火車地獄5
「紀ノ介!! どうした!?」
治部はよろよろと刑部の元へ駆け寄って刑部の背中をゆすった。
「佐吉か……?」
刑部は顔を上げたが目に力はなく、顔面は蒼白で、今までに治部が見たことのない不安げな、すがるような表情だった。刑部もまた治部と同じように目隠しを外してしまっていた。
しかし、すぐそこに落ちていた刑部の目隠しはほどけてあるのではなく、そのまますっぽりと落ちたような状態だった。刑部の髪は乱れており、そのことと併せて考えると頭をかきむしったような形で結果的に目隠しがとれたといったところだろう。
自分とはまた異なる様子ではあるが、匂いのせいで刑部もおかしくなっていると治部は悟った。
同時に、刑部の異様な状態をくっきりと目で見たことにより、ここで治部の中でまだ存在していた快的な気分はいよいよ影を潜めた。
「紀ノ介、とにかくここを出るぞ!」
悠長に話している時間はなかった。治部は一人、火車の人を殴り倒したばかりなのだ。
治部が無理やり刑部の手をとって握ると、刑部は存外強い力で握り返してくる。
ここを出ようとする意図が刑部に伝わっているかは分からなかったが、とにかく治部は刑部の手を引いて出口へ向かった。
平衡感覚が狂っているのは刑部も同じで、そんな二人が手をとり合って走るのはなかなか骨の折れることだ。
だが一人転べば、もう一人も転ばせてしまうという精神的重圧のために、治部も刑部も転ばない。
問題は出口に立ちはだかっている、二人の供の者だった。手にはそれぞれ背の高さほどの長さの木の棍棒を握っていた。
「お前たちは密儀伝授なしに、密儀伝授が何たるかを知った。されば、死あるのみ。……まあ、火車香(カシャコウ)を存分に吸っておいて、まともな抵抗が出来るとも思えんが」
ナユタがそう言ったのは聞こえていなかったが、なぜ出口を塞がれているか治部は理解していた。
「まずはあの棍棒をなんとかするぞ」
治部は刑部と繋いでいた手を一旦、離そうとした。しかし刑部の手はそれを許さない。
「駄目だ、佐吉、どこにも行かないでくれ……」
「え、なんて?」
刑部が何かを口にしたのは分かったものの、やはり何と言ったかまでは治部には分からなかった。同時に治部の言葉も刑部には通じないので刑部は勝手に続きを話し出す。
「ここは真っ暗闇の中なんだ。佐吉がいないと、俺はこの暗闇の中で干からびて死んでしまう……ああっ、頭が、痛い……!」
刑部は治部と繋いでいない手の方で頭を抱え、苦痛に顔を歪めた。
(俺はふわふわな良い気持ちになったが、もしかして紀ノ介はその逆なのかもしれない)
どちらにせよ、全く余裕のない刑部が治部には恐ろしく、一刻も早くここを出たい。出られれば、きっと元の刑部に戻ってくれる。
治部は刑部と繋がっていない方の手で、懐を探った。鎖分銅や目つぶしのための砂など、明らかに不審なものは、万が一持ち物を確認されたときに言い逃れをしにくいと思って置いてきている。
代わりに入れておいたのは銭を三十枚ほど通しておいた銭貫(ぜにぬき)だ。一方に銭が寄せてあり、縄の部分はかなり長めにとってある。
「じゃあ、行くぞ」
治部と刑部は出口の前でしばらく、ぐずぐずしていたにも関わらず、出口を守る供の者が手を出してこなかったのは正当防衛という形を作りたいからだった。
しかしそれは結果的に悪手と言わざるを得ない。
治部は銭の部分を分銅、紐の部分を鎖に見立て、まるで鎖分銅を扱うかのように、供の者が握る棍棒に向かって銭貫を投げつけた。それはくるくると棍棒に絡まる。
「あっ」
供の者は慌てて棍棒を自分の方へ引いたが、治部が棍棒をたぐり寄せる方が早かった。
供の者はそれでも棍棒に執着したために、かえって引っ張られて前のめりに倒れる。その瞬間に棍棒は手放され、治部は刑部の手も離さないまま、器用にそれを捕らえた。
「よしっ」
こんなにあっけなく供の者から武器を奪えた理由は、このときの治部に考えつかなかったことであるが、ナユタの言っていた「火車香」が、この場にいる全員――供の者にもナユタにさえ――に作用が及ぶものだったことが関わっていた。
この「密儀伝授」を考え付き、全ての「密儀伝授」に携わって何回も匂いを嗅いでいるナユタが一番、匂いに対する耐性を持つ。
だが供の者は治部や刑部よりややまし、といった程度であり、匂いの作用をそれなりに受けていたのだ。
そして純粋な戦闘力で言えば、俄然、治部の方に軍配が上がる。
攻撃範囲の広い武器を手に入れた治部は、二人の供の者に抵抗の隙を与えず、簡単にえいっ、えいっと倒してしまった。
「じゃあな」
治部は出口を勢いよく開け切り、ナユタの方を振り向いてにやりと笑う。
ナユタは驚きと、怒りとがない交ぜになった表情でぽかんと突っ立っていた。