柔と剛
治部が廊下を曲ると、“使いの者”の姿は見えなかった。
「おや、誰もいないですね」
左近の殺気が少しだけ和らいだ。
「夢で見たときよりも成二郎と話をしなかったせいで早くここに来ている。夢と異なることをするとそれが反映されるのかな」
「では奴が現れるまで待つしかないわけですね」
「ああ。せっかくだからあの部屋へ行っておこう」
治部は左近を連れて“使いの者”と交戦した部屋へ向かった。
部屋の中の物の配置も夢で見たとおりだ。ばらばらと床に散らばっていた籠手は全くそのままそこにあった。
「そもそもこの籠手が床に落ちているのが怪しいんだ」
治部が近くにあった籠手をしまうための箱の中を覗くと、不自然な空白がある。
「あまり考えたくはないが……」
治部は籠手を拾おうとしたが、その前に左近が全て箱に仕舞った。箱の中は籠手が全て仕舞われたあとでも余裕がある。
「籠手は箱から溢れるほど多くない。籠手がこぼれてしまうほど箱が不安定に置かれているわけでもない」
あと、この時代遅れな籠手に誰か用事があるとは思えない、と治部は言おうとしたが、それは夢の中で会った主計頭のことが思い出されて言わなかった。
「誰かが意図的にここへばら撒いた可能性が高いでしょうね」
「そうなると思う」
治部の視線は続いて向かいの棚の下へ注がれる。
「そしてここの棚の下から刀が出てきたわけだ」
治部が棚の下に手をやると固いものが当たる。それを掴んで引き出すと、全く夢で見た通りの刀が姿を現した。
「ここに刀があるとあの者は初めから知っていた。籠手のこともある。つまりこの部屋は既に別の者による仕込みが済んでいたということだ。どういうことか分かるか、左近」
「殿が例の輩と遭遇するより前に本丸へ侵入者があった、または内部の協力者がいる、ということかと」
淀みなく話した左近に治部はこくりとうなずいた。
「どちらにせよ随分まずい。例の者はこの部屋に迷わず入ったから、儂は本丸内部の構造を記した図面も流出しているのではないかと思う」
「そうすると図面を流出した協力者がいるでしょう。協力者は内部にいるという前提で動かなければいけませんね」
世間で噂される姿とは異なり、普段は朗らかな顔をしている左近が、渋い顔になる。
「それに何やら人の気配が外にしますね。来ました」
治部も耳をすませてみると、ひた、ひた……と足音が聞こえた。
「このままここにいよう。通り過ぎたところを何食わぬ顔で出て行って声をかける」
「かしこまりました」
治部と左近は夢の中では“使いの者”が隠れていた大きな甕の裏で“使いの者”が通り過ぎるまでの間、息を潜める。
そのつもりだった。
しかし“使いの者”は予想に反して、部屋を通り過ぎることなく中に入ってきた。
(え、今、入ってくるのか!?)
“使いの者”から治部たちの姿が見えないように、治部たちからも“使いの者”の姿は見えないはずだったが、治部はあることに気が付いた。
(あの者はこの部屋にどんな仕込みがあるのか分かってここへ入っている。籠手を片付けてしまったせいであの者はここに“侵入者”がいることに気付くだろう!)
そして今こうして隠れてしまったからには、何食わぬ顔をして声をかけることも出来ない。隠れているのは後ろめたいことをしている何よりの証拠だ。
(一触即発だ)
治部が覚悟を決めたそのとき左近が一人、ふらっと甕の外から出てしまった。同時に、治部が一緒に出て行かないように左手で治部の身体を抑えつけていた。
「なんだ、びっくりした。ここへ人が来ることなんて滅多にないので、悪いこともしていないのについびっくりして隠れてしまいました。あなた様はどうしてこのようなところへ?」
左近は信じられない物腰の柔らかさで、優しく語りかけた。
「あ、ああ。主君よりここの物を運んでくるように命じられてな」
“使いの者”はそのあたりの手元にある古地図などをかき集めた。今回はそのような設定でいくと決めたようだ。
「左様でしたか。面白い殿さまがいらっしゃるものだ」
左近はほっほっほっと笑いながら“使いの者”に近づいていった。
「ちなみにあなた様の主君というのはどなた様でいらっしゃるのですか?」
「石田治部少だ」
「ははあ。なるほど。そうでございましたか。では少しお手を拝借」
全く論理的な会話ではないが“使いの者”は藪をつついて蛇を出す状況を恐れて、素直に左近に手を差し出した。その差し出された手を左近は握るが、握手とは少し違う変わった握り方だ。
「奇遇ですな。某の主君も石田治部少でございます」
笑顔を崩さないまま、左近は“使いの者”の手をきゅと捻った。
「あ゛っ……!!」
ただそれだけのことなのに“使いの者”には激痛が走った。その痛みから逃れようとその場にうずくまるが、左近が手を離さない限りその痛みはずっと続く。
「ほう、この痛みに声を上げずに耐えられるか。大したものだ」
左近はさらに手を捻り上げる。
「~~~~!!」
声を上げないのではなく、“使いの者”には声にならない声しか出ないほどの経験したことのない痛みが執拗に走っている。
「これから質問することに答えればこの手を放してあげないこともない。何の目的でここへ入った?」
しかし“使いの者”は左近の質問に答える前に失神してしまった。
「まあ、いい。後でじっくり聞こう」
左近はくるりと甕の方へ振り向いた。
「殿、これでよろしいですか」
治部は甕からひょこりと姿を現した。
「よろしいも何も、完璧じゃないか」
治部は陰でじっとしていただけなのでちょっと悔しいような気持ちもあるが、左近を連れて来て良かったの一言である。
柔と剛。
二つの相異なる要素を併せ持つ左近は、さらにその行き来も自由自在である。主君である治部でさえも今日は改めて、振り幅の広さに驚かされてしまった。
「左近はそのままそれを牢へ連れて行ってくれ。儂はこのあたりの警備を強化するよう言ってくる」
「かしこまりました」
「参るか」
治部は口ではそう言いながらも何か、この部屋に名残惜しさを覚えているように左近は感じた。
「どうかされましたか?」
「いいや、なんでもない」
いくら自分が見た夢が限りなく予知夢に近いものであろうとも、主計頭に会えるとは思っていなかった。まさにあれは夢だったから。
だが、それでも治部はほんの少しだけ期待していた。
左近のおかげで何もかも首尾よくいったが、主計頭と会えないままにこの部屋を去ることは寂しいことだった。