蜘蛛の糸2

「俺は密儀伝授を受けずに、でも密儀伝授が何であるかを知ってここに立っている」
 治部はまず、そう宣言して続けた。
「密儀伝授では、人が正常な判断を下せなくなるような香を焚いている。手に焼き鏝(やきごて)を当てるなんて正気の沙汰ではないのに、香りを嗅いでいるとつい、許容してしまいそうになる。これが密儀伝授の正体だ」
 治部が言うと、すぐにナユタが口を挟んだ。
「では、そのようなおかしな香で私が皆を惑わせているとして、どうしてそなたには香りが通用しなかった? そのようなものはない。ただそなたが密儀伝授に至らぬ存在だったというだけだ。そして火車の間は特別で神聖な場ゆえに、芳香が自然と漂っているのだ」
 治部はふうん、と冷めた目でナユタを見下ろした。既にナユタの言葉に矛盾を発見したが、ここでナユタを叩ききるには惜しかった。治部もまた、ナユタを言葉の力と真実でもって粉砕しようとしていたからだ。もう少し、議論を重ねたい。
「ああ。俺は確かに『密儀伝授に至らぬ存在』だろう。俺は己の意志の力で、密儀伝授を拒否した。それでも、もし紀ノ介がいなければどうなっていたか分からない。紀ノ介がいたから、俺は正気を保てたんだ。おぬしらは、正気じゃないときに刻まれた焼き印があるせいで、後から正気に戻っても、これだけの試練に耐えたのだからと思い込んで、火車について行かざるを得なくなっていないか?」
 治部がそう言うと、一部の火車の者たちは視線を下ろしたり、眉間にしわを寄せたりして、少し考え込むような様子が見られた。
 しかし大半の火車の者は「そんなわけあるかー!」という、誰かの声と共に頭から否定を始めた。
(今まで信じてきたものが嘘だと言われるのは辛い。そう、簡単に現実は受け入れられないと思う)
 だが治部はそれも分かっていた。このようなことでは全くひるまない。
 刑部は治部の隣に立ってはいたが、火車の間で何が起こっていたのかほとんど分かっていなかったので、治部の話を素直に納得しながら聞いていた。
「次にこれらのしゃれこうべだ。これに関わった人はここにはいないはずだ。そうだろう?」
 治部がゆっくり、皆の反応を確かめるように言うと、今度は誰も否定する者はいなかった。治部はこれが忍の仕業であると分かっていたが、そこまで言うと自分たちがどこからここへやって来たのかまで分かってしまいそうだったので黙っておく。
「これらは、一番皆に見えやすいようにここに置かれている。それがどういうつもりか、考えたことはあるか? ……そう、見せしめのためだ。この処置に『やりすぎだ』と感じても、口を出したら同じようになるかもしれない、と一度は誰もが考えたことがあるのではないか?」
 治部がそう言うと、静かにだが動揺が広がった。その証拠に、初めに喋った時のように野次が飛んでこない。
 この様子を見ても、ナユタはまだ落ち着き払っていた。
「見せしめのため? 何のことを言っている? 我らの強さの証として、置いてあるにすぎない。なんだ、火車の間の香りのせいでおかしくなったと言っていたが、そもそも頭が弱いのではないか、そなたは? なあ、皆もそう思うだろう?」
 ナユタがそう問いかけると、一瞬しんとしたあと、ぱちぱちと拍手が上がり、「そうだそうだ!」と聞こえてきた。
 だが、拍手やナユタに同意する声とは裏腹に、その直前の一瞬の静けさによって、火車の者たちはいよいよ、どちらが真実を言っているのか迷っているということがそれぞれにはっきり伝わってしまった。
 潮目が変わってきたので、今が追い込みどきだ。治部はすぐに次の話を始める。
「それにな、何より俺はおぬしらが、豊かな生活を送っているようには思えない! 俺が噂で聞いたことには、もっと悪党三昧で派手に生活しているはずだったのに、それはなぜだ?」
 ナユタは少し不味いと思い始めたが、舌戦で勝つと決めたからには、途中から急に暴力で口を塞ぐことは出来ない。それは信頼度を損ねるし、これまでに治部が言ったことに同意することになる。やはり舌戦で治部を叩きのめすしかないのだ。
「当たり前だろう。火車は秀吉に虐げられ、世間の隅に追いやられた者が、集っている。皆、可哀想な者たちなのだ。豊かな生活など、出来やしない」
 それを聞いた治部の目の色が、かっと変わった。足元にある灯のせいだろうか、火車の者には皆、治部の瞳は赤く燃えて見えた。もはや、治部はナユタを見ていない。火車の者たち一人一人を見つめながら話していた。
