滋賀県へ
中村君は元々人柄がいいので、30才を超えてからの転職であったが会社の人間関係も良好。
仕事にもやりがいを感じ順調だったが、相変わらず子どもはできなかった。
私の両親は子どものことは何も言わなかったが、彼の両親からは何度も皮肉を言われた。
一度あまりにくどいので「お初様にも子どもはいませんでした。なんなら彼に側室でも持ってもらいますか」とタンカを切ったことがある。
それいらい彼の両親は皮肉を言わなくなったが、変わった嫁だと思われたことは間違いないだろう。
お家のために世継ぎを生む、それが女の努めのようにいわれた時代。
子どもができずお初様も悩んだことだろうが、側室(一説には侍女)が男の子を出産。
その子を育て京極家の家督を継がせただけでなく、その子の嫁は妹 お江の四女である。
こうしてお初様は家の安定を図ろうとしたのだが、男の子が生まれた時、嫉妬してその子を殺そうとしたという物騒なエピソードも残している。
お家も大事だが、お初様も女なんだな。
「あなたのご両親にはああ言ったけど、浮気なんかしたら許さないわよ」
私も女である。
1998年春、我が家にとっての一大事件が起こった。
これまでの彼の営業実績が評価され、大津市にある滋賀営業所の所長に推薦されたのだ。
給料は少し上がるみたいだが、京都の本社から滋賀の営業所って普通に考えたら都落ちだろう。
「これって本当に栄転なの、それとも左遷?」
そんなことはどうでもいいか、お初様ゆかりの滋賀県への転勤、彼だけでなく私の新たなチャレンジもこの時から始まったのだ。
私たちは滋賀県に引っ越し私は製薬会社をやめ、介護職員初任者研修(この当時はホームヘルパー2級)の資格を取り、デイサービスセンターで働きはじめた。
日本はこれからますます高齢化社会が進んでいく、私の父も70才前だ、親の介護のことも考えるようになった。私に何ができるのか?
もちろん、お初様にも相談した。『自分の信じるままに進みなさい』お初様ならきっとそう言ってくれる。
その頃の姉妹はというと姉は男の子を出産しその子も、もう小学生だ。
父親が誰なのかはいまだに謎だが、連絡はとっているようだ。
かつては有名企業で社長秘書をやっていたが姉が、今は作業服姿でフォークリフトに乗り父の店を手伝っている。
「父さんが元気なうちは商売を続けさせてあげたいから」
ホームセンターがやたらと増え建築資材なんかも取り扱うようになり、ネットという新たな流通システムも構築されている時代に、街の小さな建材店は生き残れないと姉は分かっていたのだろう。
妹は旦那が浮気してないかと毎日心配し、そのうえお姑さんともうまくいってない。
子どもの教育方針をめぐりバトルを繰り広げている。
よほど鬱憤がたまっていたのか、実家に帰ってきたとき姉と些細なことから喧嘩になった。
「誰の子か分からない子、生んどいてよく言うわよ。このアバズレ!」
「私はあんたみたいに男に媚を売って生きてきたんじゃない!」
最後はお互いに、酷い言葉を投げつけあい2人は絶縁状態になった。
浅井三姉妹の方はというと秀吉が亡くなり、東西の雲いきが怪しくなり1600年に日本の運命を変える関ヶ原の合戦がおこり、高次とお初様には東西両陣営から味方につくよう誘いがあった。
東軍の徳川家康は妹 お江の義父。
西軍の石田三成は徳川から豊臣家、姉の茶々と秀頼を守るという。
2人は悩んだことだろう。
ここからは想像になるのだが、私は常にお初様が高次をリードしたと思っている。
「肝心の家康殿は今、上杉討伐のため東に向かわれておる。周りは西軍だらけ、ここは西軍で」
「いや、いや。一旦、西軍についたフリをして様子をみましょう」
いつものように高次が流されそうになるのを、お初様が止めて様子見。
お初様は姉の茶々に疑問を持っていたのではないか、秀吉の側室になってから10年以上になり、その間、乳母と侍女に囲まれた城中生活を続けている。
いつも姉の機嫌を取るような話しばかりで、正確な情報が伝わらず今度の合戦で徳川側が勝てば天下は徳川のものになるという認識はなく、豊臣政権内のいざこざとしか思ってない。
