二、長甚の友
「おや、長甚さん久しぶりだね」
大坂道頓堀界隈は上方歌舞伎の拠点でありさまざまな芝居を堪能できる。甚八郎はどこにでも顔を出して常連になっていたため、訪れる芝居小屋では長浜の甚八郎を約して「長甚」と呼ばれている。いい芝居を観ては台詞を書き取り長浜に持ち込んで子どもたちに演じさせる。このために長浜商人の中には芝居を知るのために外商に赴く者がおり、むしろ長浜ではそれが当たり前にもなっていた。
甚八郎は「鍛冶屋」の屋号を持つ主に出版を扱う版元と呼ばれる商家の次男である。鍛冶屋は彦根藩領で出版をまとめる彦根書林に関わり、特に長浜周辺を商いの中心にしているが、地方の出版物を彦根書林に持ち込んだりその逆もあるために各地に訪れていた。甚八郎は店を手伝うと装いながら江戸と上方の芝居を楽しんでいた。そして熱心に台詞を書き取ったり、何度も同じ演目に通って食い入るように観ている姿が話題にもなり、常連客とも仲良くなるすると、長浜曳山の話を熱く語るため甚八郎と長浜が切っても切れない印象となった。
甚八郎が舞台を観ながら怪しげな行動をすることを始めの頃は芝居の興行主に嫌われた。何よりも本を書く者が警戒したのである。しかしそれが近江という地方のしかし譜代筆頭井伊様のご領内で行われる祭、そして子ども歌舞伎とわかると主宰側が熱心な甚八郎が背負う仕事を勝手に理解した。甚八郎にすると自分が好きな芝居を地元でより良いものとして観たかっただけであったが、周りの誤解が演技を盗んで良い免罪符になったのだ。
芝居を堪能し、町を歩いていると若い武士から「鍛冶屋」と声をかけられた。
「宇津木様、お久しゅうございます」
武士は宇津木矩之允であった。彦根藩で三千五百石の俸禄を持ち家老でもあり藩校稽古館頭取も務める家柄である宇津木泰文の弟で将来を期待されている若者であった。だが矩之允自身は藩領から離れると身分を気にする人物ではなかった。藩領では武士の芝居見物を公式には認めていないために矩之允は大坂で芝居を楽しんでいた、そのときに「長浜の」と役者や興行主らと親しく付き合う甚八郎に興味を持ち話をするようになった。甚八郎が長浜曳山祭に深く関わっていることも知り、身分を伏せて曳山祭を見学にも行くようになっていた。そして藩領から離れれば共に酒を飲み芝居を語った。
だか、矩之允はただの芝居好き御曹司ではない。大坂には藩校頭取に相応しい学問を修めるために来ており今は元大坂東町奉行与力大塩平八郎の洗心洞で陽明学を学んでいる。ただし大塩とは師弟関係というよりは友人関係であり大塩に正面切って堂々と諫言できる唯一の存在であると甚八郎の耳にすら届いている。
しかし矩之允はもうすぐ旅立つ。将来の家老候補を育てる為に彦根藩が長崎での就学を命じた為であった。公式に海外への門が開かれている長崎を知ってこそ幕府の重責を担う井伊家の重臣となりうるのだ。
「しばし上方と別れる故に、大坂の空気を感じておった」
胸を張って、偉そうに語る矩之允に対し「さればお武家様、今宵は名残、我と一献交えましょう」と台詞の応答の様に繰り返し「されば、されば」と二人で合わせて笑う。
「相変わらず、鍛冶屋は芝居に染まっているな」
「宇津木様も、家名に傷が付きますぞ」
と、二人で「何を」とまた言葉を重ねた。
「ところで、曳山祭の指導を辞めたらしいな」
宇津木は不思議そうな目をしていた。
「鍛冶屋ほどの博識者はいないだろうに」
「さればでございます」
甚八郎の視線が床に落ちた。
「私の観てきた芝居、感じた情景を伝えても本物を観た者が語る世界は観ていない者には難しく、相手は子どもでございましたから、私に馬鹿にされたと思われてしまいました。
