五、膝
その時間は長く感じられたが、実際にはほんの一瞬の事だった。
近くで河西忠左衛門が気合を入れながら大小の刀を操って暴徒と戦っている。鋼同士がぶつかる音が激しさを物語った。腰の痛みに耐えながら耳から飛び込む金属の音で襲撃者も彦根藩士も殆どが適当に刀を振り回しているだけだと失望する。
(武士の世も終わるのであろう、その時を観ないで済むのは果報であるのかもしれぬ)
本来の彦根藩士らしい濁りの無い剣技で駕籠を背に守っていた河西の声も、やがて消えた。
数人の足音が駕籠の周りを囲った。すぐに背中に灼熱が走り、胸から刀の先が突き出された。
仲間の蛮勇を見た狼藉者が「我も」と、あっちこっちから狂気の刃を突き出し、一身に受けた。が、既に痛みはない…
荒々しく引き戸が開けられ、薩摩訛りの浪人によって駕籠から引き摺り出された。もう無礼を窘める力もない。否、真っ白な世界以外は目に入らなかった。
「覚悟!」
大声が周囲に響く。
首の後ろに新たな衝撃を感じ、目の前の白銀が朱に染まる。その朱があの夜の若竹の襦袢に変わった。
「鉄之助様」若竹の優しい声が心に届き何の不安もなくなり、そのまま襦袢を着た若竹の膝に顔を埋めていった。
「あの日から、ずっとこの膝を探していました。長姉上…わ…か…た…け…」
もうどんな闇も恐怖も無い。ただ若竹の膝が有る、それだけで満足だった。
(再びこの瞬間が訪れると願っていた。かの女との事も、兄のお手付きだった年上の女として若竹を重ねていただけであった)
「そのように思われては、加寿江さんが可哀相です。あの方は鉄之助様を心の底から慕われ、お役に立つ事を喜びとされているのです」
若竹に柔らかく注意されながら、加寿江を思い浮かべようとする。今この場で倒れる予の為に、長野義言と共に働いているのだろう。それが災いとならねば良いが、そうはなるまい。
後悔も反省も希望も、今の瞬間を尊んで生きる理を茶の湯に重ね説いたのではなかったか?
ならば、加寿江に対する心の闇を置いたままで、義姉に身を委ねても良いのであろうか。
「大丈夫です、多賀大社の庇護を受けた方なのですから。
鉄之助様への想いが、加寿江さんに大きな試練を与えるかも知れません。ですが乗り越える力をもお持ちです」
こんな言葉も、予が勝手に望んだ気休めなのか。しかし若竹の声は、どんな子守唄よりも安心できた。
「大老の首、有馬次左衛門が頂きもした!」
若竹の膝の上で、暖かい腕の中に包まれれば、もう関係の無い言葉だった。