岩崎君の無駄話
「陽子どうしたの? 今日もご機嫌じゃない」
由美は「おはよう」の言葉よりも先に私の肩を叩いて声を掛けてきました。
「え? 後ろ姿でそんな事が解かっちゃうの?」
由美は「だってスキップしそうなくらい軽い足取りだったもん」となかなかの観察力を示します。
照れた顔で「実は…」と口ごもる私。
「ん?」由美は興味津々。
「昨日ね」
「何よ?」勿体ぶった私に先をせかす同僚。
「誠さんが、家に遊びにきてくれたの!」私の声はメチャクチャ明るかった事でしょう。
「えー! 彼氏忙しい人だったんじゃないの?」由美がからかう様に言いました。
「それがね」
私は目を輝かせながら由美を見ました。
「お客さんの所から直接帰ったから時間が出来たんだって~」
「陽子、あんた周りにハートマーク飛びまくってるよ…」
由美は呆れたようでしたが「いいもん、今日の私は超ハッピー♪」と飛び上がる私。
「はいはい、ごちそうさま、幸せそうでいいわね~」
「由美も彼氏を作れば良いじゃない」
由美は呆れた様な、怒った様な顔で「どこに、私に釣り合う良い男が居るのよ」と高飛車発言をしました。
「うわ~、強気だね~」そんな時、私の頭に一人の男性の顔が過ぎりました。
「そうだ! 岩崎君はどう? 彼、黙っていたら男前だし由美と息が合ってるみたいだから」
由美は顔を真っ赤にしながら「何言ってるのよ、面倒を押し付けないでくれる、誰が岩崎なんかと…」と拒否を示しました。
「正直になりなさいよ」私は由美の肩を軽く叩きました。
「だから…」
「嫌いなの?」
「そんな事は無いけど…」由美の声が小さくなります。
「じゃあじゃあ、何がダメなの?」
「あいつ口数が多いから、時々鬱陶しくなるんだ…」とため息と共に言います。
「じゃあ、寡黙な岩崎君なら?」私が由美の顔を覗き込みました。
「無理じゃん」由美が力強く言いました。「あの無駄話を聞くとイライラしちゃうんだよね」
「ふふふ、じゃあ私にお任せあれ」この時、私の頭の中には『消えノート』が浮んでいたのです。
「由美の恋愛成就の為に一肌脱ぎますか」
由美は心配したように「余計な事しないでよ」と言い、この日は私が岩崎君に近付こうとすると余計な事を言わないか警戒していたようでした。
帰宅してすぐに『消えノート』には“岩崎の無駄話”と書きました。
一仕事終えると安心してキッチンに向かいました。
「お母さん、今日のご飯何?」その時目に入った母の姿に驚きました。
「お母さんなんて恰好で料理してるの!」
母は気の抜けたような声で「え? スーツだけど?」と答えます。
「スーツのままでそんな事して、油とかでシミが出来たらどうするのよ?」
母は首をかしげながら、「あんた、何言ってるの? スーツはシミが出来ないじゃない、シミが出来てもすぐ無くなっちゃうから便利なんじゃないの、他所のお宅でも殆んどスーツでお料理してるわよ」と娘が何に驚いているのかわからない様子でした。
「え…」
「それにしても不思議よね、同じ布を使ってもスーツ以外はシミが残っちゃうのに、何でスーツだけは消えちゃうのかしら?」
「そ、それは…」私は言葉に詰まりました。
「ホント不思議だよね」
(どーせ、『消えノート』なんて信じてもらえないし、でもこんなことになっちゃうなんて思わなかった、これが誠さんの言ってた事だったんだ。
でも、岩崎君の無駄話なら大丈夫だよね)
「お母さん、ちょっと誠さんに電話してくる」
私は部屋に戻って携帯電話を手に取り誠さんの携帯に呼びかけました。
「はい、もしもし」
「誠さん、お疲れ様」
「陽子、今日は早いね、どうした?」
「あのね…」私はスーツの話を伝えました。
「それでか」誠さんが納得したように声をあげます。
「どうしたの?」
「いつもはジャケットで会社に行ってるんだけど、今日は社長が出席する会議があるからスーツを着て行ったら『お前は今日の会議にその恰好で出るのか? あまりにも失礼じゃないか!』と上司に怒られたんだ、何故って思ってたんだけどね」
私の声が「ごめんなさい」と沈みます。
「いや、良いよ、解かれば対処できるからね」
「でも、半月前に課長が着てきた時は大丈夫だったよ?」私のささやかな抵抗。
「昨日聞いた話だと、ノートの字が消えた日だったんだよね?」
軽く「うん」とうなずきました。
「もしかしたら、まだ世界が変わったばかりだったからなのかも知れない」
「どういうこと?」
「世の中には原因があって結果があるんだ、これを“因果律”と呼ぶんだけど、課長さんの時はスーツのシミが消えるという原因が起こってから浅かった。だから結果が反映されていなかったんだと思う。