反発だけが育ち、それに私が無理難題を言えば憎しみか恐れしか生まれません。評論はできても指導はできないことを深く理解いたしました。ですので指導者を辞したのです」
「ならば、今後はどうする」
「さて、台本は版元として手掛けますが、どう関わるか悩んでおります」
宇津木は大声で笑った。
「やはり、関わるのは辞さぬのだな、鍛冶屋らしい」
指導者を離れ無気力になりかけていた甚八郎は宇津木の笑いによりまだ曳山祭を愛している自分を再確認できた。
その後は酒を片手に芝居談義となる。上方歌舞伎しか知らない矩之允と江戸歌舞伎も入り浸っている甚八郎では視点が違うが、だからこそお互いに気付いていない意見がある、矩之允は江戸歌舞伎を観てみたいと言い、「せめて江戸に行けないなら長浜の曳山で子らに江戸歌舞伎を教えてやってくれ」と要望した。
ならばと、甚八郎は長崎の芝居をしっかり観て伝えてくれと言う。
「長崎には学びに行くのだが…」
「芝居をでございましょ?」
二人の身分を超えた交流が終わろうとしたとき、矩之允は改めて身を正して「鍛冶屋」と静かに言葉を吐いた。
「長崎から戻れば、拙者は家中の要職に就くことになろう。さればもうこの席も最後かもしれん。隠れて曳山祭を観に行くことも難しくなる。なればこそ国許に戻った年にもう一度だけ曳山を観に行く、その最後に相応しい芝居をお主が作り上げてくれ」
酔いは覚め、まっすぐ見据えられ甚八郎は「必ず」と応えたのだった。
半月後、宇津木矩之允は長崎に向かって出発し、見送った甚八郎は江戸に向かった。指導者でなくとも子どもらに江戸歌舞伎を伝える方法などわからないが、宇津木との約束は希望になった。
江戸においても長甚の愛称で様々な芝居を楽しんでいる甚八郎だったが、江戸っ子は直接芝居を見物できないときにも舞台を楽しむ方法を持っていた。
ひとつは浮世絵である。役者たちの写し絵や舞台の一場面を描き多色刷りで販売していた。版木が使い古されたり使う色が少なければ廉価にもなったため、芝居好きだけではなく老若男女問わずに楽しまれていて役者以外の浮世絵も盛んに描かれた。
もうひとつは瓦版だった。芝居の演目と役者の紹介を羅列するだけの物、物語の名場面を紹介した物など瓦版を作る者の力量により施工は変わるが、こちらも廉価であるために複数の瓦版を集めて場面を想像する楽しみもあった。
浮世絵も瓦版もかさばる物ではないためにお土産にも重宝され、甚八郎も何枚も長浜に持ち帰っていた。
「江戸の型を知るためには、これしかない」
宇津木と別れ、東海道を東進する間、甚八郎はいかにして江戸歌舞伎の型を曳山の子どもらに伝えるかを考えていた。己自身が型を見せてもそれは甚八郎という男が見てきた物を真似しただけの形であり、気迫も魂も足りない。しからばと言って子どもらに江戸まで歌舞伎を観に行かせることはできない。上方は型をそのまま真似して演じるのは手抜きであり精進が足りないと評されるためそれぞれが新しい工夫を入れてしまい最初の型が伝承されていないのだ。もちろん上方はそれであるからこその意外性がある。初代中村仲蔵はただの脇役から己の工夫でのし上がり名優に名を連ね、今は三代目まで続いている。
長浜曳山祭でも、子どもが役者になる瞬間から台本や話の大元は大切にさせるが、最後は当人らの工夫が評価されてきた。このために台本もそれぞれが自分の演じる役の台詞だけを記しているだけで物語全てを記した台本は役者には必要とされなかった。
江戸の型を演じる舞台もあれば、上方の技を演じる舞台もある、そして宇津木は長崎からどんな芝居を伝えてくれるのだろうな?やはい異国の香りがするのか?
複数基の舞台が一度に観れる長浜だからこそ地方歌舞伎の共演ができるのだ。甚八郎の胸は高鳴りが止まらず、早くも「宇津木様、早くお帰り下さい」と脳が叫んでいた。