3
次の日。
吉政は約束通り、なかの畑作りを手伝う為に、本丸御殿へ急いだ。
なかは居室の縁側に腰掛け、すっかり準備して、吉政が来るのを待っていた。
古びた着物を短めに着付け、足許は脚絆で固めている。なかの横には、鍬が置いてあった。
そばにねねがいた。
当の秀吉は、岐阜へおん大将のご機嫌伺いに出向いているのでいなかったが、代わりに秀吉の弟、小一郎長秀の姿があった。秀長と名乗るのは、ずっと後のことである。
「これは、皆様お揃いで。長秀様までおいででございますか」
戸惑いながら、吉政は頭を下げる。
「此度は、かかさまが無理を言うて済まぬな。手伝うてやってくれ」
小一郎長秀が、穏やかな笑顔で、済まなそうに会釈する。
「いえ、楽しみでございます」
吉政も笑顔で答える。
この人は、同じ腹から生まれたのかと疑うくらい、秀吉と性質が違う。穏やかで粘り強く、兄秀吉の無理難題を解決していく。
忙しい秀吉に代わり、孫七郎の許へ一番足を運んだのも、この人である。吉政が最も言葉を交わしたのは、この小一郎長秀だった。
「失礼ながら、あれから小一郎殿に、貴方様のことをあれこれとうかがいました。我らが思う以上に、孫七郎を大切に育てて下されているようで、忝く思います。これからも宜しくお願いしますぞ」
なんとねねが、吉政へ向かって頭を下げた。
「あ、いや、おやめ下され。我らは出来るだけのことをしているのでございます。学問については、継潤様の父静潤様にお願いしておりまする。孫七郎様一人では寂しかろうと、我が倅小十郎と娘ひろをお側に付けております。後は、水練、弓、槍、刀、馬とこれから必要となることだけを、知る限りはお伝えしております。他は、好き嫌いのない健やかな躰であればと」
ねねに頭を下げられあわてた吉政は、知らず饒舌になっている。
「元気な躰が、一番の要だで。偉いのう、流石はでんぺいどんじゃ!」
なかが満面の笑みで、膝を打った。
「母上様、その、でんぺいとは……?」
ねねが首をかしげた。
「久兵衛どんでは言いにくいで、わしが考えたんだわね。田中の田と久兵衛どんの兵で、田兵。でんぺい、でんぺい。でんぺいどんじゃ」
「まあ、それで昨夜、わたくしに田中殿の名を書けと申されたのでございますか。呆れたかかさまじゃこと。でも母上様、それはあまりにくだけすぎではありませぬか。それに田中殿にも失礼では」
「いや、私はかまいませぬ。ご母堂さまの思いのままにお呼びくだされ」
「ほれ、でんぺいどんは気に入っとるわね。さ、行こうか」
「はい」
吉政は太刀を外し、ねねの前に置いた。
「畑仕事に、これは邪魔でございます。ここへお預けしても宜しゅうございますか」
「はい、お預かり致しましょう」
ねねの目には笑いだけでなく、済まさなそうな色が浮かんでいる。
若輩ながら、孫七郎の傅役に選ばれた男がどのような人間か、信頼する小一郎から聞かされ、安心した様子がはっきりと見えた。
「勝手に思い込んで無理を言いましょうが、母上を頼みますぞ」
声にも真情がこもっている。
「早う行くで、でんぺいどん」
なかが焦れったそうに呼んだ。
「では、お手伝いして参ります」
吉政はしっかり頷いて、なかの後に続いた。
「でんぺい、頼むぞ」
小一郎にでんぺいと呼ばれ、思わず吉政は振り返った。
そこには嬉しそうな、それでいて照れたような小一郎の顔があった。
なかが吉政を連れて行ったのは、本丸御殿の南の外れの方だった。
四畝程の土が、乱雑に掘り返されている。
「悪たれどもの始末が、このざまじゃ」
なかが大きくため息をつく。
