朝
ドアを叩く音が何度も響き、家主の名を連呼しながらその間に「大丈夫?」と入れる。
ノックにしては激しい呼びかけに対して、その声に緊張感はない。
「あっ、大丈夫です。夜に喧嘩しちゃって。そのまま今までふて寝だったんですよ〜」
聞き覚えのある声に安心したのか、静かになった。この頃では珍しい世話焼きなおばちゃんで、時々夕食のおかずを分けてもらったりしていたが、その時にしっかり話をしておいたことが良かった。
「床の黒い線、どうにかしないとなぁ」
玄関から部屋まで伸びる液体の痕は、一晩で乾いてしまいシミになっていた。
部屋の端にしばらく忘れていた鞄を見つける。
付き合うようになってから止めていたタバコをくわえ火を付けた。
フィルターから吸い込む煙は懐かしい思い出と共に強い刺激となって肺に達する。
吸った煙を体に流したあと、口から吐き出すと、部屋に充満した。
「今までの臭いよりはマシか…」
もう一度、さっきよりも深くタバコを吸う。
頭が冴えてくる。視線を黒い線に合わせて部屋の奥へと辿って行く。ベッドの上にはもう動くことのないお前がうつ伏せになりながら横たわり、後頭部は床の線と同じ色で染まっていた。
きっかけは単純だった。
もともと俺はいい彼氏ではなかった。それをお前は変な解釈で俺を善人に理解しようとした。
俺はだんだん図に乗った。お前が唯一許さなかったタバコを買っても、最後は許されると思っていた。
「他のことは、仕方ないなぁの一言だっただろうに…」
チッと舌を打つ。
「あ〜ぁ、殺っちまったなぁ」
灰皿の代わりになる物を探した。
この部屋に他の女を連れ込んでも、時間を置いて帰宅して何も言わないお前が、タバコを見て激怒して鞄に入れ端に投げた。
カッとなった俺は、首を絞め上げて玄関のドアにお前を投げた。そしてドアノブが凶器になった。
だらだら流れる血を見ながら俺は動揺し、お前をベッドに運んだ。
俺は甘やかされていた。そして何でも許されると誤解してお前と向き合う努力をしなかった。
お前がタバコが嫌いな理由。俺に会う前にタバコが原因で悲しい別れがあったことも知っていたのに、だから、他のことは許されても、これだけはダメだったのだ…
また玄関のドアが激しく叩かれる。おばちゃんが何かを察して警察に通報したらしい。
そんなあなたを私は見下ろしていた。
あなたは寂しい人、私と同じ様に…
だからほとんどを許そうと思った。
あなたが私を殺した事すらも嘘にしたかった。
私は、あなたに倖わせになって欲しかった。ただそれだけだったのにね。