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「そういえば、どうして大谷くんはわたしのこと知ってたの?」
長浜駅は花火を観終えた見物客で混雑している。大谷くんはこれから満員電車に詰め込まれて帰宅するという。わたしはまだ電車に乗ったことがないから実感が湧かないけれど、噂によれば大変な苦行らしい。
「大谷くん、わたしと違うクラスだし、話す機会もなかったよね?」
「ああ、それはね……」
大谷くんは返事に窮している。確かに、わたしがすでに白状したとはいえ、あなたのことは知りませんでしたと面と向かって言われても、挨拶に困るだろう。
数秒の沈黙を経て、大谷くんは妙案を閃いたと言わんばかりの笑顔を咲かせる。
「石田みつなり子(仮)」
「は?」
わたしの血の気が盛大に退く。
どうして大谷くんがその名前を引き合いに出す?
「前から似てるとは思ってたけど、確かに似合ってるよ」
それじゃ、と大谷くんは逃げるように走り去り、改札口に吸い込まれていく。
一人残されたわたしは、大谷くんの台詞を反芻し、その意味に気付いた瞬間に口元と頭に手を遣る。そこには覚えたくもない手応えが確かにある。
髭と冠。
わたしは石田みつなり子(仮)の髭と冠を装着したまま出歩いていたらしい。家から飛び出して長浜駅に着いたとき、通行人がわたしに注目していたのも、大谷くんが困惑していたのも、これが原因だったに違いない。
謎がすべて解ける。
気が遠くなる。
「うわあ……最悪」
最後の最後でこの仕打ち……。
長浜なんてもう嫌。
草津に行きたい。
わたしは逆上しながら髭と冠を剥ぎ取り、東口のエスカレーターに向かって速足で逃げる。
その途中、例のポスターとすれ違い、思わず足を止める。
凛々しい表情と蝶ネクタイの組み合わせが妙に合わない水鳥。
知ったかぶりカイツブリ。
「……ふふっ」
わたしは思わず吹き出す。
「ふふふっ……ふふっ!」
堪えようとしても耐えきれず、お腹を抱えて笑ってしまう。通行人がわたしを不審がるけれど、わたしは大して気にならない。