「深く掘りあげ、藁灰を鋤きこめば、形になりましょう。この辺りは砂が多く、米がとれにくい土地ですが、城の土は埋め立てるために山から下ろした黒土。近いうち、腐葉土も運びましょう」
「それはすまぬの、でんぺいどん。あんたは掘っておくれ。わしは小石を取るでなも」
「はい」
吉政は乱雑に掘られた土を、深く掘り返し始めた。畑を作るには、最初は二尺(60センチ)程は掘り返さねばならない。そうしないと作物の根が広がらぬし、根菜であれば尚更だった。
吉政が掘り返すあとから、なかが丁寧に小石を取り除いていく。
「でんぺいどん、腰が入っとるで。畑仕事をするんかね?」
「はい、三川村の小土豪、田植えもすれば、大根も作ります」
「そうかえ、そうかえ。物を作るんが、一番でなも」
「はい」
吉政は、次第に鍬をふるうことに熱中していった。
久方ぶりの畑仕事だった。
どれくらいの時が移ったろうか。
「あの山の上の殿さまが亡くなって、倅の家来になった人たちは、肩身の狭い思いをしてるんでないかねエ」
小石を取り除きながら、なかがぽつりと言った。
「えっ?……」
振り上げかけた鍬を下ろし、吉政はなかを見た。
「こんな広いお城に住まわせてもろうて有り難いことじゃが、やることがないでな。嫁女は一人で出歩くなと言うが、退屈でいかん」
「ああ、それで昨日も一人で厩へ?」
「そうじゃよ。一昨日は、三の丸の方まで回ってな。倅の家来がどんな風か、知っておきたい思うてな。そしたら、でんぺいどん」
「はい、何かありましたか?」
「喧嘩しとるもんがおってなも」
「喧嘩?お城工事の職人や、足軽でございますか?」
「いいや。侍同士で言い合いしとってで、やれ裏切り者だの、お前こそ戦に負けたあと、のこのこと家来になって恥さらしだのと、そりゃあ恐ろしい声であったよ」
「それは、恐ろしい思いをされましたなあ」
緊張を抑えながら、吉政は出来るだけ穏やかに答えた。
誰が喧嘩していたのだろうか。なかの言葉からすると、どうも浅井の家臣だった者のように思える。
「喧嘩している中に、ご存知の顔はありましたか?」
「いいや。一人は若いのがわきさかで、相手は、あつじかあとじとか言う四十がらみの男での。こやつが憎たらしい口をきいとってで。もうひとりは、たしか、かたなんとか言いよった。尾張の者なら、顔は見知っとるで」
「左様でございますか。喧嘩はいけませぬな」
「そうよ。今は皆倅の家来じゃもの。家来同士でけんかしちゃいかんでしょう」
「はい、ご母堂さまの申される通りでございますな」
吉政の脳裏には、喧嘩していただろう者の名が浮かんでいる。
わきさかは、脇坂。おそらく脇坂安治。
あつじ、あとじは、阿閉貞征。
かたなんとかは、片桐の誰かであろうか。脇坂と同年代なら、片桐且元だろう。
吉政の心は、激しく揺さぶられている。三人とも、浅井の家臣だった者達である。
阿閉貞征、貞大親子は、小谷城の下にある、山本山砦を任された重臣であったが、秀吉の調略で織田方に寝返った。浅井、朝倉滅亡直前のことである。
脇坂と片桐は、小谷落城の後に、秀吉の家臣となっている。
小谷落城の前と後で秀吉の家来になった者が「裏切り者」だの「恥さらし」だのと争っている。
思いも及ばなかっただけに、吉政は重い衝撃を受けていた。
――何と言うざまだ。
争う因など、どこにもないではないか。
寝返りであれ降伏であれ、自らが決めて進んだ道。優劣も上下もない。
守らねばならない一族郎党の事を考えてこその主。それを考えず妄動軽挙する者に、一族、一家の頭首たる資格はない。生きるため、誰もが必死なのだ。
それでも、人は蔑み、嫉み、奥深い欲望は憎しみと対立を生む。
――尾張と近江!
