太陽、貸します
空から水が降ってくるなんて信じられるだろうか?
例えば飛行機が嫌いな人がいる、そんな人の中には「あんな鉄の塊が空を飛ぶなんてどんな理屈で考えてもおかしい、安心して乗っていられる方が不思議だ」と主張する人もいる。
こんな人にはどんなに科学的にその視無味を実証しても、恐怖は消えないだろうし、その科学的実証すら半信半疑に違いない。
でも、飛行機は飛んでいる姿を目にする事もあるし、自分で乗りたければ乗る事もできる。だから、僕の「水が空から降ってくる事が信じられない」とは少し意味が違うのだ。
余談になるかもしれないが、普通はこの現象を“雨”と呼ぶ。
小学生の時、この疑問をぶつけた教師は「雲が雨を作って降ってくる」と話した。
中学の教師は「雲は水が気化した物で、そこに核となる物が混ざり、核に水の原子が集まって落ちてきたのが雨だ」と図に書いて説明した。
幼馴染の友達は「シャワーが空から振ってくる感じかな?」と教えてくれた。
確かに理屈は解った。しかし、僕はそれでも雨について信じられなかった。
僕は生まれてから雨を経験した事がなかったからだ。
「今年も助かりました。来年もこの時期にお願いします」
目の前にいる中年後半の男は、そう言うと僕に封筒を渡してそのまま去って行った。
封筒の中身は今回の報酬だろう。
イベントが二日と前日の準備一日の計三日、収入は十五万円になる。
この三日間、僕がやったのはイベント会場を離れない事。
そこでは座っていても寝ていても本を読んでいてもゲームをしても…とにかく何をしていても誰かに咎められる事はないし、誰も僕など気にせず働いていた。
「ただ居るだけで、一日五万円なんて美味しい仕事だよなぁ」
中年後半の男が去っていくのを待っていたかのように、聞き覚えのある声がした。
「弘前じゃないか、元気にしてたか?」
「天野、お前知ってて言ってるだろう、このイベントが終わった段階で体力なんて残ってる訳ないじゃないか」
弘前は、ワザと右手で左肩を抑えて左腕を回し始めた。
「そうだったな、しかし、この会社も凄いな。いくら創立記念日だからって、毎年よくやるよ」
「だから、お前も儲かるんだろ?」
「確かにな」
声をかけてきた男、弘前輝之は小学校から高校まで同じ学校に行った親友で、僕のありがた迷惑な能力を活用する機会を与えてくれた恩人でもあった。
輝之が大阪の大学に合格して一人暮らしを始め、そのまま就職してしまったので七年ほど交流が無かったが、輝之の結婚式に呼ばれた事が切っ掛けでまた友人として付き合うようになった。
「せっかく近くに居たんだから、一回ぐらい家に遊びに来いよ。睦実も待っていたんだぞ」
「でも、奥さんもうすぐだろ?迷惑かと思ってさ」
「あぁ来月は臨月だから、もう動くのも辛い筈だけどなぁ、本人はケロッとしてるぞ」
「睦実ちゃんらしいな、のんびり屋だから」
「おいおい、人の嫁さん捕まえてのんびり屋は無いだろう、しかも、最初は奥さんなんて言ってたくせに、もう睦実ちゃん扱いか?」
「本当はボーとしたって言いたかったくらいだから、丁寧に言ったと思うんだけどな。それに小学校のクラスメートなんだから、つい昔の呼び方が出ただけだぞ。」
輝之と睦実は小学校の時はただのクラスメートというだけで、お互い出会ったな事すら覚えていなかったらしい。二人は大阪に住みながら、出会ったのは東京だった。
輝之は出張で、睦実は一人旅でそれぞれ上京していて、睦実が輝之に声を掛けて付き合いが始まったと聴いている。
睦実が何で輝之に声を掛けたのか以前に訊ねたら、「気が付いたらそうなっていた」と、分かるような分からないような返事を貰った。
二人の出会いからトントン拍子に話が進み、いざ結婚となった時に睦実が「青空の下で結婚式を挙げたい」と言った事から、輝之が僕の事を思い出して式に招かれた。
