桜の季節

例えば…。
今日みたいにポカポカと暖かく眩しいお日様があるにしろ、ついつい美しすぎる青で覆われた空をただぼんやりと眺めていたいなんてこと、誰しもがちょっとは考えたりするんじゃないだろうか?
少なくとも僕は、そう思うけど。
目を閉じて想像してみる。
誰にも邪魔されない場所で、寝転んでただ空を眺める幸せなひと時。
鳥のさえずりや風で木々の葉が擦れる音ぐらししかしない、静かな時間。
これこそが世に言う「至福の時」なんじゃないだろうか?
桜が見ごろになった休日の朝、目覚めた時の夢の余韻が僕の琴線に触れたのかもしれない。
そうだ!天気もいいし、暖かいみたいだからちょっと出かけてみようか。
思い立ったが吉日、僕は仕事がある日の朝の様にバタバタと急いで出かける準備に取り掛かった。
玄関で去年の秋に購入してまだ数回しか履いていない新しいスニーカーを履きながら、ふと動きが止まった。
さて、どこへ行こうか?
僕は玄関のあがりまちに腰掛けたまま、行き先をどこにするか考え始めた。
空をぼんやり眺めたい。
だったら、この街にある大きめの公園のピクニック広場なんかどうだろう?
一瞬、いい案だと思ったが、寝転んでいたら傍を家族連れなんかが通るかもしれない。
近い場所で若者達や年配のグループなんかが、わいわいと楽しそうに騒ぐかもしれない。
ひょっとすると遊んでいるボールが飛んでくるかもしれない。
誰にでもなつくでっかい犬とかがじゃれてきて、顔をベロベロ舐めまわされて。
そういうんじゃなく、傍で糞でもされたら。
だとすると…う~ん、嫌だなぁ。
そんな環境じゃ僕が追い求める「空を眺める」状態にはならないか。
う~ん、困ったな。
じゃあ、出かけるのをやめる?
いやいや、折角支度したのにそれはちょっと。
やっぱりこうなりゃどうしても出かけたいさ。
では、どこへ。
う~ん。
おそらく結構な時間悩んだと思う。
悩んでいる時、自分の脳内なのにも関わらず、ついつい本題から脱線してしまったり。
そしては慌てて一からどこへ行こうに戻ったりの繰り返しだった。
だが、打開策は突然訪れた。
いわゆる「ピンと来ちゃった!」ってやつ。
こうしている間にも、世の中の多くの人の脳内で様々なジャンルの「ピンと来ちゃった!」が行われていることだろう。
僕は自分の「ピン」を忘れないように気を遣いながらも、また少し脱線したのだった。
僕が思いついたその「ピン」の場所は同じ大きな公園は公園でも、ピクニック広場ではなく池だ。
そうだ!そうだよ!公園の池でボートに乗れば…。
池の上なら陸上よりも誰かに邪魔をされる確立は低くなる、はず。
行き先は決まった。
そうなると僕の行動はなかなかの速さ。
ドアに鍵をかけ、タンタンと階段を下りて行く。
気持ちはとっくに公園のボートの上だった。
なのにどうしたことだろう。
こんな時に限ってアパートの自転車置き場で、僕の自転車は一番下に倒れていた。
誰だよ!出足をくじかせるのは!
っつうか倒したら直して行けよ!
何故か一刻一秒でも早く公園のボートに乗りたい僕は、ブツブツ文句を言いながらマイ自転車を救出した。
考えてみれば今までいつもそうだった様な気もする。
自分で「これだっ!」と思って即行動に移そうとすると、途端に邪魔が入る。
どういう訳かすんなりいかない。
だから、余計にイライラして焦ってしまう。
折角の陽気の休日なのに、穏やかな気持ちをぶち壊されてすぐさま膨れるなんて、僕は自分の心の小ささに少しだけ嫌気が差した。
大人なんだから、もっとどっしりドンと来いぐらいの気持ちを常に持っていたい。
どういう大人に憧れた。
昔、誰かに「ケツの穴の小せぇ野郎だな。」なんて言われたことがあったっけ。
誰だったかな?くそっ!
まだまだ、自転車を倒されてた小さな怒りはあるものの、その割合は自転車を漕ぎ出し、目指す大きな公園が近づくにつれしぼんでいった。
全身で浴びる風が気持ち良い。
街のあちこちにある植物に自然と目がいく。
普段はそんなに感動もしないのに。
僕は結構自分勝手なのかもしれない。
出発してから約30分、ようやく到着した大きな公園は家族連れや色んな年代のカップルやグループで賑わっていた。
やはり皆、こんないい天気の日に家にいるのがもったいないと思ったのだろう。
少なくとも僕はそう思ったくちだ。
お金をかける遊び場も結構だが、こういった「無料」で楽しめる憩いの場の方がやっぱり世の中の人々には丁度良い気がする。
今はそれほど景気がいい訳でもないから。
自転車置き場もなかなかの混雑。
やっと見つけた端っこの木の傍に自転車を置くと、僕は小走りでボート乗り場に向かった。
公園の木々は緑が濃く、花壇には配色や並べ方が計算された美しい花々が咲いている。
いくらか離れた場所にある駐車場には綿あめやアメリカンドッグ、たこ焼きなどの屋台があるようだ。
自転車やスケボー、ローラーブレードなどで楽しむ人達、芝生ではキャッチボールやバドミントンなどで遊ぶ人達、ペットを連れて来ている人達もいた。
どの人も笑顔で休日を満喫している。
ここではみんなそれなりに幸せなんだとわかる。
ふと池の方に目を移すと、ボートはあまり出ていないようだ。
チャンス!