でも、この半月で因果律が出来上がったのもしれない」
「難しい話だけど、ありそうな気がする」
誠さんも「たぶん…」と仮定段階でしかない考えに自信はない様子でした。
「じゃあ、なぜ私と誠さんは今でもスーツの価値感が他の人と違うの?」
私の頭ではまだまだ分からない事が多すぎます。
「あのノートの存在を知ってるからだよ」と誠さんの仮説は、私にほぼ確信に近いと思わせるくらいの後付けがありました。
「そうか、ちょっと納得した、ありがとう」
これ以上誠さんの時間を奪えないと思い電話を切ろうとした私に「なぁ陽子」と誠さんが呼びかけて「無闇にあれこれ消すなよ」と最後の念押しをしたのです。
「了解」私は首も頷いたけど誠さんには見えないよね。
「じゃあ、おやすみ」誠さんは電話を切りました。
「あっ、岩崎君の無駄話のこと言い忘れた、まぁいいか」
その翌朝、文字は消えていました。
三日後、由美と岩崎君をディナーに誘って二人の仲を取り持つキューピットを演じ、思った通り上手くいったのでした。
「由美、感謝しなさいよ、岩崎君の無駄話を消してあげたんだから」私は由美にも伝えられない努力に勝手に恩を着せるのでした、勿論心の中で。
「由美、彼とは上手くいってる~?」
二人が付き合いだしてたった一ヶ月しか過ぎていません、だからこう言ってからかうのが私の日課になってきました。
「はいはい、上手くいってますよ、陽子が頑張ってくれたんだもん」
由美の返事も毎日同じモノでした。
私は同じ事を岩崎君にも聞いている。こういう挨拶で毎日お互いの愛を第三者に確認し二人の仲は深くなると勝手に思っているからだ。
もちろん「そうよ、キューピット様の恩を忘れないように」なんて念押しも忘れていません。
「りょーかい」由美はいつもと同じ様に指を伸ばした右手を自分の額に当てて挨拶した。
「うむ、よろしい」私も同じ恰好をして応える。
「お二人さん、朝から軍隊ごっこか?」
「あっ課長おはようございます」突然現れる戸田課長に愛想良く返事をして課長が行くとまたおしゃべりが始まりました。
「ねえ陽子、今日のお昼は真之と一緒に三人で食べない?」
「いいけど、真之って誰?」
「岩崎だよ、知らなかったの?」
由美は目を丸くした。
「知らないよ~、てか、もう名前を呼んでるんだ~、ラブラブだね」
「うるさい!」顔を真っ赤にして怒る同僚に「しかも、呼び捨てだし、姉さん女房決定」とたたみ掛けます。
「何とでも言え! で、どう?」
「OK」
「じゃあ、お昼にね」
お昼、社の近くにあるファミリーレストラン。三人で食事。
由美と岩崎君はまるで当たり前の様に隣同士の席に座ります。
「先月じゃ考えられなかったくらい仲良しさんなんだから…、いつ結婚するつもり?」
私は冗談で尋ねました。でも由美は真剣な顔で応えます。
由美の「すぐにでもって思いたいんだけど、やっぱり収入がね」と沈んだような声。
「本気…?」
「うん」真剣な顔で頷く由美。
この頃ではほとんど声を聞くことが無くなった岩崎君が「同じ会社だから鍋島先輩も解かると思うけど、この先を考えるとやっぱり苦しいね」と重い口を開きました。
無駄話をしなくなった岩崎君がそう言う話をするという現実を考えただけでも深刻な問題なんだと思う。
「俺、結婚したら由美には家に居て毎日帰宅した時に出迎えて欲しいから、給料明細を見てため息が出るんです」後輩は辛そうに俯いて話す。
「解かるけどね」私も頷く。
「せめて、この税金分だけでも無くなったら…なんて考えたりして」ますます落ち込む岩崎君に由美が「仕方ないよ」って励ましました。
「俺が甲斐性ないから」
「そんな事ないよ、私も頑張るから」
そんな二人のやり取りを聞いていると、幸せを願わずにはいられず悩んでいると(そうだ、税金を消しちゃえばいいんだ)と閃いたのです。
「岩崎君、由美、私に任せておいて」
「えっ?」二人は声を合わせて声にしました。
「任せてって陽子、何を?」
不思議そうな由美の表情に「それは内緒。でも、由美のウェディングドレス姿を早く見たいから頑張る」と答える私。
「陽子…その気持ちが嬉しい」
「いいって、親友じゃない。
じゃあ、お邪魔虫の私は先に社に戻るね、あとは仲良く食事しててね」
私は二人を置いて席を立ちました。その後の二人がこんな会話をしていたとも知らず…
「ちょっと、強引過ぎたかな?」
「大丈夫、陽子はそんなに変に思ってなかったみたいだから」
「なら、いいけど」
「これも、私たちのためでしょ」
「でも、騙してるみたいで心苦しいなぁ」
「騙してるんじゃない、みんなで。の世界も…」
二人は黙って食事をしてギリギリの時間で会社に戻ってきたのです。