡すためにおまえが治部殿を運び出したと。追って吉田様よりほうびがあるゆえ、もう帰ってよいぞ」
「なんやて」
信じられなかった。又左衛門が告げたのだという。家族一丸となって三成公を守りきろうと腹を決めたと思い込んでいた。なのに又左衛門は違ったというのか。与次郎は混乱する頭で必死に考えていた。
「ほんなアホな。ほんなアホなことがあるかいな。ほのお人は違うんや、違うんです。ほのお人は……」
「与次郎」
言葉をさえぎったのは三成だった。
「これでいいのだ。与次郎。ようしてくれた。感謝する。役人よ。確かに私は、村の者に迷惑がかからぬよう俵に入り、今、まさに田中のところへ出向くところだったのだ。与次郎とその家の者は、そのためにこうして策を講じてくれたのだ。ようしてやってくれ」
三成の表情は、凪のように穏やかだった。何にも動じぬ気高さすら感じる堂々とした姿だった。
「三成様」
三成は両腕を後ろにしばられ、馬に乗せられると、その場から連れ去られて行ってしまった。与次郎はその場にすわりこんだまま、止めることができない涙と全身の血が凍りついてしまったかのような寒気とでブルブルと震えていた。
「ああっ。もうちょっとやったんかぁ」
幸輝は頭をかかえて背を丸めた。
「ほうやな、もうちょっとやったな」
喜一郎は、はっはと軽く笑いながら孫の頭をガシガシとなでた。
「まあでも、けっきょく捕まってはったやろなあ。徳川の捜しようは容赦なかったらしいはかい。ほれくらい三成さんが怖かったんやろ。家康にしてみたら、豊臣家を滅ぼして天下を取るためには、淀殿と秀頼に仕えていた三成さんの頭の良さと、どうにもなびかん融通の利かんまじめ一本の忠義正直モンちゅうのが、ものすごう邪魔やったんちゃうかと、わしは思うわ」
「ほんなまじめな人やったん」
「人からけむたがられるくらいにな。けど、ほうやで秀吉さんがそばに置いたんやろ。信用できる家臣としては一番やったんちゃうか」
喜一郎は、ずいぶんとしゃべりすぎたかと思いながら頭をかいた。
「幸輝、わしの話だけやのうて、違う話もちゃんと調べとけよ。三珠院に行かんといきなり古橋で行き倒れてやあったという話もあるし、オトチの岩窟にほんまに入ってやあったんかも疑わしいとか、歩いて通り過ぎるところを捕まらあったとか、ほんまにいろんな話があるんや」
「わかってるて」
軽い調子で返されて、喜一郎はちょっと拍子抜けしながら、幸輝にお茶を持ってくるように頼んだ。
幸輝はひょいっと立ち上がって台所へ向かい、喜一郎の湯飲みにお茶を入れて帰ってきた。
たくさんしゃべって乾いたのどに、さめきっているお茶は心地よく通っていく。関ヶ原から走ってたどり着いた古橋で、三成はどんな気持ちでお茶を飲んだのか。それはどんな味がしたのか。考えずにはいられなかった。
「ほんで三成さんは殺されてもたん?」
突然幸輝に聞かれて、喜一郎はむせそうになった。
「いきなり殺すなアホ!」
喜一郎は幸輝をたしなめた。