二、若竹

「わかたけ~」
たった四歳の自分にとって槻御殿に新しく雇われた腰元は、恰好の遊び相手だった。そしてもう一人、掛け替えの無い遊び相手が存在した。
若竹の足にしがみ付き「わかたけ、いまからあにうえをおしえてあげる」と当たり前のように誘った。
「兄上様ですか?」
 この頃、彦根藩主の三兄直亮は、江戸に出府し国許不在だったのだが、新参者の若竹に他兄弟の存在など思いも及ばなかったのかもしれない。藩主に会わされると勘違いし一瞬硬直した。
 そんな若竹の手を引いて、槻御殿を飛び出し中堀の外に並ぶ控屋敷の一棟に向かう道中を、若竹は訝しい思いで従った事だろう。
「鉄之助様ここは?」
「おにうえのおやしき」
「お殿様は表御殿にいらっしゃるのではありませんか? このような辺鄙な所にいらっしゃる筈がありませぬ」
 幼い主にそのように話す若竹の姿を、長兄はジッと見つめて笑っていたそうだ。
「あにうえは、いつもここにいるよ」そんな幼い主の返事に、藩主への対面という不安から解放される筈が、予の言葉が理解できずに困った若竹の顔があった。
「辺鄙なお屋敷で申し訳ない」
 控屋敷の門が開かれて優しく微笑む長兄が青白い顔を出した。
「でもここは大切な私の屋敷なのだ」
長兄は、予と若竹を門の内側へと招き入れ、予は当然のように奥へと入った。
「あなた様は?」
 予の後をすぐに追いたい衝動に駆られていたであろう若竹に、そんな質問をする余裕があった事すら、今は意外に感じる。
「ここの主で、鉄之助の一番上の兄になる井伊直清という者だ」
「あにうえ、あたらしくきた、わかたけともうすものです」と誇らしげに胸を張って同行者を長兄に紹介した。
 井伊家中は、譜代大名筆頭という家風を守り続けてきただけに、家臣らが必要とされる以上の情報を知る機会は極端に少ない。城務めをしている人物でも、藩主兄弟の全てを把握している者は数える程しか居ない。ましてや長兄の件は、この頃の井伊家の最重要秘事の一つだった。
 長兄直清は、予の父で十一代藩主の井伊直中の嫡男として生まれ、世子として育てられるようになった。しかし母が側室であった為に、正室腹の三男が誕生し健康を害せずに育つと、当然のように廃嫡となり十四歳の若さで隠居の身となった。
世子時代には、松平定信公の娘御との縁談が決まっていた。しかし、この縁は結ばれなかった。
祖父直幸公が生前大老職を務めた折、田沼意次殿と協力して幕政に参画されていた。この時に田沼殿を失脚に追い込み祖父を辞任させた張本人が定信公であった。ゆえに藩士重臣の間から長兄と松平家との縁談を反対する声が多く、長兄廃嫡を理由に、穏便に破談させたとの噂も出たという。
 こうして長兄は、世子からただの世捨て人となっていた。
以後、三百俵の捨扶持を与えられて、他は何も求めず、何も学ばず、病弱な身を受け入れ、そして女性も近付けなかった。
殆どの兄たちが他家に養子に出て行ったか、まだ幼かった。藩主として近付き難い三兄直亮以外で、予の有り余る時間の相手をしてくれる長兄は、恰好の遊び相手となった。
いつも座敷の奥に坐し庭を眺め、予が話しかけても微笑を返すだけ。来客も城から様子伺いの家臣がひと月に一度訪れるかどうか程度しか記憶には無い。外界から隔離されたような空間と肉親の安心感、そして幼心では何とも言い表せない胸の奥から熱い鼓動となって溢れ出るように感じる離れ難い想いが不幸な兄の屋敷へと予の足を運ばせていた。
お付きの腰元として、父から若竹を引き合わされた時、同じ高揚感を受け長兄の元へと連れて来たのだ。
 この日から長兄の屋敷への同行者が決定した。
若竹にとっての長兄は藩主一門であり、当初は恐れを抱いて接していた。
 長兄は小さな笑みを絶やさない人物だったが、青白い顔に何かを悟りきったような瞳の奥の暗い輝きが、対面する者との間に厚い壁を作っていた。
「鉄之助様は、何故長兄上様のお屋敷に通われるのですか」と若竹に問われた時、その言葉の方が疑問だった。
「あにうえが、だいすきだから」と答えると、それ以上の言葉は続かなかった。
 予が赴いても、長兄が何かをしてくれる訳ではなく、話し掛け表情を見るだけで、自身に都合の良い解釈を答えと思い込んでいた。
 ただ座って末弟を見つめるだけの長兄を、若竹はますます分からなくなっていた。
 控屋敷から槻御殿に戻ると、考え込むような覇気のない声で「兄上様は」と長兄の事ばかりを訊いてきた。
 やがて若竹の長兄に対する呼び方が「若隠居様」へと変わった。薄幸の貴公子の境遇に対する一番相応しい言葉だった。
 何気なく過ぎる生活の中では、絶対に逢うことがなかった二人が出会う。仏の悪戯とも言える差配だったが、そこに幼い予という存在が大きく関わっていた。
 末弟に対し優しい兄だった男と、主君の弟を敬う女。二人は幼子を媒体として接している。ならば相手を観る目も幼子を通したモノとなる。
 長兄も若竹にも、全幅の信頼を寄せ共に大好きだった予の心を、お互いが反映したならば、二人が相手を想うのも当然だった。毎日のように顔を合わせていた男女は、座敷の奥と庭の隅まで離れていたモノが、並んで縁側に腰掛けるようになり、二人の間に予が何人も入れる隙間があったが、段々と狭くなり、真ん中に予が入れなくなり、遂には長兄の右肩に若竹の温もりが残るようになった。

