まごころ
仏壇の天井にあたる台輪は普段砥ぎに使う小箱の上には乗り切らない。台輪を直に床に立て、チカは手のひらで塗面を磨く。呂色と呼ばれる手法。体がすっぽり入る程大きな部材は全体が艶々に黒光りしている。
「もう仕上がりそうやな」
「はい」
それだけ尋ねて玄野は席を立つ。
チカは大きく息を吐き出し、傍らに置いていた水筒に目を移す。疲れた様子で、目の周りに薄っすらとクマが出来ている。
台輪から手を離し、水筒を手に取り口をつけた。
台輪の下に敷かれているぼろいビニールのマットの端が俄かに浮き上がっており、徐々に立てかけた台輪が傾いていく。
「はい、いつ頃がええかお伺いしようと……」
一階の応接室で電話していた玄野。途端、
(グワシャーン!)
と天井からけたましい音が伝わってきた。
「あぁあ!」
とチカの悲鳴が聞こえてくる。
受話器を手にしたまま固まる玄野。
「ど、どうするんやこんなもん! 始めから、やり直しやないか!」
玄野の眼前でチカが土下座をしている。
「も、申し訳ありませんでした!」
傍らには塗面が大きく凹み、木地まで見えた台輪の無残な姿。
「もう言うてもうたぞ、完成しましたっていうてもうたんやぞ! どうすんねや?」
「す、すみません……」
「どうすんねや、聞いてんねん!」
チカはガチガチと震えている。
「ほ、ほんと申訳ございません!」
と床に頭を擦りつける。
「ほんま反省してるんか? なら何でこんな失敗くり返すんや? この仕事に身が入ってないからちゃうんか! 自分の仕事もちゃんと出来もせんのに余計な事にかまけているからこんな事なんねや!」
チカ、何も言えない
「おまんみたいな者(もん)、居(お)っても迷惑や。店が潰れる……やる気がないんやったら、今すぐ荷物まとめて出てってくれ!」
チカの瞳の奥から涙が溢れ出てくる。
「間もなく終着、長浜駅です」
絢子は電車のアナウンスを聞き、座席に張り付いた重い腰をあげる。
「うぅ……うううう」
と呻きながらチカは自分の部屋の荷物をまとめている。
電車は段々と市街地へ入っていく。
チカはキャリーケースを曳き、長浜駅へと早足で駆けていく。
絢子は夕闇をバックに車窓に映った自分を見詰める。ドロンとしたみっともない表情から目を逸らす。
チカは駅のホームで赤くなった鼻を鳴らしながらフェンスにもたれかけている。
電車の前照灯が見え、ゆっくりとホームにつく。ドアが開き、次々に人が吐き出されていく。チカは意を決し、フェンスから体を浮かせ、電車に乗り込もうとする。
その途端、
「!」
何かが肩を引っ張る感触がした。
動けない。
絢子は最後尾の車両に乗っていた。次々降りていくのを見届け、最後に電車を降りる。
ふと前方からフェンスを揺さぶる音が聞こえてきた。
見ると、フェンスに肩掛けバッグの何かが引っかかり身動きが取れず焦って引き離そうとしている女性の姿があった。
絢子は怪訝そうに近寄ると、
「チカ……?」
面を上げたチカ。潤んだ瞳、青ざめた表情。
純子はマスクをはぎ取り、
「なに、その荷物、どこ行くの?」
チカが目を背ける。
「もしかして、長浜から出ていくの?」
チカ、突如身をよじって肩紐から抜け出す。
絢子から距離をとろうとホームを駆けていく。
「待って!」
と叫び、追いかける絢子。
チカ、やがて足がもつれ、倒れ込む。
倒れるチカに、絢子はゆっくりと歩み寄る。
チカ、上体を起こし絢子を見る。
「ねぇ、ここから出ていくの?」
チカは何も答えない。
「夢を持って、来たんじゃなかったの?」
チカの瞳は怯えている。
「毎日楽しく過ごしていたんじゃなかったの⁉」
とチカの肩をつかむ。
「何があったか知らないけど、昨日今日で諦めてるんじゃないわよ! どうして私が残って、あんたが長浜出ていかなくちゃいけないのよ!」
絢子は涙を流した。
「いけないのよ……」
切なく呟く。
チカの表情も崩れていった。
「ジュンちゃぁあん!」
と絢子の肩を借りて泣く。
フェンスに引っかかっていたのは、写真を撮影する際、二人でバッグに取りつけた漆のストラップであった。