吉政の躰を、閃光が貫いた。
近江の中でさえ争いがあるなら、尾張の頃から家臣だった者と、新たに家臣となった近江の者との間も、同様ではないのか。その思いに、吉政は愕然となった。
――古参と新参の争いも起こり得る。
いや、尾張古参と近江新参の争いは、見えぬところで、既に動き出しているのかも知れなかった。
「でんぺいどん。昼じゃ。少し休もうかの。腹が減ったじゃろう」
「あ、はい。いえ」
自分の思いから覚め、吉政はあわてて返事した。
「わしが握り飯を作ってやるで、いくらでも食べたらええわね」
「いや、そのような勿体ない」
「ええて、ええて。遠慮してはいかんで。働いた分食べられる。有り難いことじゃ」
吉政は涙がこぼれそうになった。
この人の心は、どんな温かさ、どんな素直さで満たされているのだろうか。
結局、なかが作ってくれた大きめの握り飯を、吉政は五つも食べた。塩だけの握り飯だったが、たまらなく旨かった。
陽だまりを吹く暖かな風が、吉政の躰を心地よくくすぐっていく。
――陽だまりのような方だ。
吉政は、なかのことをそう思った。
「かかさま、ねね。継潤と田中重政が申し出てきたぞ。孫殿が帰ってくるぞ。わしの脅しが効いたのじゃ」
突如甲高い声が響き、足音がとたとたと廊下を鳴らした。
――秀吉様だ。
手にした茶の碗を縁側に置き、吉政は庭に下がって膝をついた。
「かかさま、孫七郎がな……」
部屋に入った秀吉の顔がぎょっと固まる。
「そなた……」
秀吉の声がかすれた。
「田中久兵衛でございます」
吉政は、ばつの悪い思いで言った。秀吉の言葉の内容は、吉政が聞くべきものではないものだったからだ。
「ええい、判っておるわ。何故かような所にいるのだと聞いているのだ」
秀吉も、流石にばつが悪いらしい。甲高い声が更に高くなっている。
はい、吉政が答える前に、
「でんぺいどんは、わしの畑作りの手伝いをしてくれているのじゃ」
なかが怒ったように言った。
「でんぺい?畑作り?なんじゃそれは?」
「でんぺいどんは、でんぺいどんじゃ。わしがそう決めたでの」
ぎりっと歯を鳴らす秀吉へ、ねねがすっと寄り添う。
「旦那様、まずはお座りなされませ」
と秀吉を座らせ、さっと茶を出す。
「茶などどうでもよいわ。久兵衛がどうしたのだ」
「お前が好きにして良いと言うで、わしは畑を作ろうと思うての。でんぺいどんはその手伝いに頼んだのじゃ。そんな簡単なことも判らんのか」
倅の秀吉へ、母のなかは遠慮がない。
秀吉も、いるはずのない場所へ吉政が居たことへの驚きと、聞かれては不(ま)味(ず)い言葉を聞かれたばつの悪さから覚めると、めまぐるしく頭脳は働き、即座になりゆきをつかんだようだった。
しかし、ふうむ、と秀吉は下唇を突き出し、困ったような呆れたような顔でなかを見た。
「旦那様」
それとなくねねが促す。
「かかさま。城の奥に畑を作らんでもよかろう。今のこのわしは、近江長浜十万石の大名様じゃ。のんびりしておればよいのだ」
恨めしげに、ぼそぼそと言った。
「何を言うとるの。人が働くことを忘れてなんとする。たわけじゃのう、このせがれは」
なかが鼻を鳴らした。
「判った、判った。やれ、かかさまにはかなわぬ」
照れたように言い、秀吉がちらっと吉政を見る。
もう行けと言う意味と、この場のことは決して言うなと、吉政は受け取った。
吉政はうなずき、立ち上がる。
「私は、これにて失礼いたしまする」
「これ、でんぺいどん。あんたは孫七郎の傅役じゃ。孫七郎が戻ることは、知っておったのか?」
なかが手をぱたぱたさせて、吉政に問いかけた。
「はい。存じておりましたが、孫七郎様は宮部のご養子。まず宮部から殿へのお許しを得るまでは、口止めされておりました。申し訳もありませぬ」
「母上さま、それが順序ゆえ、殿やでんぺい殿を責められますな」
ねねがやんわりと言う。
「判っておるで。で、孫七郎は、でんぺいどんが連れて来てくれるのじゃろ?」
「は? はあ……」
即答出来ぬ吉政は、秀吉を見た。
秀吉は何を思ったか、吉政の目をのぞき込み、にやりとした。
「そうじゃ。傅役のでんぺいどんが、孫殿を馬に乗せて帰ってくる。そうじゃの、でんぺい」
最後の呼びかけは少し皮肉っぽく響いたが、秀吉の目は笑っていた。
「はっ。承ってございます」
頭を下げながら、吉政どうも居心地が悪い。秀吉の内懐をのぞきこんだようで、落ち着かないこと夥しいのだ。
宮部の養子となっている孫七郎の去就については、長浜築城が始まった頃から、継潤や父重政と相談していたことだった。実質は人質の孫七郎を、いつまでも手許に置くのは宜しくないとの判断を下したのは、今年に入ってすぐのことだった。湖北十万石を領有することになった秀吉に対して、家臣の立場としてはこのまま孫七郎を養子にしておくのは気が重かった。
睨まれる要因はなくすべきだとの結論に一致したのだ。それでなくとも、秀吉がそれらしいことを匂わせてくる。秀吉自身が養子にせよと言った手前、自分から返せとは口に出し辛いところもあるのだろう。
吉政の思った通り、秀吉は孫七郎長浜城帰還の打ち合わせを始めた。秀吉のことだから、それだけで済ます筈はないのだろう。だが、そこまでは吉政にも漏らさない秀吉である。 吉政は孫七郎帰還の打ち合わせを済ますと、早々に本丸御殿を後にした。