 武士が、それも藩主の弟が外泊など許されるものではない。しかし、予が幼く、行き先も長兄の屋敷だったので誰にも咎められず、若竹も「鉄之助様のお守役」として腰元たちに認識されるようになり、共に槻御殿の門限を破って朝帰りを行う常習犯となっていた。
 この日も、当たり前のように夜明かしが確定していた。
夜は不思議な時間だと常々感じている。暗いといえども真っ暗ではなく、望月の月明かりが灯る時は外でも怖さがなかった。その反面、新月の夜は小さな物音すら命を脅かす思いに襲われた。
 深い秋の朔日、空には姿の見えない新月が浮かんでいた。
長兄の屋敷に泊まる時は、身分という垣根を越え若竹が同じ部屋で隣に眠る。すると、こんな晩でも恐ろしさを感じすにすんでいた。
 いつもの様に若竹を見つめながら深い眠りに入った。そんな予がなぜ眠りから覚めたのかは分らない。しかし真っ暗な静寂の中に、居るべき者が隣に寝ていない現実に怯えた。
 月明かりが吸い込まれた闇、聞こえる筈の虫の音も無い、自らの呼吸が徐々に荒くなりながら部屋の中に響いている。
少し前に、父が話してくれた在原中将の物語が頭を過ぎった。
 美しい貴族の姫を屋敷から連れ出した在原中将は、闇の中に隠れながら追っ手が過ぎるのを待つ。すると、いつの間にか姫が消えていた。と。
「おひめさまは、どうなったの?」こう訊ねると、「そうだな、鬼に喰われたのかも知れん。鉄之助、闇夜の鬼には注意するのだ」と冗談のように父が笑っていた。
「わかたけ! わかたけ!」
(隣に寝ていた若竹が鬼に喰われた)と思い込んだ幼い予の狼狽振りは、常に命を狙われる今の日々に比べても負けない恐ろしさがあった。
 狭い屋敷もこの時ばかりは広く感じた。
「鉄之助様いかがなされたのです」
 襦袢一枚で慌てて飛び出した若竹を見つけ、その膝にしがみ付いた。
「このように顔をくしゃくしゃにされては、武士の子とは言えませぬ」
 膝を落とし、自らの袖越しに予の両目頭に右手の親指を当てて、そっと涙を拭った若竹。やっと見つけた人を二度と離すまいと誓うように、腰に抱き付いたままで居る。すると、若竹の後ろに夜具を着た長兄が見えた。
膝の主は、長兄に振り返ると軽く一度うなずき、長兄もそれを返した。
「鉄之助は、余程若竹が好きなのだな」
「今宵は、若隠居様の負けでございます」
「仕方ない、今宵は小さな恋敵にこの人を譲るとするか…」
 長兄の残念そうな、それでいて楽しそうな声が、鼓膜を軽く揺らした。しかしその言葉の意味を理解する程には、予の意識はハッキリしていなかった。
赤い襦袢の膝に頭を預け、深い眠りに襲われる。若竹に包まれながらも長兄の匂いも一緒に混ざり、言い知れぬ嫉妬感と安心感が混沌として混ざり合っていた。
 この後も、長兄の屋敷で夜を明かす時に若竹は隣から居なくなっていた。だが、若竹を探す事は無かった。探さなくとも朝になれば必ず戻ってきて予の寝顔を見つめていたからだ。
 そのような日々が続く中で、長兄と若竹の別れの時が迫っているとは誰が予測できていただろう。

