6

 数分が経つ。
「……よし」
 おじさんに謝ろう。
 今日のわたしは情緒不安定になり過ぎた。
 生きる理由がなくて不安だからといって、不安を理由に生きていいわけじゃない。
 わたしは重い腰を上げる。本当に重い。
 ……別にわたしが太っているわけじゃないぞ。
 身体を伸ばして周囲を見渡す。
 斜陽が地平線に沈み、深海のように青い空に星が灯り始めている。夕刻に夜が滑り込む時分を迎えているらしい。長浜駅の人の往来はいつもより激しく、西口に向かって流れている人波に浴衣が紛れている。
「……そっか」
 そういえば、今日、花火大会だった。
 びわ湖大花火大会。
 塾から家に帰るまでは憶えていたけれど、おじさんとの一件で忘れていた。
 わたしはぼうっとしながら、構内を行き交う市民の顔触れを一望する。わたしが錯覚するまでもなく、わたしとは対照的に華やいでいるように見える。わたしがどれだけ長浜に振り回されようと、彼ら彼女らはわたしとは関係ない振りをして花火に臨む。きっと、わたしが長浜にもたらす経済効果なんて花火玉にも劣るのだろう。
 本音を言えば、わたしもそちらに混ぜてほしい。夜の温もりに身体を委ねて、何も考えずに時間を消費していたい。
 けれど、わたしには帰る家がある。
 おじさんが待ってくれている。
 わたしは花火の見物客に逆行して自宅に向かう。
「……石田さん?」
 背後から突然声をかけられて飛び上がりそうになる。もしかしておじさんがわたしを追いかけてきたのか、まだ心の準備ができていない、と焦るけれど、おじさんはわたしを石田さんなんて呼ばない。
 わたしが振り返ると、見覚えのない男子が立っている。学生服のデザインから察するに、わたしと同じ高校の生徒らしい。わたし自身は先輩や後輩とのつながりはほとんどないから、彼はおそらく同級生だろうけれど、記憶が反応しない。
「石田さん……だよね?」
 彼はわたしの顔を凝視して、わたしの素性を確認してくる。
「石田……ですけど?」
 わたしも釣られて半信半疑で答える。
「石田さんか……。ならいいんだ、うん」
 彼はしきりに頷き、勝手に納得しているらしい。
 何だか失礼な奴だな、とわたしは彼を睨む。わたしの内実はともかく、姿形は一般女性と変わらないはずだから、そんなにわたしを疑いにかからないでほしい。わたしはすでに疑心暗鬼になっているのだから。それとも、泣き腫らした顔が悪目立ちしているのだろうか。
「それで、わたしに何か用?」
 何某くん、とわたしは秘かに毒づく。
「いや、さっきから蹲っていたから大丈夫かなと思って」
 ……見られていた。
 心配されていた。
 まあ、確かにこんな人通りの多い場所で座り込んでいたら、さぞかし目立つだろう。
「気にしてくれてありがとうね」
 私は努めて明るく振る舞って嘘を吐く。
「ちょっと立ち眩みで休んでただけだから。もう平気」
「ならいいんだけど……石田さんは誰かと待ち合わせしてるの? 今日、花火大会だよね」
「えっと……そういうわけじゃないけど……」
 プチ家出してきました、とは言えない。
 仕方ないので、質問に質問で返す。
「そっちは花火観に行くの?」
「考え中かな。本当は行く予定なかったんだけど、今日は早く部活終わったから、どうしようかなって感じ」
「そうなんだ」
「うん」
「…………」
「…………」
 気まずい沈黙が漂う。当たり障りのない会話に限界を覚える。いつも思うけれど、人間関係の構築には微細な神経が要求される。文字通り新人のわたしには難し過ぎる。
 それにしても、この何某くんはどうして早々にこの場を立ち去らないのだろう。会話の感触からして、わたしとは知り合い以上の間柄にはなさそうだけれど、わたしの体調を心配して居残ってくれているのだろうか。何某くんには申し訳ないけれど、すでに満身創痍であるわたしには、その気遣いが逆に疲れる。正直、早くお帰り願いたい。
 わたしは話を切り出す。
「ごめんね、足止めさせちゃったみたいで。わたし、もう動けるから」
 わたしは精一杯の笑顔を浮かべ、軽く手を振りながら歩き出そうとする。
「それじゃあ」
「石田さん」
 何某くんがわたしを呼び止める。解散する流れが霧消する。
「特に用事もないなら、今から花火観に行かない?」
「…………」
「えっと、嫌ならいいんだけど、せっかく会ったんだし、よかったらと思って」
