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数分が経つ。
「……よし」
おじさんに謝ろう。
今日のわたしは情緒不安定になり過ぎた。
生きる理由がなくて不安だからといって、不安を理由に生きていいわけじゃない。
わたしは重い腰を上げる。本当に重い。
……別にわたしが太っているわけじゃないぞ。
身体を伸ばして周囲を見渡す。
斜陽が地平線に沈み、深海のように青い空に星が灯り始めている。夕刻に夜が滑り込む時分を迎えているらしい。長浜駅の人の往来はいつもより激しく、西口に向かって流れている人波に浴衣が紛れている。
「……そっか」
そういえば、今日、花火大会だった。
びわ湖大花火大会。
塾から家に帰るまでは憶えていたけれど、おじさんとの一件で忘れていた。
わたしはぼうっとしながら、構内を行き交う市民の顔触れを一望する。わたしが錯覚するまでもなく、わたしとは対照的に華やいでいるように見える。わたしがどれだけ長浜に振り回されようと、彼ら彼女らはわたしとは関係ない振りをして花火に臨む。きっと、わたしが長浜にもたらす経済効果なんて花火玉にも劣るのだろう。
本音を言えば、わたしもそちらに混ぜてほしい。夜の温もりに身体を委ねて、何も考えずに時間を消費していたい。
けれど、わたしには帰る家がある。
おじさんが待ってくれている。
わたしは花火の見物客に逆行して自宅に向かう。
「……石田さん?」
背後から突然声をかけられて飛び上がりそうになる。もしかしておじさんがわたしを追いかけてきたのか、まだ心の準備ができていない、と焦るけれど、おじさんはわたしを石田さんなんて呼ばない。
わたしが振り返ると、見覚えのない男子が立っている。学生服のデザインから察するに、わたしと同じ高校の生徒らしい。わたし自身は先輩や後輩とのつながりはほとんどないから、彼はおそらく同級生だろうけれど、記憶が反応しない。
「石田さん……だよね?」
彼はわたしの顔を凝視して、わたしの素性を確認してくる。
「石田……ですけど?」
わたしも釣られて半信半疑で答える。
「石田さんか……。ならいいんだ、うん」
彼はしきりに頷き、勝手に納得しているらしい。
何だか失礼な奴だな、とわたしは彼を睨む。わたしの内実はともかく、姿形は一般女性と変わらないはずだから、そんなにわたしを疑いにかからないでほしい。わたしはすでに疑心暗鬼になっているのだから。それとも、泣き腫らした顔が悪目立ちしているのだろうか。
「それで、わたしに何か用?」
何某くん、とわたしは秘かに毒づく。
「いや、さっきから蹲っていたから大丈夫かなと思って」
……見られていた。
心配されていた。
まあ、確かにこんな人通りの多い場所で座り込んでいたら、さぞかし目立つだろう。
「気にしてくれてありがとうね」
私は努めて明るく振る舞って嘘を吐く。
「ちょっと立ち眩みで休んでただけだから。もう平気」
「ならいいんだけど……石田さんは誰かと待ち合わせしてるの? 今日、花火大会だよね」
「えっと……そういうわけじゃないけど……」
プチ家出してきました、とは言えない。
仕方ないので、質問に質問で返す。
「そっちは花火観に行くの?」
「考え中かな。本当は行く予定なかったんだけど、今日は早く部活終わったから、どうしようかなって感じ」
「そうなんだ」
「うん」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が漂う。当たり障りのない会話に限界を覚える。いつも思うけれど、人間関係の構築には微細な神経が要求される。文字通り新人のわたしには難し過ぎる。
それにしても、この何某くんはどうして早々にこの場を立ち去らないのだろう。会話の感触からして、わたしとは知り合い以上の間柄にはなさそうだけれど、わたしの体調を心配して居残ってくれているのだろうか。何某くんには申し訳ないけれど、すでに満身創痍であるわたしには、その気遣いが逆に疲れる。正直、早くお帰り願いたい。
わたしは話を切り出す。
「ごめんね、足止めさせちゃったみたいで。わたし、もう動けるから」
わたしは精一杯の笑顔を浮かべ、軽く手を振りながら歩き出そうとする。
「それじゃあ」
「石田さん」
何某くんがわたしを呼び止める。解散する流れが霧消する。
「特に用事もないなら、今から花火観に行かない?」
「…………」
「えっと、嫌ならいいんだけど、せっかく会ったんだし、よかったらと思って」
わたしは困惑する。どうして何某くんはわたしを誘ってくるのだろうか。何某くんの様子を窺う限り、他意があるわけではなさそうだ。
おじさんといっしょに観た恋愛アニメを思い出し、いわゆるデートという奴なのだろうか、と思う。しかし、わたしが早とちりしているだけで、一般的な人付き合いの範疇なのかもしれない。それとも、アニメの鈍感な主人公よろしく、わたしが何某くんの恋愛感情に気付いていないだけなのだろうか。そもそも何某くんに好意を持たれるほど、何某くんとの接点はないはずだけれど。
返事を渋り続けるのも何某くんに失礼なので、いい加減考える。
わたしが断る理由はある? たぶん、ない。
わたしが断らない理由はある? ……それもないな。
つまり、わたしは自分の好きにするしかない。
けれど、好きって何?
「うん、いいよ」
わたしはいつの間にか頷いている。
どうして頷いたのか、自分でもわからない。
「そっか、それはよかった」
何某くんは変哲もなく笑う。
「早いうちに行こっか」
何某くんは早々と歩き出す。わたしは何某くんの隣を歩きながら、何某くんの誘いに乗った理由を考える。