「この男が言うように、自分自身のことを可哀想だと思うな! 自分が可哀想なら、悪いのは自分以外の他人(ひと)になる。そして相手が悪だと思えば、人はどんな残酷なことでも理不尽なことでも出来てしまう! さらに、自分は可哀想だから努力なんてしなくていい、と、どんどん堕落する。そうしたら、そのとき本当に『可哀想』な人になる! このナユタという男は、おぬしらを可哀想、可哀想と言い立て、その実、都合よくおぬしらを操っているだけよ!! 違うか!?」
 治部がそう言い切ると、火車の者たちはとうとう、ざわざわし始めた。
「そんなことない、そなたたちは可哀想なんだ。今まで秀吉にやられたことを忘れたのか?」
 ナユタはすぐに言うが、治部の堂々とした演説の後では、かなり見劣りした。
「紀ノ介、交代だ。俺はちょっと準備するものがある」
 治部は刑部の方をぽんと叩いて、台の上から軽快に飛び降り、奥へ走り去ってしまった。まさに風のようだったので、誰も止められなかった。
 刑部は急に話を振られる形となったが、刑部にも思うことがないこともないので話始める。
「なんでも『秀吉のせい』としておけば、自分のやることに責任はなくなって、非を追求するだけになる。そりゃあ、楽だろうなあ。でも、おぬしらはもう、目覚めなくてはならない。本当に、おぬしらのもてる力を使うべきはそこなのか?」
 治部の力強い言葉とはまた違う、刑部の染みわたるような口調には、それだけで別の説得力があった。まして、言っていることは嘘偽りない。ナユタの旗色はかなり悪くなっている。
 そこへ治部が戻ってきた。手には絹の袋と、香炉がある。
 治部が手にしている物を見たナユタの顔色は分かりやすく、悪い方に変わった。
「随分、早かったな」
 刑部が治部を労うと、治部はふふ、と笑った。
「だって、すぐそこにある火車の間に行ってきただけだからな」
「待て……!」
 そこへナユタが二人の会話に入ってきたが、二人そろって無視した。
「さあ、こちらへおいで」
 刑部は治部が台に上がってくるのを笑顔で迎えた。
 治部は台の上にまた、さっさと上がってしまうと再び演説の口調になる。
「これは俺が火車の間から持ってきたものだ。どうだ、これらの物が示す意味が分かるか?」
 治部が絹の袋の中身をこぼすと、その中からは金貨が流れ落ちる。きらきら光るそれは、火車の者たちの目を釘付けにした。
「これが火車の間に隠されていた。他にもこんなのが沢山ある。疑う者は今から火車の間に行ってみたらいい。入ったらすぐに分かるようにしてきた」
 治部が平然と言うので、何人かは本当に火車の間へと走って行った。
「あっ、こらっ、神聖な火車の間に、なんてこと! 勝手に行くな……!」
 ナユタは口だけが動いている。腕力がないために、力づくで止めるすべを知らないのだ。
 治部と同じように、火車の間へ行った人たちは手に色々持ってすぐに戻ってきた。
「この人の言っていることは本当だ! 火車の間の、あのせりあがった台の中に、こんなのが沢山ある!」
 金や銀が入っている絹の袋、絹の服、骨董品。出てきたものは数えきれない。
「ほら、おぬしらが痩せて、食事も満足でない様子なのに、この男はおぬしらを可哀想やら助けるやら口で言いながら、私腹を肥やしているのだ。おぬしらは騙されている!」
 実物の証拠が目の前にあるという効果は大きかった。ここで治部の言葉を疑う者は一人もいなくなった。さらに、治部はだめ押しでもう一つ、持ってきた香炉の中身を指で持ち上げる。黒い丸薬のようなものだった。
「これも火車の間から持ってきたものだが、これは何だと思う? この匂いを嗅いだことのない者はここに誰一人としていないぞ」
 治部はその黒いカタマリを一番前にいた人に手渡す。その人は迷わず匂いを嗅いで言った。
「これは、火車の間の匂いだ!」
 治部は満足げにうなずいた。
「そう。さっきこの男はなんと言っていた? 『火車の間は特別で神聖な場ゆえに、芳香が自然と漂っているのだ』だったよな? このような香を焚いているだけなのになんという言い草だ。息を吐くように嘘をつく詐欺師がこの男の正体だ!」
 治部は気持ち胸を張り、ナユタを意識的に見下ろした。その顔は圧倒的勝者の顔であり、敗者からすれば憎たらしいにもほどがある。
「だれが……誰が詐欺師だと? お前らみたいな屑、俺のような上に立つ人間の肥やしにしかならねえんだよ! いい夢見させてやっただけ感謝しろ、馬鹿野郎!」
 今まで作り上げてきた性格、設定、何もかも投げ出して、ナユタは火車の者たちを罵った。ナユタのあまりの変わりように、火車の者たちは衝撃を受け、そして自分たちが今まで間違っていたということをはっきりと認めた。
