蠢く車
翌朝、目の覚めた治部は今日が何も起こらない日だということを知っている。今日のうちになるべく雑事を済ませておくことにした。
特に明日は治部と刑部、増田右衛門尉(うえもんのじょう)長盛、そして太閤殿下というごく少数の顔ぶれで天守に登っての茶会がある予定だった。使える時間はそう多くない。
治部は張り切って勤め上げ、最後に“使いの者”のいる牢へ出向いた。尋問は左近に任せているが、治部自身の目でちゃんと“使いの者”を確かめておきたかった。
「どうだ、左近。首尾の方は」
「おや、わざわざこのようなところに……」
牢はもちろん、居心地のいいところではない。暗く、嫌な匂いがする。
ぱりっとした着物に、乱れのない髪、色白の美しい顔で、清潔さの化身のような治部がそこにいるのはとても不自然だった。だが当の本人はまるで気にしていない。
「気になるから来た」
治部はつんと言ってのける。左近は治部の性格をよく分かっているから、帰れと言うつもりはなかったのだが今回は事情が違った。
「殿のお手を煩わせるほどのことではありませんでしたよ、だって……」
左近が話し終わる前に牢の中がうるさくなった。
「へっ、治部少輔さまもお越しになるとは大層なこって!! だが、何をしても無駄だ!! 俺一人捕らえたところでどうにもならん!! 必ずカシャは秀吉を地獄へ連れて行く!! あっはははあ!!」
「……ずっとこの調子です」
左近の言いたいことは治部にも分かった。“使いの者”との、まともな会話はほとんど望めないということだ。
だが、治部には今の彼の姿がむしろ本性であるとほとんど抵抗なく受け入れられた。夢の中で“使いの者”と戦ったとき、彼がまるで獣のように見えたことがあったからだった。
「まあ、彼が御殿に忍び込んだ目的はとにかく分かった。殿下を狙っていたとは甚だ厭わしいが……カシャとはなんだ?」
「はい。これを見てください」
左近は牢の鍵を開けて扉をくぐった。治部は左近にそのままついていこうとしたが、左近はそれを許可しなかった。治部はしぶしぶ牢の外で左近と“使いの者”を眺める。
「殿ならその距離からでも見えるでしょう」
左近がそう言っただけで“使いの者”は治部に背を向けて、後ろ手に縛られている自らの手をまるで見てほしいかのようにぱたぱたさせた。
「その手に何かあるのか? もう、せわしなく動かすな。却って見づらい」
治部が文句を言うと“使いの者”は手をしんとさせる。それでやっと目を凝らしてみて治部はぎょっとした。
「左手に、なんだ、焼きごての痕が……火の車……?」
“使いの者”の左手の甲には醜く焼けただれた痕があり、それは火をまとう車輪を描いていた。
「ああ、カシャとは火車のことか」
火車(かしゃ)は悪行三昧した者の亡骸と魂を地獄へ連れて行くとされる怪異だ。どうやら、その火車になぞらえて太閤殿下を亡き者にしようと企む集団がいるらしいということを治部は理解した。
「カシャの印が目に入ったか!! どうだ!!」
痛々しい焼きごての痕を嬉々として見せつける“使いの者”はどう考えても正気ではない。
だがその、どう考えても正気ではない者たちが集まっているのが「火車(カシャ)」と名乗る集団で、焼きごてはその証なのだ。
「何をしても無駄だ!! 何をしても!! ははは!! もうすぐ!! 楽しみだ!!」
左近が牢の鍵を再び閉めると、“使いの者”はくるりと振り向いた。そして治部を見据えて、にかあっと笑う。
しかしその“使いの者”の目は治部を見ていたのではなかった。その先に確実に起こる未来を、豊臣にとっての悪夢を、ありありと目に浮かべてつい漏れ出てしまった笑いだったのだ。
治部はその不気味な笑みを真正面から受け止めてしまい、心底ぞっとした。が、同時に生来の負けん気もむくむくと湧きあがった。
「豊臣をなめるな。必ずその蛮行、止めてやる」
治部はまるで価値のないものを眺めるときのように“使いの者”を一瞥(いちべつ)した。