この時、二人が小学校のクラスメートだった事を指摘したら、輝之が大声を出して驚いたのが印象的だった。
後で輝之が言うには、
「運命の出会いなんて大それた事を言うつもりは無いけど、睦実と俺って結構幸せだぞ。お前も運命を探して良い人見つけろよ。」
だそうだ。
輝之と睦実の結婚式は睦実が望む青空の下で行なわれた。
そのために僕が呼ばれたのだから当然なのだが、晴れた事に睦実が大喜びで、僕に何度も頭を下げていた。
僕のありがた迷惑な能力、それは晴男。しかも、ただ晴れ易いというだけではなく、生まれてから一度も雨を経験した事が無い筋金入りの晴男なのだ。
今から千年以上昔の頃らしい。
僕のご先祖様は、どこの国かも伝わっていないが、桑原という土地で小さな田畑を耕す農民だった。
ある時、雷が鳴り止まない夜があり、あっちこっちに稲妻が落ちたが、家のすぐ近くで大きな音がした後に、雷の音がピッタリと止んだ。
夜が明けて、雷の被害を調べてみると井戸の中から助けを呼ぶ声がしたのでご先祖様が近付いて中を覗くと、情け無さそうな顔をした雷様が声をあげていた。
「お~い、助けてくれ。昨日調子に乗って雷を落としていたら、雲に足を滑らせてワシまで落ちてしまった。助けてくれたら礼をするから、助けてくれ。」
ご先祖様は、可哀相に思って雷様を井戸から出してあげた。
すると雷様は、
「助かった、礼は何がよいのだ?」
と訊ねたが、ご先祖様は辞退した。
「何と欲のない者よ、でもそれではワシの気持ちが収まらん、よし、それならばこの桑原には、この先は雷を落とさない事を約束しよう。」
こうして、「くわばら」と言うと厄除けになる、という逸話が生まれた。
「では、そなたへの礼だが…」
慌てて断るご先祖様を無視して雷様は暫らく考えた、そしてこう言った。
「この先、そなたの直系の子孫で最初に生まれた子には、雨を操る能力を与えよう。名が一文字なら雨男や雨女とし、二文字以上なら一生雨を知らずに終える事が出来るだろう。」
この約束は、雷を助けたご先祖様の子供から効果を発揮した。
その子は一文字の名前が付いた為に度々雨が降ったと伝わっていて、農業を営む者として一度も水に困る事はなかったらしい。
戦国時代、その時のご先祖様は尾張に住んでいたが、殿様の出陣に従って合戦に参加した。その時、急に雨が降り出してお殿様は奇蹟の大勝利で敵の大将の首を取った。
この時のご先祖様の名前も一文字だったらしい。
明治維新後に平民にも名字が許された時、最初に候補となった名字は「雨」だったが、余りにも直接的過ぎたので「天野」と名乗って僕の代まで続いている。
父は、守という一文字の名前だったので、雨の多い人生を過ごしてきた。しかし現代ではイベントの度に雨が降る人が避けられている傾向があり、それに苦労した父は僕に直人と命名した。
「どんな運命も、最後は人が直していくんだ」と父は口癖のように僕に話したが、それは名前と運命に翻弄された結果なのかもしれない。
でも、僕も名前と運命に翻弄された人生を送ることになった。
何もない時は多少晴れが多くても誰も文句は言わないが、雨が必要な時に降らないと言うのは困るらしい。
両親は周囲に気を使いながら生活していた。毎年、夏の前には母が僕を連れて一時的に北海道に移住したし、休日になると毎回違う場所に出掛けた。
また、災害が起こると、母に連れられて被災地に向かう事が多かった。
「直人が居ると雨が降らないから、ここの人達が助かるんだよ。」
母は、いつもそんな事を言いながら僕を連れて行った。
現地での僕は、何をする目的がある訳でもないので、贋地で同じ位の年齢の子どもと話をしたり遊んだりしていたが、僕自身の学校もあるので三日くらいしかそこに居る事はできなかった。
