一、名残
白い雪が一面を覆っている。
「静かだ」
深々と降り積り、全ての音を吸収したかのような静寂が身を包んだ。
駆け足で進む駕籠の中は、決して心地の良い空間ではない。だが、激しい揺れすらも気にならない。
瞳を閉じ頭の中に闇を描く。均衡の執れた複数の足音や軋む木の響きが、耳から入り身体を通り抜け、また闇が戻った。
「抑、茶の湯の交会は一期一会といいて、たとえば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事を思えば、実に我が一世一度の会なり」
何度も弟子たちに語り記した、茶に込めた人生観を一切の雑念無く暗唱する。
若い頃に幾度目指しても、成し得なかった無我の刻が、今ここにあった。
フッと我に返り、外に目を向ける。銀世界が強烈に無我の闇を光で灯した。
「上巳の節句であるというのに…」そんな呟きすらかき消されてしまう。静寂が時間までも支配してしまったような感覚に襲われた。
ダーン
突然、渇いた銃声が木霊し、立ち止った駕籠とは正反対に慌しく刻が動き始めた。
刀と刀のぶつかる音、人々の叫び声が一度に白銀を別の色で染める。
(ここから出なければ)と思った瞬間、腰に業火で焼かれたような熱さが走った。
「撃たれた?」「いつ?」「銃声!」短い言葉で自問自答を繰り返す。
覚悟はあった。出発前に届いた差出人不明の書状にも記されていた。全てを理解した上で、退く事のできない立場と責任が双肩に乗って、この場にいる。
だが、いざとなれば、やり残したモノが幾数もあるように思えた。
「長兄上も、このような無念を抱いて亡くなられたのか…」
確実に近付いて来る悪意とは逆に、周囲はまた音の無い世界に支配されようとしていた。
「義姉上も名残があったであろう」
すると、長らく忘れていた男女の声が耳に飛び込んできた。
「なんて嬉しいことでしょう。わたくしの事を『義姉』と呼んで下さるなんて、直清様のご兄弟の中では鉄之助様のみです」
「だって若竹は長兄上に嫁ぐのでしょ? じゃあ義姉上だよね」薄れていく意識の中で、幼かった時に口にした言葉が、その時のままこぼれ出した。
「鉄之助、お前はしっかり生きた。後は残された者に任せよう」
「長兄上は、予を許して迎えて下さるのですか?」
長兄と義姉は、短い人生を真剣に生き抜いた。だが自分にそれができたのだろうか? 周囲の都合で狭い控屋敷に追われ、藩主となり、大老となり、そして逝く…
「もう良いのです、鉄之助様は頑張られました」
「若竹! 相手は私の弟といえども幕府大老なのだ。鉄之助などと幼名で呼ぶのは無礼であろう」長兄の声が若竹と呼ばれた義姉を窘めた。
「それをおっしゃるなら直清様も、長兄とはいえ弟扱いはご無礼になります」と責めるような眼差しで見つめた。
その間に入り込むように「義姉上も許して下さるのですか?」と問う。
義姉は静かに微笑みながら「井伊家のご当主が、ただの腰元に許しを請うなど、わたくしも偉くなりました。ですが、恨む事など何もありませぬ。ご安心下さい直弼様」と口にした。