「若隠居様、わたくしは暫しの間宿下がりをいたします」
 突然の若竹の言葉に長兄が目を張った。
「何かあったのか?」長兄が訪ねると、若竹はゆっくり首を横に動かした。
「たいした事ではございません。母が病に倒れ、父だけでは看病もままならないので、わたくしに報せが参ったのです。父がこのように困るという程ですので、すぐに戻れないかもしれませぬが、必ず若隠居様の元へ帰って参ります」
 ここまで聞かされては、長兄に若竹を止める言葉は思い付かず、しばらく会えない二人が時間を惜しむかのように一夜の名残に浸っていた。予が遅くまで眠らずに居る事は、長兄の意に反するとどこかで悟り、早々と若竹に床まで案内させた。
 翌日、槻御殿に帰る末弟と愛しい女性を見送る長兄に対して、若竹は「それでは」と深く頭を下げた。
「若竹」
 長兄が少し間を空けてから言葉を続ける。
「戻って来るまでに私のことを若隠居と呼ぶのは改めてくれ、直清と呼べばよい」
「ですが、お名前ではあまりにも非礼です」
 若竹が困ったように目を落とすと、長兄は若竹の両肩に自分の手を乗せて一語一語を大切な宝玉であるかのようにゆっくりと口を開く。
「そなたが戻って参ったら、父と殿に妻を迎えたいと願うつもりだ。承知してくれるな?」
 幼児にはこの意味が解らない。と思われるかもしれないが、予は祝福と嫉妬の相反する気持ちの狭間に揺れていた。もし嫉妬がこのまま消えていたなら二人の運命は違った形を結んでいた。
「はい」と小さく頷いて若竹は長兄の手から離れて行った。これが今生の別れになるとも知らずに…

 槻御殿に戻った若竹は、宿下がりの願いを藩庁に提出した。しかし小さな手違いからなかなか受理されずに年が改まり三ケ月近くが過ぎていった。
 すぐに受理されるものと考えて、長兄に暇を乞うた若竹が控屋敷に出向く訳にもいかずにいたので、予もしばらく長兄と会っていなかった。
そしてこの頃になると、若竹のお腹が誰にでもはっきりとわかる位に出っ張ってきたのだった。

運命の日、若竹にゆっくりと口述させながら書院に収められていた書を楽しんでいると、複数の足音が激しく廊下を叩き予の元へやって来た。激しく襖を開ける音が響いたかと思うと厳しい顔の腰元が数名立っていた。
「若竹、詮議がある故同行されよ」
 先程まで本の文字を追っていた若竹が慌てる様子もなく本を閉じ、主君である予に深々と頭を下げると、覚悟を決めたように襖の間に立っている腰元を見据えて立ち上がった。
そんな若竹の前に回って、庇う様に両腕を広げて腰元たちを睨む。
「鉄之助様、若竹は父上様に呼ばれているのです」腰元は無理に作った笑みで言った。
「わかたけ?」
 振り返ると、若竹はコクリと首を縦に一度頷き、前に歩み出て腰元たちに従った。
この後、予にはお松という初老に近い齢の腰元が従うようになった。お松を伴うようになってからも以前と同じように長兄の控屋敷に通う習慣が復活したが、若竹の時のように自由に泊まる許可は出なかった。
お松は、若竹が予の物を片付けていた葛籠を納戸の奥へ封印し、全て新しい物へと変えだ。これには父上の意思があったと聞く。

「鉄之助、若竹はいつ戻ってくるのかな…」
 予が訪ねると、長兄はよく呟いた。
「あにうえ、わかたけにあいたいの?」
 胸の奥に小さな苦しみを感じながら、長兄にそのように訊いた。
「若竹は私の妻になる人なのだ。鉄之助にとっては義姉になる」
「あね?」
「そうだ義姉上だ」
「あねうえ」
 長兄は「あね」という言葉を聞いて、目を細めながら末弟を見つめて軽く頭を撫でた。そんな時でも若竹が腰元たちに連れて行かれた事を長兄に伝えられなかった。

 四十年が過ぎても拭いきれない後悔。予が一言「若竹が父上に呼ばれてから帰ってこない」と発すれば、再びあの夜の赤い膝の温もりも、長兄の期待に満ちた笑みも失わずに済んだ筈だ。

古楽
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古楽

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