それでも、帰る時には、大人達が母や僕に頭を下げていたのを覚えている。
しかし、母は僕が中学一年生の時に病に倒れる。
僕は、母の看病をしていたが、快復する様子は全くなかった。
母が動けないから、僕も自然と地元から動かない毎日を送っていた。するとその間も晴天が続いたのだった。
やがて、季節は梅雨になったが、僕は北海道に行かずに地元に居た。
『観測史上、稀に見る空梅雨』という言葉が何度も地元紙を飾る。
父は仕事だったため、いつも母が気を使っていた季節だった。この時期だけ北海道に移住していたのも、北海道には梅雨らしい梅雨がないためだと知ったのはこの時だった。
役所も、空梅雨の原因がわかったらしく、梅雨がもう直ぐ終ろうとしている頃に父を尋ねてきた。
「天野さん、困るんです。」
僕が蔭で聞いている事を知ってか知らずか、役所の人は、そんな第一声を洩らした。
「直人君に罪がないのは分かっていますが、それでも毎年ちゃんとやってくださったじゃないですか。今、雨が降らなければ、水不足になるのは天野さんにも理解していただける筈ですね、農家にも甚大な被害が出ようとしています。」
父は、「わかりました」と、頭を下げながら漏らした。
翌朝、僕は殆んど何の準備も出来ないまま北海道へと旅立ち、街は雨の恩恵を受けたのだった。そして、梅雨の終わりと共に帰宅した僕に母の死が知らされた。
それから僕は、母の生きていた時と同じ様に生活していたが、高校に入学すると梅雨だからと言って長期の休みを取る訳にもいかず、動ける範囲であちらこちらをウロウロし、数日に一度は登校した。
高校卒業後に就職をするが、一定の所に落ち着けないために、どの会社でも煙たがられて、結局は短期のアルバイトを転々としながら生活していくしか方法がなくなってしまった。
社会人になって辛い生活を送って浮いた僕に仕事を考えてくれたのが結婚式に呼んでくれた弘前だった。
「天野、今は何をしてるんだ?」
弘前はそう訊ねはしたが、僕の事情をよく分かっている様子だった。
「天野の才能って言うのかどうかは分からないけど、お前が居る所は絶対晴れるって実証されてるんだから、それを生かさない手はないんじゃないか?」
「…と言うと?」
「例えば、ウチの社では、梅雨の最中に当る七月一日に社の創立記念日式典を二日掛かりで行なってるんだけど、時期が時期だけに雨に祟られる事も多くて、場合によってはこられたお客さんに嫌な思いをさせたり、雨で何日も延期になって無駄な経費が必要になってくる。
そこで必ず晴れる事が約束されたなら、延期分の経費も節約できて、お客さんにも気持ち良く帰ってもらえる事になるよな?そうすれば、社の売上もアップする。
ただ、その日が晴れますって確定するだけで利益に繋がるなら、企業としては多少金を出しても良い条件だと思わないか?」
「確かにそうだけど、それがどうやって僕に繋がるんだ。」
「鈍いな、お前が居ると必ず晴れるって売り込むんだよ。お前だけのベンチャービジネスじゃないか。」
僕は、弘前の言葉にハッとなった。昔、母が被災地に何故僕を連れて行ったのか、そして何故大人達が僕に頭を下げて居たのかがやっと理解できた。
「取り合えず、試しに、さっき言っていたウチの社で行なわれる創立記念式典で採用してもらえるように俺から働きかけるから、その間にじっくり考えてみろよ。」
そう言った弘前は、翌日には会社が承諾したという連絡を寄越してきた。後で聞いた話だと「天野を使っても雨が降ったら自分が全ての費用を負担する。」と上司に啖呵を切ったらしい、本当にそうなったら何百万では足りないのに、友の信頼は嬉しかった。
この時の式典は、梅雨とは思えないくらいの晴天に恵まれ、大成功の内に幕を閉じた。
