二、心配
出産予定日はどんな基準で決まるのだろう?
男の僕が理解できていないだけなのかも知れないが、それ程ずれるものでもないのでは無いかと思っている。まして、十日も遅れたなら心配になって当然じゃないだろうか?ましてや、それが妻の初産なら…
そんな事を考えながら仕事をしていると、思いもしない所で失敗する。今も、部長から呼び出されたところだった。
「弘前君、奥さんの事が心配なのは分かるが、山村商事に送る書類を奥井物流に送っては不味いだろう。山村商事が我が社の子会社だった事が幸いして大きな問題にはならなかったが、下手をすると、君一人のために社の全ての信用を失うかもしれなかったんだぞ。」
「申し訳ありません」
僕は、頭を下げる事しか出来なかった。
「起こってしまった事は仕方がない、が、二ヵ月後、我が社の社運を賭けたプルジェクトに参加する君がそんな事では困る。
そこで、しばらく長期休暇をとってみてはどうだ?」
「休暇ですか…」
「そうだ、プロジェクトが始ってしまうと休日出勤も増えてしまうために参加者には、今の内にリフレッシュしてもらう事が先日の会議で決定して、君に半月の休暇が認められているんだ。君の子どもが生まれてからと思ったが、このままで居られるよりは社の損害も少ないし、な」
部長はそう言うと机から休暇許可書を取り出した。
「睦実の事はちゃんと看ておく、何かあったら連絡する。今の間にお母さんのお墓に報告に行ってこい」
「お義父さん…」
「おい、社ではそう呼ぶなといっているだろ」
「はい、申し訳ありません」
「仕事が忙しいからって盆も正月も親元に帰らなかったと聞いてるぞ。弘前のお父さんと親子水いらずで話してこい」
こうして、急に半月の休暇が与えられた。
妻の睦実は、小学校の時のクラスメイトだった。だからってお互いに小学校の時から付き合っていた訳では無い。
睦実は中学進級と同時に父親の転勤で引っ越したし、僕は一人暮らしをして大阪の大学に通って故郷から離れていた。
僕が大学を卒業して半年経った頃、旅行で出かけた新宿駅の遊歩道で睦実とすれ違って、睦実に声をかけられたのが二人のスタートだった。
「何でか分からないけど、気が付いたらあなたとしゃべってた」
あの日の出会いを睦実はそう話している。
その時、睦実も旅行中だった、話している間にお互いに大阪から旅行に来ている事が分かり、旅先で出会った同郷の志に一種の安心感を得て、その後の行動は殆ど一緒に行なった。僕の方が一日早く帰る予定だったのを、予定を変更して睦実にあわせ、最後の一晩を睦実の泊まっているホテルの部屋でこっそりすごした事の緊張感は死ぬまで忘れる事は無いだろう。
悪い気を起さないようにと両手をタオルで縛られた痛みも…
それから帰る新幹線の中で連絡先の交換をして、いつの間にか僕の大切な人になっていた。
「でもなぁ、まさか勤め先の直属の上司の娘だったとは、想像もつかなかったよ」
今、妻の実家に向かう電車の中で回想しながら思わず口に出てしまった言葉にハッとなった僕は慌てて周りを見回した。
誰も気がついていないらしく、こちらを見ていない。安心して視線を下に落としたら、吊り革を持って立っている僕の前の席に座っている壮年の婦人が僕の顔を見て微笑んだ。
聴かれたいたらしい…恥かしい。
しかし、睦実との披露宴の時、僕はもっと恥かしい思いをした。
小学校以来の親友なのにこの時の結婚式が久々の再会となった天野直人がお祝いのスピーチをしていた時のこと。
「二人は同じ小学校の出身で、しかも隣同士に机を並べた事もあるクラスメイトでした…」
「えーーーーっ!」
僕は叫んだ。
天野を始め、全ての人の目が僕を見た。
睦実は「知らなかったの?」とでも問いたげな顔で僕を見ていた。
最初の出会いの時の印象と違い、付き合っている時はマイペースののんびり屋だった睦実が、僕より先にその事を知っていたのが信じられず、後で問い正したら、睦実も披露宴当日に天野から聴かされて知ったらしい。
なんと間の抜けた夫婦なんだろう。
「普通、小学校の話なんてしないもんなぁ」
また口に出してしまった。目の前の婦人は今回も微笑んでいる。
その時、丁度目的の駅に到着したので、僕は逃げるように電車から飛び出した。
「明日から会社を休んで親父の所に行って来るよ」
睦実はこの事を既に聞いていたのか、驚いた様子も無く優しく「お義父さんによろしく」と微笑んだ。
「輝之さん」
睦実が少し淋しそうな目をして僕を見た。
「何?」
少しの間があった。
「赤ちゃん、何で生まれてくれないのかな?
母親が私って事が不安なのかな?
赤ちゃんって親を選べないってみんなは言うけど、実は選んでるんだって昔読んだ本に書いてあったよ。
お腹に居る間に色々考えて、生まれたくなかったら自殺するんだって。
流産する子の何割かは赤ちゃんの自殺なんだって!
でも、この子は私に似てのんびり屋さんだから、自殺を決心するのが遅くて、臨月迎えちゃって、でも生まれたくないから抵抗してるんだよ!」
睦実は、大声で取り乱した後に泣きはじめた。
(もう、十日だもんな無理もないか…)
僕は睦実を抱き寄せて、優しく語りかけた。
「睦実、お前が言う通り赤ちゃんは睦実に似てるんだと思うよ」
睦実の体がビクッと震えた。
「のんびり屋さんなんだもんなぁ~、生まれる日が来たってまだ思って無いんだよ」
そう言うと、睦実は小さく頷いて涙を拭いた。
「取り乱してごめんなさい。」
「いいよ、じゃあ、明日から行ってくるけど、何かあったらすぐ連絡しろよ、飛んで帰ってくるからな」
「うん!」
「おい、いつも言ってるだろ、そう言われたら『ガメラよりも早くね』って応えろって」
「あ、そうだった。
でも輝之さん、それ面白くないよ…」
「ガーン、言ってはならない事を言ったな、お仕置き」
そう言って僕は睦実の脇腹をくすぐり始めた。睦実は大笑いして身をよじりながらも、僕の手から逃れようと必死になっていたのだった。
この日はこのまま睦実の実家に泊まり、翌日僕は里帰りをした。