「ふふ、ははは! あっはっは! 自分を上に立つ人間だと思っているのか? これは面白い、面白い!」
 暗い、嫌な空気を無視して大笑いを飛ばしたのは刑部だった。
 刑部が急に笑い出したので、皆、呆然とする。刑部はまたもやその空気を無視する。
「なぜ俺たちがここへいると思う? どうしてそれを止めることが出来ない? 頭の回らぬ人間が、何をのたまう!」
 普段は基本的に温厚な刑部が、ここまではっきりと人を蔑むのは珍しいことで、治部も少し驚いた。だが、刑部は火車の間でしてやられたに近かったので、少しでも反撃したい気持ちはよく分かった。
「なぜお前たちがここへだと? 火車の秘密を奪って、乗っ取ろうとしているのだろ!?」
 ここでもまだ頓珍漢なことをナユタは言っているので、治部も可笑しくなってくる。が、口を出さずに刑部に言わせてやる。
「名護屋の天守を焼失させ、殿下とその側近もろとも、殺そうとしていたのだろう?」
「えっ、どうしてそのことを……」
「それは失敗に終わった。俺たちが食い止めたからだ。さらにおぬしを追い詰めるため、俺たちはここへやって来た。もっと、用心しておいたらよかったものを、あっさりここへ入れたのでこちらも拍子抜けしたのだ。なあ、佐吉」
「ああ、紀ノ介」
「待て、待て……! お前らは、一体誰だ!? なあ!?」
 ナユタは城の方は上手くいっていると思い込んでおり、まだなけなしの余裕があったが、その余裕は完全に崩れ去っていた。
「うん、もうすぐ分かるのではないかな?」
 刑部がにこにこしながら言う意味はすぐに分かることとなった。
「治部様、刑部様! この嶋左近清興、参上仕りました!」
 外への出口が大きく開かれ、左近と、左近が連れてきた兵たちがこの場へ流れ込んだ。
「左近!」
「理由は後です。まずは後始末を終わらせましょう」
 左近は、にいっと笑ったが、その笑顔は大層恐ろしいものだった。

江中佑翠
この作品の作者

江中佑翠

作品目次
作者の作品一覧 クリエイターページ ツイート 違反報告
{"id":"nov166782893040354","category":["cat0800","cat0007","cat0014"],"title":"\u6cbb\u90e8\u3068\u5211\u90e8\u3068\u8822\u304f\u8eca","copy":"\u9577\u6d5c\u3001\u9577\u5d0e\u306e\u4e8b\u4ef6\u3092\u7121\u4e8b\u306b\u89e3\u6c7a\u3057\u3001\u540d\u8b77\u5c4b\u3078\u623b\u3063\u3066\u304d\u305f\u6cbb\u90e8\uff08\u77f3\u7530\u4e09\u6210\uff09\u3068\u5211\u90e8\uff08\u5927\u8c37\u5409\u7d99\uff09\u3002\n\u3060\u304c\u4e00\u606f\u3064\u304f\u9593\u3082\u306a\u304f\u3001\u57ce\u5185\u3092\u58ca\u3057\u3066\u56de\u308b\u602a\u3057\u3044\u72af\u4eba\u306e\u4e8b\u4ef6\u304c\u65b0\u305f\u306b\u4e8c\u4eba\u3092\u5f85\u3061\u53d7\u3051\u3066\u3044\u305f\u3002\n\u305d\u3093\u306a\u4e2d\u3001\u5211\u90e8\u304c\u5012\u308c\u3066\u3057\u307e\u3044\u6cbb\u90e8\u306f\u7aae\u5730\u306b\u9665\u308b\u2026\uff01\uff1f\n\n\u300c\u8c4a\u81e3\u306e\u7345\u5b50\u3068\u7261\u4e39\u300d\u6cbb\u90e8\u3068\u5211\u90e8\u304c\u60aa\u7f6a\u88c1\u304f\u3001\u5a2f\u697d\u6642\u4ee3\u5c0f\u8aac\u7b2c\u4e09\u5f3e\u3002","color":"#f3a08d"}