この成功を切っ掛けに『太陽派遣業』という新しい仕事を始めた僕は、弘前の協力でホームページを立ち上げたり、馴染みの友達に人為的に噂を流してもらう事でテレビやラジオに取り上げられたりして宣伝を行った。
最初は半信半疑や面白半分に声を掛けてくる依頼人が多く、場合によっては台風が直撃する日を選んでイベントを企画してやってくる人まで居た、しかし、どんな場合でも僕が雨に降られる事がなく、信頼も高くなり小さな町内会から国のイベントにまで関わるようになったのだった。
以前は、周囲に迷惑を掛けない為に短期アルバイトで各地を転々としていた僕は、この仕事を始めて半年もしない内に、周囲から必要とされて各地を転々とするようになった。
あれから四年の月日が流れた。
今年も弘前の会社では僕にイベント参加の依頼があり、全て無事に終了した。
「天野、おい天野!」
意識の遠くで僕を呼ぶ」声が聞こえた。
「おい!どうしたんだ。」
はっと我に返って、その声の主が弘前であることに気が付いた。
「あぁ、ごめん。」
「やっと返事してくれたか。お前どうしたんだ、ずっと返事もしなかったぞ。」
「悪い、ちょっと昔の事を思い出してた。」
「は?お前、時々訳分からない行動するけど、今回はそれがより酷いのか。」
「そう言うなよ。」
僕は少し上目使いに弘前を見上げて媚びる様な詫びるような態度をとった。
「うわっ、気持ち悪い。お前って、そんなキャラだったか。」
そんなバカ話で二人は大笑いした。
「ちゃんと聞けて居なくてごめん、で、何の話だった?」
「お前、今年はちゃんと稼げてるのか?」
「…と言うと。」
「あのな、ニュースを見ていると、今年は極端に雨が少なくて全国規模で問題になってるじゃないか、雨を降らせないのがお前の仕事なのだから、最初から降らないって分かっていたら仕事の依頼も減ってるんじゃないかと思ったんだ。」
「いや、特に影響はないぞ。」
「それなら、安心だけど。実はウチの社は、今年は大丈夫だから断っても良いんじゃないか。との意見もあったんだぞ。
社長がお前の事を気に入ってくれていて、一年に一度でも会いたい。と周囲を説得したって噂も耳にした。」
弘前は、心底心配している顔を僕に向けた。
さすがに、長い付き合いの友達だけあって、気にしてくれている思いがヒシヒシと伝わってきて、心の中に熱い物を感じた。このまま涙を流せたらどんなに良いかとも思ったが、ここで泣いたらこの心優しい親友に余計な心配をかけてしまうと思うと怖かった。
「弘前の会社、ついに不景気の煽りを受け始めたのか、危ない、危ない。」
僕は、そんな面白くもない冗談で自分を取り戻した。
「いくら雨が少なくても、全く降らない訳じゃないから、ちゃんと依頼はあるんだぞ。それに毎年世話になっている定期的なお客さんも増えてるからな、逆に減って欲しいくらいだ。」
「それなら、良いけど、気にしすぎだな、すまん。」
弘前はそう言うと軽く頭を下げた。
(本当は、弘前の言う通りだ、依頼はいつもの三割以下、それに…)
このまま、またボーとしたら、それこそ弘前の心配解消できないきがしたから、軽い口調で応えた。
「そんなに心配してくれるのは嬉しいけど、今は睦実ちゃんとお腹の子どもに気を掛けてやったらどうなんだ。」
「そうだな、時間を掛けて済まなかった、じゃあ子どもが生まれたら連絡するからまた遊びに来いよ。」
そう言うと、弘前は去っていった、たぶんイベントの後始末中だった筈だから、そんなに時間もなかっただろうに。
「ありがとう。」
弘前の後姿に呟いた、今度こそ自分の声が涙に震えていたと思う。
「太陽派遣業」を、口の悪い連中は「太陽屋」と称していた。
『太陽屋の影響で雨が降らない!』
『自分が儲かる為に世間を騒がず悪魔』
『面白半分に天気に介入する快楽主義者』
『自らを神と勘違いしているおめでたい男』
『そもそも、そんな不気味な奴はこの国に要らない、いや国どころか地球上で必要としない。』
