2

 吉政は、厩に入りかけて足を止めた。
 中から女の声がしたからだ。
 厩など、女が頻繁に出入りする場所ではない。
 若い女の声ではなかったが、高いが柔らかい、可愛らしい声だった。
 女はどうやら、馬へ語りかけているらしかった。
「のう、しっかり働きなされよ。主さまを乗せて走っての。手柄を立てて無事に戻って来るよう、がんばりなされよ。ほれ、こうやって、旨いものを食べさせてやるでなも」
 女の声には、はっきりと尾張訛りがあった。尾張から長浜へ移って来た者の家族だろう。
 吉政の顔が自然とほころぶ。何と温かく、情のこもった可愛らしい声であろうか。吉政は笑みを浮かべたまま、厩へ入って行った。
 窓から差し込む光が、女の姿を浮かび上がらせていた。小柄で痩せた中年の女が、馬に人参を食べさせている。
「あれ、厩番の人かえ? ご苦労じゃのう」
 逆光に立つ吉政の影に気づいて、女は気軽に声をかけてきた。
「はい。厩番ではござらぬが、それがしの馬の様子を見に参りました」
 答えながら、吉政は女を見定めようとしている。
 着ている着物は、粗末なものではなく上物である。はて? 吉政は首をかしげた。着物はこのあたりでは見ぬ贅沢品だが、女の顔は、厳しい労働に鍛えられ日に焼けた、百姓そのものの顔である。
 誰であろう?
「あんたの名前は?」
 女が問いかける。
「田中久兵衛吉政でござる」
「たなかきゅうべえ、たなかきゅうべえなあ。はい、あんたの名前は覚えたで。その籠持って付いてきてちょうだい」
 馬の鼻面を二、三回撫でると、女はひょこ、ひょこと歩き出した。
「あ、いや、それがしは……」
 言いながらも、仕方なく籠を持ち上げた時、吉政ははっとした。
 女が撫でた馬は、間違いなく秀吉の愛馬だったからである。
――まさか……。
 吉政は、あわてて女の後を追った。
 厩の外に立って、女は広い内堀へ、眩しげな目を向けていた。
 吉政が出てくると、籠の中身を指さし、
「馬は、大根や蕪を食わんでいかんわ。贅沢じゃなも」
 それから、吉政の顔をしげしげと見た。
「きゅうべえどんは、細身で色白で、ええ男前じゃなあ。都衆のようでないかい」
 女はうっとりした笑顔になったが、すぐに顔をしかめた。
「じゃが、それじゃあ戦働きは辛かろう」
 一人で納得し、
「あんたは温(おと)和(な)しげな、ええ人のようじゃから、わしが倅に頼んでやるで。人はそれぞれ働き場所があるでなも。さ、行こうか」
 女は、またひょこひょこと歩き出した。
「わしの倅も小そうてな。しなびた猿のようでなも。それでも、躰は丈夫だでな」
 女が独り言ちた。
 女は本丸へ向かって歩いて行く。
――やはりこの人は、秀吉様の母御であろうか?
 訝しみながらも、吉政はのこのこと女の後をついて行く。
 この人が、秀吉の母なのかどうか。どうしても確かめたい衝動が、吉政を捉えて放さない。底抜けに温かく、有無をいわせぬおおらかさは、秀吉そのものではないか。面白い。この人の血が、秀吉に流れているかもしれないと考えるだけで、何故か吉政は楽しくなっていた。
「おったぞ!ばばさまがおられたぞ!」
 前方から、少年の叫ぶ声が響いた。
 すかし見ると、少年が二人、若い女が一人、本丸の方から駆けて来る。
 吉政は籠を抱え直し、足取りをゆるめた。
「やれ、また見つかってしもうた」
 女は立ち止まり、三人の方へ手を振った。
「ばばさま、探しましたぞ。どこへ行っておられたのじゃ!」
 先に駆けてきた少年が叫び、大きな目玉で、ぎょろりと女を睨む。
 もう一人の少年は、若い女に付き添うようにして駆けて来る。
「市松かや。元気じゃの、足が速いことじゃ」
 女は笑いながら安気に答えた。
「何をのんきなことじゃ」
 市松と呼ばれた少年は、がっしりした躰をゆらすようにして、地べたをどんとひとつ踏んだ。
「母上様、こちらでございましたか。急に姿が見えなくなったので、皆で手分けして探しておりましたのに。心配しましたぞ」
 若い女は、安堵の声をあげた。
 若い女の横で、もう一人の少年が、これも大きな目で、ばばさまと吉政を興味深げに見ている。
「虎も一緒かえ」
「お迎えにあがりました。一人で出歩いては危のうございます」
 虎と呼ばれた少年が、律儀に答える。
「心配はないて。ここは倅の城じゃ。なあ、ねね」
 女に屈託はない。
――やはり! 秀吉様の母御であったか。
 とすれば、目の前の若い女は、秀吉の糟糠の妻ねねに違いない。
「そなたさまは?」
 ねねが訊いた。
 湛えられた緊張は、見知らぬ吉政に対する警戒であろう。
「それがし、三川村、田中重政の倅、田中久兵衛吉政にござりまする。殿の御母堂様とは知らず、ご無礼致しました」
 吉政は答え、丁重に頭を下げた。
「左様でありましたか。ならば、宮部継潤殿の」
 頷くねねの顔から、警戒の色が消えた。
「久兵衛どんは、大丈夫じゃ。さ、行こか、久兵衛どん」
「母上さま、それは……」
 言いかけるねねに手を振って、秀吉の母なかは、
「ええて、ええて。久兵衛どん、こっちじゃ。ついて来なされ」
 吉政を促して歩き出す。
「広い城じゃ。お屋敷へ戻るのも、馬を見に行くのもひと仕事じゃなも」
 虎と呼ばれた少年が、なかの言葉に、くすっと笑うのが聞こえた。
 どうやら、こういったやりとりは、いつものことらしい。ねねも諦めたらしく、なかの後ろを歩き出した。
 市松はこの時十三歳。後に福島正則と名乗る。虎は虎之助十二歳。後の加藤清正である。
 浅井が滅ぶまで、岐阜城下の秀吉の屋敷で暮らしていた二人だった。
 秀吉の妻ねねが母親代わりとなり、手(て)許(もと)に置いて飯を食べさせ、読み書きを教えてきた。二人共、秀吉の従兄弟である。身内の気安さから、ねねをかかさまと呼び、なかをばばさまと呼ぶ。今は二人して、秀吉の小姓であった。
「早う戦に出たいの」と市松が言うと、
「まずは元服じゃな」と虎之助が現実的なことを言う。
「一番槍はわしじゃ」
「なんの、俺こそ一番手柄を立ててみせるぞ」
 ひとつ違いの二人は、互いに競い合い成長しつつあった。
 ひとつ年上の市松が、虎之助を自分の思うように引き回そうとするが、その企ては上手くいっていないようだ。
 虎之助には、市松以上に頑固なところがあり、納得せねば梃子でも動かぬ。普段はあまり争いを好まぬ虎之助だったが、そうなると市松の手に負える相手ではなかった。相手が秀吉でも同様である。
 唯一の例外は、秀吉の妻ねねだった。虎之助は、ねねの言いつけだけは実によく守った。秀吉への虎之助の忠誠は、終世変わることはなかったが、それはねねやなかの愛情が培ったものだと言っても過言ではなかろう。
 市松は野放図で、虎之助より大胆だったが、決して直情ではない。見る間に出世していく秀吉に心酔し、秀吉に認められようと懸命に励んでいる。だが時々、自分の都合で勝手に動くことがある。それと、人の好き嫌いが激しい。特に自分が理解できない人間に対しては否定的であり、そんな時は感情を抑えることを忘れがちだった。
 二人は七年後の天正十一年(1583)の賤ヶ岳で活躍し、七本槍に数えられる若武者となっていく。だが今はまだ、生と死の残酷さを知らぬ、悪童たちであった。

