誕生から青春時代
私は1963年、藤嶋家の二女として京都市で生まれた。
父は小さいながらも建材店を営み、母は近所でも評判の美人だった。
この当時は事前に生まれてくる子の性別はわからず、まさに生まれた時のお楽しみだったが、助産婦さんから「可愛い、女の子ですよ」と伝えられた父の第一声は「え?また女」だったそうだ。
考えてみれば二女というのは生まれた時から家族を裏切っているのかもしれない。
古くから一姫二太郎と言われるように、最初が女だったら次は男を期待するものだ。
特にうちの場合は父が息子とキヤッチボールするのが夢だと常日頃から話していた人なので、二番目も女と聞きがっかりしたんだろう。
しかし三番目がまた女なら事情は変わってくる。
この家は男とは縁がないんだなと父と母、親戚一同も諦めがつき三番目の子はいとおしく思われ、みんなから可愛がられる。
名前も母が雅美、姉が知美だったので、私は美の一字を引き継ぎ男女どちらでも使える宏美と名づけられたが、妹はその流れを引き継がず、なぜか愛子という名前だ。
そういうわけで二女というのは実に中途半端な存在なのだが、姉のお古が基本なので経済的に父と母に負担をかけていないのが唯一のすくいかもしれない。
特に私は姉とひとつ違いだったので、洋服・習字セット・リコーダーなど継続して使えるものはすべて姉のお古だったけど、私だけ両親に愛されてないとは思わなかった。
両親は私たちを分け隔てなく育ててくれて、三人とも同じ名門女子中学から女子高へと進ませてくれたのだが、私にとって姉妹と同じ学校は結構きつかった。
「宏美のお姉さん、京都のピアノコンクールで優勝したんだって」
「宏美のお姉さんって、綺麗な人だね」
いつも姉と比べられているような気がした。
そして姉がやっと卒業したと思ったら、今度は妹が入学してくる。
「宏美の妹って、ソフトボールの京都代表だって」
「宏美の妹って、あんなに可愛いのにスポーツも出来るんだね」
もう、いい加減にしてくれ。
私は姉と妹のオマケじゃないんだと思う反面、現実を思い知らされた。
姉は大阪の大学に進学し妹は東京の大学を目指していたので、私はそのまま女子大に進み、やっと2人から解放された。
お初様は1570年、浅井家の二女として今の滋賀県北部 琵琶湖を臨む小谷城で生まれた。
父は城主浅井長政、母は織田信長の妹で戦国一の美貌の持ち主といわれたお市の方。
浅井家にはすでに世継ぎの男子はいたが、お初様が生まれた時はまさに戦国まっただ中、世継ぎは多いにこしたことはない。
父の浅井長政は「え?またおなご」と言ったとか言わなかったとか。
お初様と姉の茶々は私のところと同じでひとつ違い、妹のお江とは三つ違いでこの三姉妹はたいへん仲がよかったと伝えられているが、それには理由がある。
お初様が生まれて3年後、お江が生まれた1573年、小谷城は織田信長に攻められ落城する。
(実際に小谷城を攻撃したのは秀吉)
信長が浅井を攻めたのはそれなりの理由があったのだが、母の兄が攻撃を仕掛けてくるって、まさに血を血で洗う戦国時代。親、兄妹でも遠慮なし。
この時、浅井長政は自害するが三姉妹と母のお市は城から脱出し織田家に戻って、しばらくは平穏に暮らす。
信長が本能寺で急死すると、お市は信長の家臣であった柴田勝家と再婚。
4人は勝家の居城 北庄城に移り住むこととなるが、そこでの生活は長く続かず城に移って1年後の1583年、今度は秀吉に攻められて落城。
三姉妹は秀吉によって救い出されるが、母のお市はよほど秀吉のことが嫌いだったのか勝家とともに自害する道を選んだのだ。
戦国無情。彼女たちは幼くして両親を亡くし、後は姉妹で支え合っていくしかなかった。