雨が降らない日が続き始めると、世間は僕に批判的になっていった。
昨年まで毎年の事として依頼があった自治体の会長から今年は遠慮したいと電話があった時に「私は毎年あなたと話しているので、ちゃんと信じていますが、自治会員の反対が多くて、本当に申し訳ない。」と、受話器の向こうで何度も頭を下げているのが分かった。
同じ場所に居ると、何処からともなく僕の存在に気付いた人がやって来て悪意の眼を向けるようになった。中には、水不足でひび割れている自分の田んぼに無理矢理引っ張っていって、「あんたが居るからこんな状態なんだ、早く出て行ってくれ!」と叫ぶお年寄りも居たが、殆んどの場合は聞こえよがしな嫌味をまるで他人に言っているかのようにわざと耳に入る様にしゃべっていた。
ホームページに載せている電話番号には当然の事、一部の人にしか教えて居ない筈の電話にも度々着信があり、無言や脅迫電話が僕を責め続けた。
「もう、助けてくれ。」
「僕は、どうしたらいいんだ!」
「助けてくれ!」
と、何度叫んだか分からない。とことんまで落ちていた時に鳴った悪戯電話に出たらふざけたしゃべり方で「みず~、みずが欲しいの~」などと言った、その声はこの問題が起こった当初から何度も電話をしてくる常習犯だった。
普段なら無視をしてすぐに電話を切ったが、我慢の限界に達していたのだろう、
「水が欲しいなら、自分の小便でも飲んでろ!」
と、叫んでしまった。
「てめー、人が解り易く周囲の言葉を代弁してやってるのになんだその態度は!」
と、まるで僕が悪いかのように逆ギレした。
「じゃあ、お前はどうして欲しいねん!」
一度心の堰を切ってしまうともう止めようが無かった、僕は必要以上に大声で叫んだ。
「お前らに何が解かるんじゃ!勝手な事ばかりぬかしよって!」
「おのれ、誰に物言ってるつもりや!」
相手も喧嘩口調になってきた、こうなったら止まる筈がない、どれだけ相手を罵った川からないし、相手に罵倒されたかも覚えていない。
「おのれみたいな奴が何で生きてるんじゃ!早く死ね!」
と叫ばれた。
死ね、死ぬ、死…
(死ねば楽になるかも…)そんな思いが頭を横切り、僕の手は脳の意識とは別の所で電話の通話を切っていた。
翌日、三文スポーツ新聞のトップに『太陽屋「水が無ければ小便を飲め!」発言』という見出しが躍った。
あの男が記者だったのか、男が新聞社にネタを売ったのか、そんな事は分らないが、僕がますます世間の悪意の対象になった事は間違いないだろう。
この記事が出た日、弘前から何度も着信があったが出れなかった、そして、財布だけを持って、目的も無くフラフラとその場から立ち去った。
あの記事が出てから何日か過ぎ、乗り物に乗る事も無く、どこかに泊まる事も無くただぼんやりと歩いていた、その間誰かにすれ違い、今までと同じ様に貶されたかもしれないがその事は何の記憶も残らなかった。
次に記憶がハッキリするのは、どこかの道の目の前の看板が目に入った時だった、『死亡事故発生現場』。
死亡、死…
あの電話最後の言葉の後に感じた思いがもう一度頭を過ぎり、そして同時に体は今まで歩いてきた疲れを急に思い出し、僕の足は鉛のように堅くなり前に進めず、上半身はそのまま倒れた、そして意識を失った。
「やっと気が付いたんか。」
どこにでもある普通の部屋の布団の中で僕は目が覚めた。
そこには、四十台後半くらいの男性が僕を見ていた。
「ここは?」
「俺の家、車で走ってたらお前さんがいきなり倒れたからビックリしたで、幸い疲れてるだけやったみたいやから、家で寝かせとこうと思ったんや、最近話題の顔やから、病院に連れて行ってこっちが興味本位で詮索されるんが嫌やったから、医者に看せんかった、許してや。」
「お気使い有りがとうございます、助かります。」