それと西軍の実質的な大将 石田三成、この人にも問題がある。
同じ北近江の出身で非常に頭のいい人だが、大名仲間での評判が最悪。
これは三成だけの責任でもないのだが、損な役回りの人であることは間違いない。
それとやはり、一番大きな違いは家康は250万石以上の大大名であり、三成は20万石程度の中堅クラスの大名であるということだ。この信用の差は大きい。
「東に向かっておられる家康殿は、三成挙兵の知らせを聞いたら必ず戻ってまいられます。私たちは、それまで大津城で西軍をくい止めましょう」
「しかし兵の数では西軍の方がうえぞ、西軍の方が有利ではないか」
「西軍は統一がとれておらず、どれだけ本気で戦うか分かりません」
「どうして、そんなことが分かる」
「お前も、ちょっとは考えろよ。私の姉は豊臣に嫁入りして、妹は徳川に嫁入りしてるんだぜ、その時ついていった侍女の中には私の息のかかったのもいるよ」
本当に夫婦でこんな会話があったのなら、歴史はもっとおもしろくなるだろう。
とくにかくにも、お初様と高次は西軍ばかりの中で東軍に味方すると旗色を鮮明にしたのだ。
『高次さん、よく決断した。偉い』
9月に入り西軍の1万人を超える軍勢が大津城に攻め込んできた。
この時、お初様が必死に城を守ろうとしたようすを記したものがある。
「お初は家中の女性たちをとりまとめ、炊き出しに精をだした」
「鉄砲の弾が袖を貫数しても、物の数ともせず奮闘した」
『お初様 素敵。カッコイイ!!』
しかしながら奮闘むなしく、9月15日 大津城は落城し、お初様と高次は城を明け渡す。
お初様3度目の落城を経験。
今回もトホホホな結果になるところだったが、一発逆転があった。
城を明け渡したのと同じ時刻に関ヶ原で戦いが開始されたのだ。
従って大津城を攻めていた、1万人以上の軍勢は関ヶ原での戦いに間に合わなかった。
関ヶ原での戦いは前半、西軍が押していたので、もし、この軍勢が間に合っていたら勝敗はどうなっていのか分からない。
合戦の後、高次は大津城でのがんばりを評価され家康から若狭一国8万5千石を与えられているが、元が大津6万石だったんだから2万5千石しか増えていない。
しかも大津は京都・大阪にも近く経済都市として栄えているのに、若狭って。
トホホホ仲間だが、同じく奥さんがしっかりしている山内一豊なんか西軍の毛利を押さえるために関ヶ原に布陣していたが、毛利が動かなかったので、何もしないで関ヶ原で昼の弁当を食べただけ。それなのに土佐一国 20万石。
お初様は思わず言っただろう。
「関ヶ原にピクニックしにいって20万石で、こっちは籠城して必死に戦って8万5千石。
やってられないわよ。うちは栄転なの、それとも左遷?」
妹のお江にも、こう言ったのに違いない。
ちなみに、お江の旦那 徳川秀忠は途中でモタモタして関ヶ原の合戦に間に合わず、家康から大目玉をくらっている。
「お江。8万5千石てひどくない」
「お姉ちゃんには悪いんだけど、あの人ならこんなもんじゃない」
「あんたの旦那は合戦に遅刻したけど、仮にもうちのは籠城して頑張ったんだから、そんな言い方ないんじゃない」
「え~え。それ言う」
「だから、ちょっと話してみてよ」
「分かった。うちのに話はしとくけど、あんまり期待しないでね。なんせ肝心なときにポカやったんだから」
「お互い、ダメな亭主もつと苦労するわね」
それで、後日加増されたのが7千石である。
その、お江であるが秀忠も家康に許され晴れて二代目将軍となり、お江も日本のトップレディーになったのだが、お江の苦悩はここから始まる。
言わずとも知れた春日局との確執である。確執というより、大奥を舞台にした女の戦争だ。
トップレディーの座も楽じゃない。
姉の茶々は関ヶ原の合戦後も以前と変わりなく、大阪城でなに不自由なく暮らしている。
三成は小うるさい人だったが、豊臣家を守りたい気持ちは人一倍あった。
その人がいなくなったんだ、もう少し危機感をもて。