火車の女の命運

「昔、火傷したんです。醜いので、こうして隠していました」
 女はそれ以上、治部に左手を観察されないようにさっと右手でかばってしまった。
(なるほど、あくまでしらを切るつもりだな。上手いこと言う)
 確かに火車の紋は、墨を被るとただの火傷の痕に見えた。ただし、それは火車の存在を知らない人にとっては、という話であり、治部には通用しない。
「そうだったのですね……」
 治部はそう言いながら刀の柄に手をかけ、瞬間に女の顎へ向かってそれを直撃させた。女は脳を激しく揺さぶられて、何の抵抗も出来ずゆっくりと倒れた。
「危なかった」
 治部は、ふぅと息を吐いた。
 女のすぐ近くには炎と、ご馳走を作るための油があった。女は計画が嗅ぎ取られたことを察して自滅の覚悟で炎をまき散らすつもりだったが、そちらに意識をとられすぎたことで防御行動が間に合わなかった。
 あまりに突然起こったことに、刑部以外の誰もがこの状況を理解出来ず、厨の中はさっきまでとは打って変わり、しん、とした。
「この人は諜報を行っていました。誰か、何か知っている者はいないですか」
 その空気の中、まずは刑部が口を開いた。優しい、落ち着きのある声だったので、場の緊張が少し解けた。
「あ、あの……何か知っているというほどではないのですが……でも、諜報をしていたとすれば、合点がいくことがあって……」
 刑部の呼びかけに一人、若い女が声をあげた。
「彼女は、本当はここにはいないはずの人なんです。お勤めに来るはずだった子が病気で、その代わりに来ていて……だから私たちみんな、彼女のことを詳しく知らないんです。それに今日だけでなく、何回かは一緒にお勤めをしましたが、彼女は屋敷の中で迷ったと言って、いなくなることがよくありました」
「うんうん、そうそう」
 周りの人々も各自うなずいたり、相槌を打ったりして同意を示した。
「そうですか。それでこのようなところにまで入って来られたのですね」
 唐入りによる人手不足を完全に逆手にとられた形だ。治部は元々、唐入りに否定的なこともあって心の中では(ほら、見ろ!)と悪態をつきたくなった。だが努力して、その感情は顔には出さなかった。
「でも、もう大丈夫ですよ。すぐに安心しろ、とは言いませんが一先ず危機は去ったと思って、そのまま、いつも通りを心掛けて下さい。人手が減ってしまったので申し訳ないのですが、すぐに代わりの者を探します」
「いや、そんな、気を遣わないでください。びっくりしなかったと言えば嘘になりますが、大丈夫ですよ。さ、元に戻るよ!」
 ここを実質的に仕切っているらしい、中年の女が元気よく言うと、他の皆もはっと我に返ってそれぞれの持ち場につき始めた。
「治部少輔様、刑部少輔様、ありがとうございます。このまま何も知らないでこの人と一緒に過ごしていたら、どうなっていたか分からなかったです。私たち」
「いえいえ。とにかく皆、無事で良かったです」
 中年の女が言ったのを聞いて治部はこう返したが、実際この女の凶行を止められなかったらどうなっていただろうと考えるとぞっとした。出火場所がここである以上、逃げきれずに火に巻かれた者もいるのではないだろうか……



 火車の女の身柄は別の者に預け、治部と刑部は治部の屋敷へと向かった。屋敷にて左近と落ち合う予定だった。
 左近に捕獲を任せた工員たちの中には、ただ巻き込まれただけの火車ではない者たちがいる。この者たちから火車について有力な情報が得られそうだと考えていたからだ。
 一方、火車の女は今まで好き放題に本丸屋敷にも天守にも入り込めていたところをみると、相当訓練された者だ。口を割りにくいだろう。
「とにかく今、俺たちで出来ることは全部やったな」
 屋敷へ向かう途中、治部はにこにこしながら刑部に話しかけた。
「ああ。と言っても、俺はあんまり何も出来なかったけど。佐吉のおかげだな」
 刑部の顔もほころぶ。
「でも、俺が火車の人をあのとき一撃で倒せるとは限らなかった。そのときのために紀ノ介は構えてただろ」
「知ってたのか」
 刑部はもし、女が一撃では倒れてくれなければ脇差で急所を刺すつもりだった。
 女の、しいては火車の計画はまず「天守が燃えること」が大事で、その目標のためには女がどんな強硬な手段に出るか測りかねた。変な動きを起こす前に仕留める。全く手加減するつもりはなかった。
「もし俺が手を出すことになっていたら、今日の茶会は中止になっていただろうなあ。厨の、後始末が大変になっていたはずだ」
 婉曲的に刑部は言ったが、つまりは女に即死的な攻撃を与えようとすると、出血多量による血の海は避けられなかったということだ。
「そうはならなくて良かったな」
 治部は困り顔で笑いながら、刑部の言葉で、あることを思い出した。
「あ、そうだ。今日は茶会があるんだった」
 治部は火車のことで頭がいっぱいで、厨へ行ってきた後にも関わらず茶会については完全に意識が飛んでいた。夢ではもう出席していたので、もう終わった気になっていたのもあるらしかった。
「間に合うだろうか? 今日の茶会に」
「間に合わなかったときのことも考えておいたほうがいいかもな。こればっかりはどうにもならん」
 そう言いながらも刑部の目は何も諦めていない。
「急ぐ必要も出てきたわけだ」
 治部もにやりとして、先を急いだ。

江中佑翠
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江中佑翠

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