さよならは言わない

さよならの前に覚えておきたい。

あなたの使いどころがわからない蘊蓄…
「知ってる?『さよなら』と言う言葉はただの別れじゃないんだよ」と、あなたは前触れもなく口を開いた。
会話をしながら、自分の得意分野に内容を誘導して行くのが、あなたが得意な話し方だったのにあなたは自分を「役に立たない偽インテリ」と言って自嘲するのが好きだった。
でも、知識を押し付ける人ではなかった。

それが急に「さよなら」について話す姿に戸惑いを感じる。
「さよならはね、『左様ならば』が略されたものなんだ」
私の反応をチラッと確認するのも初めてだ。
「『相手との時間が有意義で、この場を離れたくない。でも時間はやってくる。離れたくなくても、左様ならばこの場を離れよう』と、言う名残り惜しい気持ちを略した言葉が『さようなら』なんだよ」
この言葉には、ただ別れるだけではなく余韻があり、それは再会を期待する願いも含まれている。
あなたは唾を飲み込んで私の目をじっと見た。
「だから…」
何故、その表情?いつもみたいなつかみどころのない目尻の下り続ける様子がない。
「君にさよならは言えない」
あなたは、それだけ言うと普段の顔に戻り、何事もなかったかのように玄関のドアを開けた。その背中を追い掛けるように「いってらっしゃい」と言った。それ以外にこの空気に合うものが見つからなかった。

しばらくの静寂。

頭の中の細胞が活発に動き出して過去になった現実を反芻した。
「えっ?」
当たり前の光景の前、「さよなら」は言わないと言っていた。
「それって…」
再会はないってこと、あなたは私に反論するチャンスも与えないまま、でも後ではっきりわかるように前置きを残して去って行った。
「せめて、ちゃんと別れを告げろよ!」
あなたがさっきまで飲んでいたコーヒーが入ったカップを投げた。

掴んだときにカップに残った液体が私を汚す。黒い筋がカップの軌道の下に繋がり、甲高い破裂音まで誘導した。
「洗うときに大変だから」と無理をしてでも飲み干す癖があったのに、その人格すらも置いて行ったのか?
私が見ていたあの人は本物?それとも作られた人格?

汚れた部屋をそのままにして、私はベッドに身を預け夢に逃げた。

古楽
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