四、加寿江
佐和山城旧跡の近くに里根山がある。平安より以前、彦根・長曽根・里根は“三ツ根”と呼ばれる湖東地域でも特に発展した所と伝わっている。戦国以前から里根山には城が築城され、戦国期には佐和山山系に連なる山として佐和山城の防御に役立っていたと考えられている。
予が誕生するずっと前、いや井伊家がこの地を治めるようになってすぐに、佐和山とそれに連なる城々は廃城となり里根山もただの山へと戻った。
里根山の中腹から彦根城を見ると、城全体がはっきりと展望し、奥に見える琵琶湖と重なって彦根城下でも屈指の絶景を示していた。
若竹供養の寺は、井伊家菩提寺である清凉寺の寂室堅光禅師が指導を行って、この地に建立された。
仏堂には南向きに十六体羅漢像が安置されている。これは新寺建立を聞いた十六大名から贈られた物だった。そして十六体羅漢像を守るかのように、無数の羅漢像が南・東・西の三方に並べられた。これらの羅漢像は全て京の仏師駒井朝運が刻んでいて、同じ顔の像は一体として存在しなかった。
完成した新寺は“天寧寺”と命名された。
天寧寺に初めて参拝する前に、父は長兄の書付を焼いた。
しかし父の顔が晴れず、この後何度も仏堂に籠っている。
「欽次郎はどこだ、若竹も孫もどこに居る?」
誰かに訊ねているのか、それとも独り言なのか、父は仏堂に入る度にそう呟いていた。右を見ても左を見てもため息を漏らす父にとって、この場所が悔恨を深めただけになった。
このような姿が民にも知られるようになり、天寧寺はいつ頃からか「亡き親・子供に会いたくば、五百羅漢の堂に籠れ」と伝承されるようになる。子を亡くした母親や親を亡くした子どもらが、急な山道を踏みしめながらも参拝するようになった。
父も数日を空けずに参拝した為に、一時期は藩士たちによって他の参拝客を遠ざけようとしたのだが、父自身がそれを叱責し「愛しい者を亡くした思いは、この恥知らず者も民も何も変わるものではない。むしろ、己の手で息子の室や孫を殺さなかっただけ民らの方が慈悲深いくらいではないか。ワシが参る時は供を数名とし、民の参拝の邪魔をしてはならぬ」と命じた。
時には父から民に声を掛けて、その者が亡くした身内の話を聞きながら共に涙を流した。父の天寧寺参りは、長兄や孫の下へ旅立つ直前まで三年間続く。
井伊直中の死は、予が若竹との思い出がある槻御殿から長兄が過ごしたような控屋敷に移される事も意味していた。
(これからは、父上や長兄上の代わりを勤めなくてはならない)
弟の詮之介と共に過ごす事となった控屋敷・尾末町御屋敷の正門を出ると、目の前に中堀が横たわり奥には佐和口多聞続櫓が壁となって城との関わりを隔てている。逆に城下に出るには気楽だった。
一人で天寧寺に参り、羅漢堂に籠ると記憶を頼りに長兄の顔を探す、観る度に違う像の前で立ち止まり語りかける。今日の羅漢は戦国の蒙将も叶わないくらいに力強かった。
「常に求め、学び、そして諦めずに貪欲に生きろ。権力も欲し自らの道を進むのだ」
末期の言葉が蘇える。長兄は、世子として期待され、人生の途中で全てを失い、最後に望んだ者も失った。しかし、予は最初から何も無い。ここからは得るばかりである。長兄の求めない生涯を否とするなら、貪欲に望み、満たしてゆくこととなる。
外に出て仏堂裏から天守を望むと、尾末の控屋敷では受けない親しみを覚える。その向こうには、波を反射させながら陽の光を浴びる琵琶湖の湖面が、肥沃な近江平野を象徴する稲穂のように金色に輝いて城山全体を包んでいた。
「あの城を我が物と成す」右腕を真っ直ぐ伸ばして輝々ごと天守を掴むと、そのまま手の中に収まった。三百俵の捨扶持で養われているだけの藩主の弟に、興味を持つ者がここに居る筈はないが、人の目に触れないように己の野望を父の贖罪の寺で行い続けた。
「そこで何をして居られます」と女の声が背中から掛かったのは、私が二八の時だった。
弟が延岡藩に養子に行き、一人残された控屋敷を“埋木舎”と命名して、己の絶望感を世に見せてきた。密かに人を寄せては教えを請うが、金子が掛かりすぎて犬塚外記を通して三兄直亮から叱責された。自由な出費が削られ、多くの学びを得られない不満が溜まった頃に、伊勢より招いた長野義言に感銘を受け三日三夜の教えを請うた。
生涯の師を得た興奮から、義言を送り出した朝に馬を責めてこの場所にやって来た。普段ならば人の気配を確認して誰にも見せないで顕わにする野望を、居ても立っても居られぬ想いが軽率な行動へと移った。
「あなた様は…」
予を知っている口ぶりに、声の主を見ると、三兄の寵愛を受けていたと噂されながら三兄江戸出府中に奥から消えた者だった。
「そなたは?」
「多賀大社般若院に住む加寿江と申します」
目の前の女性と、この場の寺が建った原因となった者に同じ空気は感じられない。寧ろ全く反対の人物だった。それでも予の想いを揺さぶる何かがある。
「ご自分のお屋敷を“埋木舎”と名付けられる弟君でございましょうか」
馬鹿にされたような言い回しだったが、間違いではない為に「如何にも」と応じた。
「ここでお待ち申し上げれば、いずれはご面会が叶うとの噂を聞いており待たせていただきました。
あなた様の文武に対するご高名を伺い、教えを請いたいのです」
思ってもいない話の流れになっていた。人違いであろうと質したが引かない加寿江に負け、一日の終わりに訪ねて来たならば、学問や茶の湯・鼓を教える代わりに三味線を学ぶと決まった。
その日の夕刻に加寿江は屋敷の潜戸を叩いた。最初は三味線の作法を受けると夜となり、近習に命じて夜具を整えさせた。
月の明るい夜になり、同じ屋根の下に美しい客人があろうとも胸が騒がず眠りに着いた。
この後も、天寧寺に参拝に行く日は、それが合図であるように夕刻になると訪問を受けて客人として泊め、屋敷の中の者たちは歓迎まではしていないものの、この珍客に慣れていった。
様子が変わったのは朔日の夜。急に不安に押し潰されそうになり寝所を出て庭に回ると、俄か客間として加寿江を泊らせている部屋に明かりが灯っていた。
庭での物音に気が付いたのか、障子を開けた加寿江の赤い襦袢が目に飛び込み、予が居ると認めた女が赤い袖から出た白い右手を小さく一度だけ手招きしてみせた。
誘われるままに明かりの灯った部屋に上がると年上の女は敷かれた蒲団の横で軽く膝を崩した格好で正座していた。
「そのまま」
両手を床に付いて頭を下げようとするのを静止し、加寿江と対面するように腰を降ろすと断りもせず膝に顔を埋めて、大きく息を吸い込んだ。鼻から通る匂いは心地良いものではなかったが、闇の不安は消え眠りに落ちて行った。
これがきっかけとなり幾日も奇妙な一夜が過ぎてゆく。予の頭を乗せたままの加寿江が足を崩す事は一度もなかった。
この関係を終わらせたのが、予の代参で多賀大社に出向き、般若寺に宿を求めて加寿江を知った義言であり、予の元を離れた女が、予の為に命を顧みずに働く関係が出来上がった。