夜のとばり
(遅くなってしまったな……)
治部は牢を後にし、刑部の屋敷へ急いで向かった。刑部の屋敷の者は相変わらず、すぐに治部を通してくれた。
刑部は昨日の見舞いのときと、ほとんど変わらない状態のままでいた。ただ、昨日はうなされていたのが、今日は表情が穏やかであることだけが救いだった。
「刑部殿について医者はどのように言っている?」
刑部に付き添っている屋敷の者に治部が尋ねたが、尋ねるより前に屋敷の者は泣きそうな顔をしており、ここで治部は少しだけ嫌な予感がした。
「原因も分からず手の打ちようがないと……熱が高すぎるので、もし明日までに目が覚めなければ危ないと……」
「えっ、そんな」
自分の予想をはるかに超えた悪い知らせに治部の心臓は一瞬、鼓動を忘れて息が出来なくなった。
夢では刑部と普通に会話をしていたし、現実でも数日したらまた元気な刑部に会えると当たり前のように信じていた。突然には信じ難い。
「紀ノ介、嘘だろ? そんなの」
治部はたまらず刑部の右手をひしっと握りしめたが、その手はくったりして、燃えるように熱かった。治部にはそれで医者の言葉が真に迫ってきた。
「は、早く、目を覚まさないと……」
勝手に涙がじわあと滲み出て、拭おうとする前にぽたぽたと落ちてしまった。治部は縁起でもないと、自分で自分が嫌になる。
しかし刑部を失ってしまうかもしれないという想像をはねのけることも出来なかった。治部の心は、牢で“使いの者”に啖呵を切ってきたときとはまるで別物のように脆くなっていた。
「今日はここにいてもいいだろうか?」
従五位下治部少輔という立派な官位をも賜った大の男が、自分を取り繕う余裕もなく、親友の手を握ったまま、目にはたくさん涙を浮かべてものを頼んできたら、どきっとしてしまう。
刑部の屋敷の者は反射的に「は、はい!」と答えた。
治部はここに居続けることもまた縁起でもない行動であると分かっていたが、自分のために、後悔のないよう刑部となるべく一緒にいたいと思ってしまった。
夜は更けていく。
ここは名護屋城近くにある、夜の町。
夢を売る店の一角で、人知れず影が蠢いていた。
「じゃあ、明日もあなたの妹ちゃんの代わりに行っていいのね」
女は嬉しさと心配が織り交ぜになった複雑な表情を顔に作る。
「ああ。これは秘密のことなんだが、明日は本当に特別なんだ。天守で、殿下とごく少数の側近たちだけの茶会が開かれる。その準備に携われるなんて有難いことなのになぁ。妹はやはり体調がよくない」
男はこの店に通い詰める者らしくなく、随分と真面目そうな顔をしている。
「そう……妹ちゃんには悪いけど、ありがとう。お城でのお務めに携わる機会なんて私には夢や幻のようなものだったもの」
「こちらこそ、そなたが城での働きに興味があると言ってくれなかったら人を欠いてしまうところだった。世話になるな」
「ふふ、兄妹そろってねぇ」
その言葉の含む意味が分かった男は、「兄」としての顔をしている途中に「客」である自分のことを指摘されたのに気づいて、少しばつが悪そうに笑った。
「いいのよ、お侍さん。そんなあなたが好きよ。ここにおいでなさい」
女が身体を開くと男は許されたのだと思って、むしゃぶりつく。女は男の背中に手を回した。
巧妙に男には見せていない、女のその左手には炎の中に浮かぶ車輪の印が宿っていた。