「それにしても、丸二日やで、流石に疲れた。」
「すいません」
「まぁええか、病人責めてもこっちの気が悪くなるし、まずは何か食うか?」
そう言われて、暫らく何も食べて居ないのにお腹が空いていない事に気が付いた。
「いえ、今は…」
「何や、食わんのか、じゃあアイスクリーム持ってくるわ」
「お願いします。」
「素直でよろしい。」
男性はそう言うと「お~い、アイス」と隣りの部屋に向かって叫んだ、やがて男性の奥さんらしい女性がガラスの器に柚子のシャーベットを入れて部屋にやって来た。
シャーベットが胃に染みて体の全てが柑橘の臭いに染まった気だする。
「人間って弱い生き物やから、みんなと違い事に恐怖を感じるんや、そして、怖いから悪い事の責任を自分に回して欲しくない。
だからそんな時は、みんなと違う人物を責めて、あたかも自分には欠点が無い様に取り繕ってるんやろ。」
シャーベットを食べながら、中年の男性はいきなりそんな言葉を呟くように口に出した。
「お前さんの事でも、雨が降らないのは異常気象なだけで、今までの歴史の中では何度もあった事や。
でもな、異常気象って聞くと、やれ地球温暖化やらオゾン層やらで、ずっと自分達を責め続けてきたんやな。それなのに自分達が結構甘い考えや行動をしてきた。
そんな時に“雨を降らせない男”は責任転嫁のいい材料やった訳やな。」
「・・・」
「何や、不服か。」
「いえ、今までそんな風に言われた事がないので、すぐに受け入れられなくて。」
「そうやな、『自分は悪い事したかも知れへんけど、それも含めてお前が悪いねん。』なんて本人に言う奴おらへんもんな。」
「キツイ言い方ですね。」
「でも、事実やろ。」
「・・・」
「まぁ、ええわ、他人さんはここにお前さんが居る事は知らんから、しばらく隠れてたらどうや。」
「でも」
「遠慮せんでええ、どうせ俺とカミさんしか居てないからな。」
「僕がここに居ると、雨が降りません。」
「その範囲は広いんか?」
「いえ、精々小規模の市一つ分ぐらいなんです。」
「ほんなら、全国で雨が降らないのは関係無いなぁ」
「はい」
「じゃあ、気にするな。どうせここの水瓶は、隣りの郡のダムやしな、ここで雨が降ろうが降らなかろうが、影響は少ないで。」
「ありがとうございます、ではお世話になります。」
「ん、宜しい。」
こうして僕の潜伏生活が始まった。
最初の内は遠慮していた僕だが、夫婦が温かく接してくれるので、いい意味でのリラックスができた。
世間はしばらくは雲隠れした僕を血眼になって探し、あるテレビ局では大々的な捜査番組まで放送された。でも、やがて他のニュースに興味が移り、僕は騒がれなくなった。
「どうや、世間なんていい意味でも悪い意味でも冷たくて飽きっぽいもんやろ。」
「はい、そろそろご迷惑をかけた日々もおわりそうですね。」
「そうやな、でも、もう少し待つんや、これから台風が来る、それも三つ続けてな。これが過ぎたら水不足が随分解消されるから、お前さんも安心して外出できるようになるしな。」
「どうしてそんな事を、天気予報では台風はまだ一つしか発生していなかった筈ですが。」
「そうやったな・・・」
そう言うと、男はそのまま黙って去っていった。
「主人は、未来が見えるんです。」
後ろから女性の声がしたので振り向くと、奥さんが俯きながら話してくれた。
「人の運命とか、細かい事は見えないそうですが、天気がどうとか、政治的な大きな事件とか、大災害とか、大きな範囲で影響を及ぼす事はハッキリ見えると申していました。
そこで、世間様の注目を浴びて、一時期はあっちこっちに引っ張りだこでした。
そして、阪神大震災の少し前、主人はハッキリとその光景が見えていたのです。でも、それを神戸ではなく名古屋と勘違いしてしまいました。
