8
花火はまだ打ち上らない。
人混みはますます膨れ上がり、直に夜空を彩る大輪への期待も高まっているのが肌に伝わってくる。
「ねえ。さっきの、どういう意味?」
わたしの問いかけに、何某くんは首を傾げる。
「さっきのって……期待してるって話?」
「うん」
「あー……。いざ訊かれると、気恥ずかしいんだけどね……」
うーん、そうだなあ、と何某くんは腕を組んで唸る。
しばらくして、意を決したように口を開く。
「好きな人がいるんだよね」
「……えっ! あ、いや、失礼……」
わたしは取り乱したことを謝りながら、急に持ち寄られた恋愛相談に戸惑う。いくら何でも、わたしは人間関係の機微に疎すぎるし、相談相手としては役者不足だろう。まだしも、おじさんのほうが適任だと思う。
「それで……それがどうしたの?」
わたしは仕切り直す。
「うん、まあ、いわゆる一目惚れでさ。その人とは話したこともなかったんだけど、初めて見かけたときに、その、好きになっちゃったんだろうね」
あー、恥ずかしい、と何某くんは手で顔を扇ぐ。
「自分でも単純だと思うよ。それに、申し訳ないなって思う」
「申し訳ない?」
「一目惚れって、相手のことを見た目で好きになるってことでしょ? 男は美人が好きなんだから仕方ないとか、外見は内面を映すとか、方便は色々あるけどさ。でも、何にしても、相手を見た目で判断していることには変わらないわけで、それは相手に失礼なんじゃないかって思うんだよ」
「それは……」
わたしは想像する。
わたしというか石田みつなり子(仮)のフィギュアが目の前に置かれていて、それを見知らぬ男が手に取ってスカートの中を覗こうとしていたら……うん、ぶん殴るな。お嫁に行けなくしてやる。
けれど、それは性欲の話であって、恋愛の話とは別問題だと思う。もっとも、そう思うのは、わたしが男女関係に乏しい人形だからであって、人間にとって恋愛と性欲は切っても切れない関係にあるのかもしれない。
うーん。
「じゃあ、その人とエロいことしたいって思うの?」
「ぶっ」
何某くんは吹き出し、身体を折り曲げながら咳き込む。
「……石田さん、そういう直接的なことは言わないほうがいいと思うよ」
「そう? 大事なことだと思うけど」
「……そうだね。まあ、今は、その人が気になるってだけだよ」
何某くんは体勢を立て直し、控えめに咳を払う。
「それに、その人のことを外見だけで好きになったんだとしても、きっかけとしてはいいと思うんだ」
「きっかけ?」
「その人を理解しようとするきっかけ」
何某くんは言う。
「だって、初めから相手のことを理解するなんて無理でしょ? かといって、知らない相手とは話さない、なんていうのも寂しいしさ。ぼくがその人の外見に惹かれたんだとしたら、次は内面に惚れればいいんだって思うよ。ぼくの言う期待っていうのは、そういう意味。だから、例えば今日、石田さんがぼくと花火観るのに付き合ってくれたのも、これから楽しいことがあるって期待してくれたからなんだって、ぼくは期待してるよ」
「…………」
「ちなみにその人とは、仲良くなるところから始めたいと思ってるんだけどね。相手に期待するだけじゃなくて、実際に相手のことを知るのも大切だし」
「……そっか」
「そ。だから、これからよろしくね」
「うん。……うん? うん」
何某くんの話が最後だけ噛み合っていなかったような気がする。
「ところで、石田さん」
何某くんは言う。
「ぼくの名前、知らないでしょ」
「ぎくっ!」
わたしは不意に図星を突かれて固まる。
「いや、仕方ないんだけどね。ぼくたちが会話するのって今日が初めてだし」
何某くんはわたしを非難することなく、わたしを正面に見据えて手を差し出す。
「大谷隆継。そうだね……まずは友達からってことで」
「……うん、こちらこそ」
わたしが手を伸ばし、何某くんの手を握ろうとする。
そのとき、爆発音が天上で轟き、周囲から歓声が湧く。打ち上った花火はすぐに枯れたかと思うと、花火玉が次々と燃えながら天に昇る。琵琶湖の上空に金色の茎が幾本も伸び、一瞬で鮮やかな大輪が咲き誇る。
わたしが花火に見惚れて固まっていると、何某くんはわたしの伸ばしていた手を握る。少し汗ばんでいる何某くんの手は、私の手とは大きさも硬さも形も異なる。手に触れただけでも、わたしと何某くんの違いが伝わってくる。案外、人となりというのは、その人の内面だけではなく外見にも宿っているのかもしれない。
わたしは何某くんの横顔を見つめる。
花火の名残りが宙を舞い、何某くんの耳にそっと触れて赤く染めた気がする。