 わたしは困惑する。どうして何某くんはわたしを誘ってくるのだろうか。何某くんの様子を窺う限り、他意があるわけではなさそうだ。
 おじさんといっしょに観た恋愛アニメを思い出し、いわゆるデートという奴なのだろうか、と思う。しかし、わたしが早とちりしているだけで、一般的な人付き合いの範疇なのかもしれない。それとも、アニメの鈍感な主人公よろしく、わたしが何某くんの恋愛感情に気付いていないだけなのだろうか。そもそも何某くんに好意を持たれるほど、何某くんとの接点はないはずだけれど。
 返事を渋り続けるのも何某くんに失礼なので、いい加減考える。
 わたしが断る理由はある? たぶん、ない。
 わたしが断らない理由はある? ……それもないな。
 つまり、わたしは自分の好きにするしかない。
 けれど、好きって何?
「うん、いいよ」
 わたしはいつの間にか頷いている。
 どうして頷いたのか、自分でもわからない。
「そっか、それはよかった」
 何某くんは変哲もなく笑う。
「早いうちに行こっか」
 何某くんは早々と歩き出す。わたしは何某くんの隣を歩きながら、何某くんの誘いに乗った理由を考える。

作者の作品一覧 クリエイターページ ツイート 違反報告
{"id":"nov154308268026267","category":["cat0800","cat0801","cat0001","cat0002","cat0008","cat0026"],"title":"\u77f3\u7530\u4e09\u5b50\u306e\u8b00\u53cd","copy":"\u3000\u77f3\u7530\u307f\u3064\u306a\u308a\u5b50\uff08\u4eee\uff09\u3068\u3044\u3046\u306e\u306f\u3001\u9577\u6d5c\u5e02\u306e\u5ba3\u4f1d\u4e8b\u696d\u3067\u3042\u308b\u9577\u6d5c\u3082\u306e\u304c\u305f\u308a\u5927\u8cde\u306e\u30ad\u30e3\u30f3\u30da\u30fc\u30f3\u30ac\u30fc\u30eb\u3067\u3001\u304a\u305d\u3089\u304f\u77f3\u7530\u4e09\u6210\u3092\u53c2\u8003\u306b\u3057\u3066\u63d0\u6848\u3055\u308c\u305f\u67b6\u7a7a\u306e\u30ad\u30e3\u30e9\u30af\u30bf\u30fc\u3067\u3001\u9aed\u3068\u51a0\u304c\u7279\u5fb4\u7684\u306a\u5973\u5b66\u751f\u3060\u3068\u3044\u3046\u3001\u8abf\u3079\u308c\u3070\u8ab0\u306b\u3067\u3082\u308f\u304b\u308b\u3088\u3046\u306a\u3053\u3068\u3057\u304b\u308f\u305f\u3057\u306f\u77e5\u3089\u306a\u3044\u3002\n\u3000\u552f\u4e00\u3001\u308f\u305f\u3057\u304c\u4e16\u9593\u3068\u6bd4\u3079\u3066\u512a\u4f4d\u306b\u77e5\u3063\u3066\u3044\u308b\u3053\u3068\u304c\u3042\u308b\u3068\u3059\u308c\u3070\u3001\u305d\u308c\u306f\u77f3\u7530\u307f\u3064\u306a\u308a\u5b50\uff08\u4eee\uff09\u304c\u308f\u305f\u3057\u3067\u3042\u308a\u3001\u304a\u3058\u3055\u3093\u304c\u9020\u3063\u305f\u77f3\u7530\u307f\u3064\u306a\u308a\u5b50\uff08\u4eee\uff09\u306e\u30d5\u30a3\u30ae\u30e5\u30a2","color":"#f3a08d"}