しばらく経ってから主人は、『海が見えた都会だったから』と私に話してくれましたが、そんな簡単な事を確認しないくらい傲慢にもなっていたそうです。
結局、主人は嘘つきのレッテルを貼られて毎日バッシング記事に追い詰められます。その為にこの様にひっそりと生活するようになりました。
だから、あなたの姿を見た時に他人事ではなかったのだと思います。」
僕は、この話を聞いて驚くと同時に、自らの体験で共感を誘うでもなく、わかったような顔で馴れ馴れしくするでもなく、淡々と見守ってくれている温もりに、ただただ頭を下げざる事でしか応えられなかった。
やがて、台風は間髪おかずやって来て大きな被害をもたらしたが、水不足の不安は解消された、相変らず僕の居た所では雨が降らなかったため、ついに所在地を知られてしまったが、その時には僕に対する批判も下火になっていた。
「お前さん、心が許せる友人が居るか?」
お世話になった中年夫婦の家を出る日、こう問われたので応えた。
「はい、弘前輝之という無二の親友が居ます。」
「実は、その友人が、何度か家を訪ねて来よったけど、ずっと会わさないで居た、すまん。」
「とんでもない、僕が悪いんですから今度会ったら謝っておきます。」
「いや、それがな…」
「それが?」
「じゃあ、『ここを出る時は絶対教えてくれ』って凄い剣幕で言い寄られたもんだから…」
と、聞くが早いか、聞き覚えのある声が僕を呼んだ。
「天野!」
「まさか、弘前か。」
「俺以外に誰が居るんだよ。心配かけさせやがって。」
「すまん。」
「まあ、いい、帰ろうか。」
「そうだな。」
こうして僕と弘前は、今までお世話になった夫婦に何度も礼を言って帰宅の途に着いた。
「天野、お前に、伝えなきゃいけない事がある。」
「どうした。」
「実は、女の子が生まれた。」
「何と!おめでとう。いつの事だ。」
「一ヶ月程前だな。」
「何ですぐに教えてくれなかったんだ。」
「すぐに電話したぞ、そうしたらホテルの支配人という人が出てきて、荷物も電話を置きっ放しで行方不明になっていると聞いて大騒ぎになったんだぞ。」
「あぁ、そういう事か、迷惑かけたな。」
「本当にそう思ってるか?」
「あぁ・・・」
「そこで」と言う言葉の後に、弘前は背筋を正して僕を見た。
「お前に彼女を作ってもらうことにした。」
「えっ?」
「俺にも家庭があるし、娘まで生まれたらそう簡単に外出できないだろ?
だから、お前を管理してお前を認めてくれる女性を探す事になったんだ。」
僕はぐうの音も返せなかった。
「そこで、学生時代の仲間達が集まって誰かいい女性が居ないか探していたんだが、どうも途中で話が変な方向に進んでしまって…」
「どんな風に?」
「それはお楽しみと言う事で、その相手のメールアドレスと携帯番号を書いたメモを渡すから、必ず連絡するんだぞ。」
そう言うと、弘前は僕に一枚のメモを渡した。
「牧村晴美、二十六歳が…」
(もしかしてこの“晴”の字が変な方向の意味じゃないだろうな、それならふざけすぎてるぞ)
それでも、親友の進めを無視する訳にもいかず、僕はメモに書かれた番号に電話をかけた。
「もしもし、牧村です」
受話器から聞こえてくる声は、優しそうで柔らかかった、でも、何かに陰を感じるには気の所為だろうか。
「もしもし、どなたですか?」
「あっ、申し訳ありません。弘前輝之君から紹介を受けた天野直人です。」
「えっ、天野さんですか。」
受話器の向こうの女性はさっき気になった陰の部分が無くなる様な明るい声で応えたが、そのまましばらく無言になってしまった。
「どうしました?」
「ごめんなさい、すごく嬉しかったんです。」
「でも、初めてお話をする前じゃないですか。」
「そうですよね、おかしいですよね。」
そう言いながらも、声が涙声になっていた、どうしたんだろうか?