「明日も来ておくれ、久兵衛どん」
 なかが、当たり前のように言う。
 倅の家来だから、好きに使って良いと思っている節がある。それも悪意など一切ないから余計に恐ろしく、無邪気すぎる頼みを断るには、奇跡的な勇猛さが必要だった。吉政に断る理由はない。
 なかが言うには、本丸御殿の庭に、自分の畑を作るつもりのようだ。
「この悪たれどもはなも、手伝えいうてもすぐに逃げてしまう。埒があかんでなも」
 なかは、そばに座っていた市松と虎之助の頭を、軽くこつん、こつんと叩いた。
「悪たれではないわ。わしはもう、れっきとした侍じゃ」
 市松が、頭をさすりながらふて腐れた顔で文句を言った。
 虎之助は、恥ずかしげに少し肩をすぼめた。
「先程聞きそびれましたが、田中殿は、孫七郎の傅役を務められておいでの田中殿でございますか」
 ねねが間に割って入り、待ちかねたように訊いてきた。
「はい、それがしが務めさせて頂いております。お聞き及びでございましたか」
「あれ、久兵衛どん、あんたが孫七郎の傅役かね。そうか、そうか」
 なかの顔がぱっと明るくなった。
「岐阜での、嫁といつも話していたのじゃ。厳しい恐ろしげな男が傅役で、孫七郎が苛められとるんじゃないかとの。じゃが、倅が言うには、若いがしっかりした男を附けてるで心配ない言うとったで。そうかえ、久兵衛どんなら大丈夫じゃ。のう嫁女」
「はい、そのようでございますな」
 初めて、ねねの顔に安堵の笑みが浮かんだ。
「恐れ入ります。孫七郎様を苛めるなど滅相も」
「久兵衛どん、何も言わんでええで。わしにはちゃあんと分かるで。あんたなら、孫七郎も幸せじゃ。ついでにこの悪たれも、厳しゅう仕込んでやっておくれ。いつまでも悪たれでは、物の役に立ちゃあせんでの」
「ばばさま、悪たれではないと言うとるのが分からんのか」
 市松がふくれっ面になる。
「何の生意気な。洟垂れの悪たれじゃ」
 なかが、下唇を突き出してみせる。
 その仕草と表情は、秀吉が時折見せるものとそっくり同じだった。
 ここに秀吉が加わったら、どんな会話が生まれるのだろうか。どう転んでも、陰気な風は吹くまいと吉政は思った。笑いがいつも皆を包んでいるに違いない。秀吉の気質の多くが、母なかから受け継がれたものだろう。
 吉政はこぼれる笑みを堪えきれなかった。

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