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「孫殿! 父はここじゃぞ!」
大手門の前で、馬に跨がった秀吉が手を振っている。
大手門の外には、話を聞きつけた領民や家臣が、中には家臣やその家族が黒山になって立っている。領民の数だけでも、三百人を超えているだろう。
吉政達も威儀を正し、行列をしつらえて来た。
右に宮部継潤。左に田中重政と国友與左衛門。すぐ後ろに十五人の小土豪、土豪の頭首達。更にその後ろに、徒立ちの供が四十人。
――立派な行列じゃ。
――大したものじゃのう。
――あれが、孫七郎様か。賢そうなお顔じゃ。
――これだけ人が居るのに、笑うてござるぞ。
周りから、人々の声が聞こえてくる。
「父上様でござるぞ、手を振っておあげなされ」
自分の前に、抱きかかえるようにして馬に乗せた孫七郎へ、吉政はそっと囁いた。
孫七郎は、首をかしげるように秀吉を見て、ゆっくりと手をあげた。
その姿は、見ている者に少なからぬ感動を与えたようだった。湧き上がった歓声と拍手が、その証拠である。
「これでよいのか、久兵衛」
孫七郎が、吉政を見上げる。
三年近く共に暮らした吉政に、孫七郎は素直に言うことを聞く。
「さ、前を向いて、もう一度」
「うん」
五歳になった孫七郎は、素直に前を向き、秀吉に向かって律儀に手を振った。
再び歓声があがる。
それを見て、待ちきれなくなったかのように、秀吉が馬を駆けさせて来た。秀吉の馬は、間合いを計ったかのように、出迎える人々の行列が途切れるほんの手前で止められた。
「孫七郎、大きゅうなったのう」
手を伸ばして、吉政から受け取った孫七郎を、秀吉は一度高々と抱え上げ、
「皆喜んでくれ。孫七郎が、帰って来たぞ!」
喜びの声をあげた。
それに和するように、人々からも更に大きな歓声があがった。
この間に継潤達は馬を降り、控えている。
「さあ、父の馬に乗るが良いぞ。父が馬に乗せて、そなたの城に帰ろうぞ」
言いながら、孫七郎を自分の前に座らせる。
「今まで、苦労を懸けたな継潤。礼の言葉もない。ようやった」
ははっと、継潤達が頭を下げる。
領主と新しく家臣に加わった近江土豪達という、見事な構図である。当然、集まった人々は、継潤や重政、国友など頭首の顔を見知っている。
「大儀じゃ! 久兵衛、轡を取れ」
間髪を入れず、秀吉の声が響いた。
はっ!と答え、すぐさま馬の轡を取った吉政が歩き出す。
三日前、秀吉と打ち合わせた通りの流れなのだが、秀吉は演出であることを微塵も感じさせない。
見よ、秀吉の眼は、涙で潤んでいるではないか。
――これぞ、殿の真骨頂!
心地よい興奮の中で、吉政の胸もいつか熱くなっている。
段取りを組んだ当の秀吉が、この場では、湧き上がる真実の情感と心のうねりに身を委ねている。秀吉にとって、これはもう段取りではなく、まさに真実なのだ。打算と真情。理想と現実を、矛盾なく己の心に融合させ得る、秀吉にしか創造出来ない世界の結実である。
大手門の前まで続く行列の間を、秀吉と孫七郎が乗った馬はゆっくりと進む。出迎える人々の間から歓声が上がり続け、孫七郎の帰還を祝う言葉が際限なく投げかけられた。今、領民も家臣もひとつになって、孫七郎の帰還と言うイベントを楽しんでいる。中には、涙を拭う者さえいた。
「ひょう!」
大手門の前に来て、秀吉は奇妙な声をあげ馬を止めた。
丁度、門の脇に控える、十三、四に見える小坊主のそばである。秀吉は、まじまじと小坊主の顔を見ている。人々の眼も、秀吉の視線を辿って小坊主へ注がれる。
「そなた!観音寺の佐吉ではないか!」
秀吉が驚いた顔になった。
蝟集する人々が列を崩し、秀吉の周りに押し寄せた。
吉政も、小坊主の顔を見てはっとなった。知った顔である。吉政が最後に見たのは、坊主頭になる前の、十二歳の時の顔であった。
小坊主が、地べたにきちんと座り直し、膝に手を置いた。
「はい、石田村石田正継が次男、石田佐吉にございます」
「おお、やはりそうか。そなたの顔、忘れはせぬぞ」
「殿との約定を果さんが為、このような姿ではございますが、参上致しました」
石田佐吉は背筋を伸ばして秀吉を見上げ、大人びた返事で答えた。
ふと見ると、佐吉の横には、素知らぬ顔で秀吉の重臣蜂須賀小六正勝が立っている。
「わしとの約定、忘れておらなんだか。ういやつじゃ」
頷いた秀吉は、見守る人々へぐるりと頭を巡らし、こう言った。
「この石田佐吉はの、わしが先般、観音寺へ遠乗りの中途立ち寄った際、所望もせぬ前に、茶をふるもうてくれての。その時の茶の出しようが、小坊主と思えぬ行き届いたものであった。佐吉、そなたどう思うてわしに茶を振る舞ったか申してみよ。皆に聞こえるよう大きな声での」
秀吉の言葉に、石田佐吉は立ち上がり、集まった人々へ頭を下げた。
「僭越ながら申しあげます。ご領主様は遠乗りの後で、喉が渇いておいでと思い、まずはぬるめのお茶を差し上げ、喉を潤して戴こうと存じました。二杯目は、ゆっくりとお茶を愉しんで戴きたく存じ、熱く濃いお茶を差し上げた次第にございます」
石田佐吉は精一杯の声で語り、また深々と頭を下げた。
周囲から感嘆の声があがる。
――これも、殿の段取りであろうか?