「あの…」
「ごめんなさい、いきなり泣いたら驚きますよね。」
「二回目ですよ。」
「えっ?」
「ごめんなさいって言葉。」
「あっ、ごめんなさい。」
「ほら、また。」
その途端にお互いに声を出して笑った。
「でも、僕から電話が掛かって来たくらいで、なぜ涙が出てきたんですか。」
「実は、私、雨女なんです。」
「えっ?」
「と、言いましても、天野さんの反対で『青空を知らない』という訳ではないのですが、イベントの参加は当然の事、少し違うお店に買い物に行くとか、いつもは電車通勤をしている会社に気分転換で自動車通勤をしてみるとか、普段の生活に少しでも変化をつけると雨が降ってしまうんです。
今回の異常気象でも、私の周りではそれなりに雨が降っていました。
ですから、私とは逆の事で成功しておられる天野さんの噂を耳にしていつも気にしていました。最近、仕事で知り合った方が弘前さんの同級生だったご縁で、今回のお話を頂きました。」
「弘前はどうやって僕を勧めたんですか?」
「はい、『牧野さんには申し訳無いと思っているのですが、友達連中が究極の晴男と雨女が付き合ったらどうなるか面白そう!と盛り上がっていて、天野に牧野さんを紹介するように言われました』と仰っておられました。
私も最初は晴男の天野さんに興味を持ったところから始まっていますので、そのお話を進めて頂く事にしました。」
そんな話を聞いていると、電話の向く側から大きな音が聞こえた。
「近くで雷が落ちました、また雨になるみたいです、今日は嬉しいお電話をしているからでしょうね。」
「ここは、晴れていますよ。」
僕は、これほどまでに天気に運命つけられている人間を自分以外では知らなかったので、彼女が僕に興味を持ったように、僕も彼女をもっと知りたいと思うようになった。
「牧野さん、今度は会ってゆっくり話をしてみませんか。」
「えっ、それって…」
「お付き合いするとか、しないとか、そんな事はまだまだ答えは出せませんが、このままで終わりにしたくないと思ってしまいました。
だから、すぐ近くで感じられる距離でゆっくりお話がしたいんです。」
「ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
「願っていれば、必ず叶うんですね。今日ほどそれを実感した日はありません。」
「会う前からそんなに期待を持たれたら困っちゃいますね。」
「そうですね、そう考えたら私も心配でドキドキしてきました。」
「では、今度の日曜日でいいですか。」
「わかりました。」
こうして初めての会話は終わった。
今、胸が高鳴っている自分にビックリしている、このドキドキは恋なのか、それともただの興味本位なのか分らない。でも、確実にいえる事は僕が牧野晴美という女性に興味があるということだ。
(今日は、月曜日か…)
日曜日までを長く感じてしまう、明日でもそう感じるくらいの気分だった。
翌日、僕はまた彼女に電話をした、そして、どうでもいい長話をした。
結局毎日電話が続き、会ったときには話す事が無くなっているのではないかと思えるくらいだった。
そして、この人なら僕の運命を変えてくれるかもしれないと感じるようになった。
日曜日。
約束の日がやって来た、彼女の雨女としてのジンクスが強いのか、それとも僕の晴男としての家伝が強いのか。
もし、今日雨が降ったなら、俺は彼女を抱きしめてこう言うだろう。
「俺の側に居てくれ」と…
俺は、昨日初めて買った傘を手にして玄関の扉を開けた。