炎
天気は、からりとした晴れだった。
天守からは遠くの方の海までよく見えるが、海をじっと見ることはほとんどなかった。会話が弾んで弾んで楽しく、そのような暇はとてもなかったからだ。
茶会という場はやはり不思議な力を持つ。まるで宴会のようにくだけたものだったがそれでも茶会でしか得られない心の落ち着きがあった。
治部はずっとその空気感を味わっていたかったから、少しためらいを持ちながらも先ほど報告の入った破壊事件のことを太閤殿下にお話した。
太閤殿下は「怪我をしたならしばらく来られないだろうし、あるいはもう懲り懲りと思って来なくなるかもしれん」と明るく笑った。
茶会の場で太閤殿下にそう言われると治部も確かにそのような気がしてくる。治部は気負いしすぎていた自分を客観視でき、心の重荷を少し下ろせたような心地がした。
だが逆に太閤殿下は少しため息をついた。
「お前から言ってくれるのを待っていたが、言ってくれないから儂から聞こう。佐吉よ、その怪我は一体どうした?」
「あっ、これは……」
治部はうっかりしていた。傷口が開かないように治部の顎から首にかけて包帯が巻かれていたから、いきさつを知らない人には気にならないわけがない。
どうやら傷の痛さから気を少しでも逸らすために怪我をした経緯についても話そうとするのを自然とためらっていたらしかった。
「実は昨日、本丸の方で……」
“使いの者”の存在について話そうとしたとき、治部は鼻に少し違和感を覚えた。何か煙のような臭いがした気がしたのだ。
治部がそれで顔を少ししかめたので、太閤殿下は「どうした?」と声をかけた。
「いえ、すみません。何か、燃えているような臭いが……」
話している間に、煙たい臭いが違和感ではなく正真正銘その臭いであることを確信してゆく。
「これは、火事です!」
治部はすぐに立ち上がって外を覗き込むと、下から黒い煙がもくもくと上がっていた。
「早く、お逃げ下さい! まだ火は大きくありません。右衛門尉殿、殿下をお連れしてください。某は経路を確保致します。しんがりは刑部殿にお願いします」
「ああ!」
「分かった!」
治部は自身が先頭を切って、なるべく安全な避難経路を選び、刑部に背後を任せることにより、殿下を挟み込む形で守れるように、移動することを決めた。
また各々、煙を吸い込まないように顔に手拭を巻く。外に掛けておいた刀も手に取る。
「いざ」
治部が早いうちに煙に気付いたおかげで、まだ炎が大きくなっていないときに動くことが出来た。また、炎の回っていないところを察知して、うまく経路を選んだので一行が炎と遭遇することはなく、煙もほとんど吸わなかった。
しかし治部は冷静に判断を積み重ね、傍から見てもそう思われる一方で、最悪の予感によって心臓がおかしな鼓動を刻んでいた。
(ただの失火なわけがない。あいつらだ、火車がやってのけたんだ……!)
治部の頭の中で、牢にいた“使いの者”の高笑いがこだまする。
(中に協力者がいることは分かっていたが、それがまさかこんな日中に、こんな大胆に、天守を燃やすことを考えるとは……しかも、わざわざ殿下が天守にいらっしゃるときを狙って!)
治部は歯をぎりいと食いしばり、震えるほど強く刀を握りしめていた。もし夢でなければ、これが現実になっていた。
火車について、現実には存在を知ることまでできたのに結局、何の対策も講じられなかったことが悔しい。
またこの夢は予知夢であるだけあって、とても生々しいのだ。斬られた傷は本当に痛い。煙は目に染みる。息苦しい。この夢は夢であって夢ではなかった。
(殿下を絶対にお守りせねば)
外にやっと出られたとき、治部は瞬間、風圧のようなものを感じて咄嗟に刀を抜いてはらった。
その刀にぎんっ、と衝撃が走る。
「なんだ!?」
治部の刀に当たったのは飛んできた矢だった。
「治部殿、殿下が狙われている!」
刑部は太閤殿下と右衛門尉の背後にいたが、ぱっと一番前に躍り出て刀を払った。
「あっ……!」
治部の気付いていなかった矢は刑部の刀によって、ぱらぱらと地面に落とされた。
「まんまとしてやられたな」
刑部が険しい顔で前方を睨みつけた。