この場がどのように始末されていくのか、吉政は興味深く眺めている。
「そこでわしは佐吉に訊いたのだ。わしに仕えぬかとの。佐吉は、わしならば仕えてもよいと言うてくれた。ならばわしと共に城へ行こうと言うたら、この佐吉めは、すぐにでもお供致したい思いはござりまするが、それではお寺に迷惑を掛けることになりまする。きちんと後始末をして整いましたなら、何をさておいても、ご領主様の許へ馳せ参じますると言いくさった。わしはその返事を聞いて、これは才覚がある奴じゃ、使えると確信した。佐吉、今日よりわしの小姓として仕えよ!」
「はっ。忝く思います」
感動で紅潮した顔をふるわせ、佐吉が答える。
おおっと、大歓声があがった。
秀吉はと見ると、目を閉じ、その顔が空へ向かって上げられていく。
その姿を見て、人々は口を閉じ、空を見上げていく。
静寂が支配したとき、秀吉が静かに口を開いた。
「孫七郎が戻ったと同じ日に、佐吉が駆けつけてくれた。これも、天の思し召すところであろう」
秀吉が、かっと目を開き、
「天はこのわしに、湖北長浜を守り育てよと命じられたのじゃ。皆もこのわしと共に、長浜のために、力を添えてくれ!」
秀吉の声に、人々から賛同の声があがった。
――ご領主さまあ、我らも働きまするぞ!
――お任せ下され。
――ご領主さまあ、万歳!
「皆聞け! 佐吉だけではないぞ! 我と思わん者は来るがよい。才覚に応じて、わしが召し抱えるぞ」
――なんと見事な喧伝じゃ!
吉政は舌を巻いた。
家来や人手が足りぬ弱点を一言も漏らさず、秀吉は人を集める心算なのだ。今日のことは、人の口から口へ広がり、日を置かずして人が集まってくることになるだろう。
それだけではない。
領民と家臣を巻き込んだ一大イベントは、秀吉の印象を大きく変えている。だが、人々はそのことに気づくこともないのだ。
今日秀吉は、岐阜からやって来たよそ者の武将でもなく、浅井を滅ぼした新しい領主でもなく、おらが国のご領主さまとして、皆のことを思う親しみやすい人だと、強く印象づけられた。
「殿、石田佐吉に、お馬の轡を取らせて下さりませ」
佐吉が叫んだ。
じっと佐吉を見下ろした秀吉が、絶妙の間を置いて吠えた。
「よしっ。我が馬の轡を取れ、佐吉」
はいっと、勢いよく立ち上がる佐吉へ、吉政は無言で手綱を渡した。
こくっとぎこちなく頭を下げ、佐吉は吉政から手綱を受け取った。引き結んだ唇が、緊張のためか震えている。
「ゆくぞっ!」
秀吉が号令し、手綱を引いた佐吉が歩き出す。
「皆も来い。天守閣前まで、供を許す」
秀吉が人々に手を上げて誘うと、人々は我先に秀吉の馬の後に続いた。
念の為、秀吉の馬の左横について歩きながら、何故か吉政は切なくなっている。
――きゃしゃな躰だ。
佐吉のことである。
吉政も細身だが、背丈は尋常だったし、骨太の躰だ。
だが、前を行く石田佐吉のきゃしゃな躰つきは、女と見まがうような竹中半兵衛と重なっていく。市松や虎之助と違い、戦での槍働きは辛かろう。
――しかし、竹中様とは、裡にあるものが違うようだ。
竹中半兵衛の双眸には、常に客観の光がたたえられ、時には冷酷とさえ映る光が宿ることもある。ひきかえ、佐吉の目には、鋭いとは言え、熱情の炎が噴いている。
おや?陽光を撥ねた青白い眼に気づいて、吉政は左へ眼を向けた。
そこには、家臣に混じって、二人の小姓が立っている。
青白い光を燃やして、佐吉を睨んでいるのは市松であった。
右横で、つつましげな目の色だが、抑えきれない好奇の光を宿しているのは、虎之助だ。
――市松は、佐吉と反りがあわぬかも知れぬな。
吉政は、ふっとそんなことを思った。
そしてもう一人、不思議な眼差しの少年に気づいた。
市松や虎之助より少し離れて立っている。その佇まいは静かだった。
――あれは確か、近頃入った新参の小姓で、名は大谷平馬だったか?
大谷平馬の佐吉へ向けられた眼の奥には、何か儚いものを愛おしむような、不思議な、異様な光がたゆとうていた。
大谷平馬は、後に大谷紀之介と名乗り、刑部の官位を戴いて、大谷刑部とよばれることになる。
石田佐吉は、石田治部小輔三成の幼名である。
この後、竹中半兵衛が付き添うなかとねねが、天守閣の前で、孫七郎との再会を果たした。なかが孫七郎を抱きしめ涙する姿に、人々は共に泣き、感動し、夢見心地で帰っていった。
孫七郎はなかに手を引かれ、佐吉は係の者に引き渡された。
人々が散り始めた頃、秀吉が吉政を手招いた。
「ちと、やり過ぎたかの?」
そっと、囁いたものである。
――これは! なんと恐ろしい人じゃ。到底私の及ぶところではない!
吉政はかぶりを振った。
人々に心地よい夢を見させ、自身も楽しみ、それでいて冷徹な目で現実を俯瞰しようとしている。
「いや、それがしには、なんとも」
吉政は、そう答えるしかなかった。
悪戯っぽく、きらきらと輝く目を吉政へ当て、
「でんぺい、これからじゃ。これからじゃぞ」
秀吉はにやりとしてみせた。