三、大塩平八郎の乱
天保八年二月十九日。
この日、甚八郎は大坂に居た。
宇津木矩之允が一時的に長崎から戻り、師である大塩平八郎に面会したのちに再会する予定だった。
矩之允に会うのだからと理由をつけて、前日は大坂に泊まった甚八郎は朝から道頓堀に向かった。早朝から春狂言が上演されており『奴道明寺』第二段の幕が上がろうとした頃、急に周囲が騒がしくなった。
「火事や!」と誰かが大声で叫ぶ。
座は騒然となり人々が勝手に動き出した。甚八郎もその流れに逆らわずに外に出た。火の手は近くではないがはっきりと黒い煙が確認できるが、一緒に爆発音もした。
「長甚はん、えらいこっちゃ! 大塩はんが兵を挙げはった!」
後ろに三代目中村仲蔵が立っていた。しかし周りはこの名優に気付く冷静さもなかった。
「大塩…」
甚八郎はハッとなり
「宇津木様は如何なされた!」
と、仲蔵に詰め寄った。
「落ち着き、まだ何にもわからへんのや、一人の行方を知るなんて無理や」
今は何よりも逃げることが先決と、仲蔵は他の仲間らを呼び火の手の反対に逃げようとしたが甚八郎が動こうとしないために無理矢理引っ張って行った。
火は収まらないが、爆発音はもうしなかった。
「挙兵は半日で終わり大塩親子は行方不明、弟子たちの中には死者もいる」
仲蔵は弟子たちを走らせて情報を集めていた。
「宇津木様に会いに行かなあかん…」
甚八郎の心は矩之允のみに向かっていたが仲蔵たちが「今は動いたらあかん!」と止めた、そして交代で見張りを立てて甚八郎を仲間の輪から出さなかった。
やがて、仲蔵だけではなく前年に中村歌右衛門を襲名した三代目中村芝翫らも家族を引き連れて集まってきた。大坂はあちらこちらが無残な姿になり焼け出された人々が肩を落として俯いている。二月下旬の寒さもますます卑屈な気分にさせていた。
「このままではあかん!」
仲蔵は下しか見なくなった人々に対して大声で叫んだ。
「さて、皆さま」
暗い目をしながら、奇妙な発言者に視線が集中する。
「手前は、中村仲蔵。そこにおりますは中村歌右衛門でございます」
いきなりの名乗りに呆然としていた人々だったが、若い娘が数名桃色の声を上げたのをきっかけに大騒ぎとなった。
「されば、我らもこの災いの被害者でござり、今は着の身着のままでこの場に立っておりまする」
「なればこそ」と歌右衛門が言葉を繋ぐ。
「我ら一同、この災いと闘う同志でございますれば、皆さまのお気持ちを少しでも和らげたく存じまするがよろしいか?」
すでに皆の目は輝いている。
「道具もなければ、化粧も出来ぬ身なれば見苦しい場もありましょうが、この場にて一芝居演じまする」
仲蔵、歌右衞門ら一同は深々と頭を下げてた。
周りの人々は自然に空間を作る。
化粧をせずとも手の動きひとつで、その場には女形も武将も登場した。事前の打ち合わせがなくとも役者たちはそれぞれに自分の役を演じている。甚八郎は、急に始まった舞台そのものが大掛かりな芝居にも感じられたが、今まで観たどの演目よりも集中し得意の観察も忘れて見入っていた。人々も芝居に引き込まれて寒さも辛さも一時的に消えていた。
「これが本当の芝居なのだ…」
演じさせるのではなく、自ら演じることであり技術は努力で付く衣装と同じなのだ。長浜の子どもたちにもまずは演じて貰わねばならない、型も技もそこから付加されて行く。「儂が役者からやり直したいくらいだ…」甚八郎は冷笑した。
日が経つにつれて情報が入ってきた。大塩は事前に町人たちに騒ぎが起きれば来るように言い含めていて、実際に大塩が挙兵したために現場に向かい豪商の蔵を襲い略奪行為をし火を放つなどの無体を行ったあと本格的な武力衝突の雰囲気に驚いて離散した。実際に砲撃や銃撃戦も行われたが大塩たちは呆気なく敗れて逃げてしまい、掠奪時に着いた火が大火となり大坂の1/5を焼失させていたのだ。
大坂町奉行は、乱の平定より残党狩りに手を煩わせることになる。その中で宇津木矩之允は大塩邸の焼け跡厠附近で刺殺体として早くに発見されたが、遺体は灼け爛れ無惨な姿であった。奉行所では矩之允も乱の参加者であり戦に敗れて厠に隠れているときに殺害されたと考え彦根藩に尋問の使者を送ったが宇津木家から矩之允の書状の写しが出された。そこには挙兵を急く大塩平八郎を止めようとする覚悟と、もし止められず挙兵に至るならば自分は殺害されるだろうから家に疑惑が掛からないように経過を報告する旨が記されていた。また、大塩が挙兵直後に自宅を焼いていたことから矩之允が挙兵前に殺害されたことも証明されたのだった。
これらの周到な準備を矩之允らしいと思いながらも、そこまで読めているならば逃げて欲しかったと甚八郎は恨みさえした。
「焼けた大坂の芝居を廃れさせる訳にはいかない、そして宇津木様が楽しみにされていた曳山を粗末な物にはできない!」
長浜で大坂を超える芝居をする、もう真似事とは言わせない本物を見せる。その為には子どもたちへ意義を伝えねばならず、技術にも、演出にももっと工夫をする必要があるが、それはもう自分ではできない。
役者を指導せずに、曳山祭をより磨くという課題を一人で背負ったのだった。
「宇津木様、なぜ長崎の芝居を教えてくれなかったのですか」
甚八郎は、矩之允の遺体が発見された地を訪れ、手を合わせたあと長浜へ寂しく帰って行ったのだった。