僕は思った。
「お願いします!」
「はい、じゃあ40分で戻って来てね。ちょっとぐらいはオーバーしても大丈夫だけど。時間が近くなったら放送で番号呼ぶから。」
ボートの乗り場で係りのおじさんに言われたとおり、僕はお目当ての手漕ぎボートに乗り込んだ。
そうそう、これこれ。
こういう感じを求めてたんだよ!
僕はいつになく興奮してしまった。
乗ってすぐ漕ぎ方がわからなかったが、すぐさまよその上手な人の漕ぎ方を見て学ぶと、その通りにやってみた。
スイーッ。
ボート乗り場の桟橋が徐々に遠のいていく。
ああ、良い!
やっぱりこれこれ、こうじゃなくっちゃ!
慣れてきて冷静さを取り戻すと、さっき乗り場のおじさんがどうしてあそこまでくどくくどく「スワンタイプ」の足漕ぎボートを勧めてきたんだろうと思った。
スワンじゃ漕ぐのに忙しくて、僕の描いた理想の「空の見方」なんかできっこない。
しかも、一人だってのに。
一人でスワンに乗って必死に足で漕いでる人もいるけど、いるけどさぁ。
それを想像すると、我ながら何とも表現しがたい切ない気持ちになった。
彼女がいる訳でもないのに。
脳内の自分がそう言った。
だが、すぐさま脳内にいる別の自分が「いやいや、彼女がいたとてスワンに乗るか?」と言いだした。
そうだよなぁ。
いくら彼女がいたって、やっぱり手漕ぎの方に乗るよ、僕はね。
いやいや、別にいいですよ、いいですけども、もし彼女の方から「スワンに乗りたい!」って言われたら乗りますけど乗りますけどさ、でも、普通は彼女と一緒なら手漕ぎでなんつうか、その、男らしさ的な感じを見せたいと思うんだけど…それに彼女と一緒ってことはデートだよ!デートだもの、彼女だっておしゃれしてきてるだろうからさぁ、女性にそんなことさせられないでしょ?いや、男女の差別みたいなのはあるかもしれないけど、やっぱり僕は男として、なんつうか女性をきちんとエスコートしたいってのか。
なんだろう?
一人で脳内で議論しちゃったよ。
バカだ。
脳内の会議がそこまで辿り着いた頃、ボートは乗り場からだいぶ離れた静かな場所に来ていた。
ああ、この辺りがいいかなぁ。
周りを見渡すと、普通の木や桜などの花が咲いている木が並んでいる。
楽しそうにしている人々の声など、全然気にならない程度の音量。
僕はオールから手を離すと、ふう~っと息を吐きながらゆっくりと後ろに倒れこんでみた。
ボートの上で仰向けになるのは、少しだけ勇気がいった。
それでもやってみると、想像していたものよりも随分と勝手が違うとわかった。
今日は良い天気。
そうだったね。
そうでした。
良い天気ってことは、仰向けになると太陽が容赦なく眩しいのだった。
ああっ!目ぇ、やられる!
こんな時、「かっこつけてる」と普段ちょっとばかしバカにしていたサングラスが欲しいと思った。
この公園でも見かけるランナー達などが装着している虹色に反射するタイプのサングラスなど、僕は「だっさ。」とばっさり切り捨てていた。
さかのぼること中学時代、反抗期まっさかりで少しやんちゃしたい年頃に仲が良かった同級生の一人がいきなり「俺、サングラス欲しい。」と言い出した時に、真っ先に「なんで?」と思ったものだ。
あれはイケてる外国人のアスリートやモデルさんなんかがかけてるからいいのであって、こんな凹凸の浅い平面顔の俺達がかけたところで似合わないと決まっているのに。
僕はそう思っていた、いや、今もそう思っている最中。
だけど、この状況になってみて初めて「おしゃれとかそういうのじゃなくて」サングラスの重要性を噛み締めたのだった。
「ダサい」とかもうどうでもいい。
太陽が眩しすぎるから欲しい、かけたい。
このままでは目がどうにかなってしまうのではないだろうか?
太陽の力を侮っていた自分のバカ、バカ。
僕はサングラスが欲しいと言った友人だけじゃなく、全国のサングラス愛用者に全力で「ごめんなさい。」と謝りたい気分だった。
眩しすぎて目を閉じるも、訳のわからない派手な色や模様がチカチカしている。
なんか、辛い。
僕はリュックからハンドタオルを出して、顔にかけた。
死んでるみたい、ないし、美容室でシャンプーしてもらってる感じかなぁ。
あ、でも、美容室って行ったことないから正直なところわかんないや、ははははは。
それでもこんな形ではあるけれど、直射日光を視界から遮られただけでも良かった。
その時僕は「日焼けする」ということなんか、全く考えもしていなかった。
ボートで仰向けになる。
足は腰掛けた状態のままだけど。
僕はこの体勢がこんなにキツイものだとは考えてもみなかった。
ボートって意外と揺れる。
傍を別のボートが通り過ぎたり、風で波が起こったり。
その揺れ方が規則正しい訳じゃないから、いつひっくり返ってしまうんじゃないかという恐怖に襲われる。
えー、こんな感じ?
予想だにしない揺れに耐えようと、体幹が無意識に鍛えられている気がする。
僕は出かける前の自分の愚かさを少しだけ恨んだ。
映画やドラマやCMの様な素敵さを求めていたのに。
現実っていつもそう。
僕はごちゃごちゃと愚痴っぽいことばかりになってしまい、全然「空」を楽しめなかった。
そのうちに風に乗って美味しそうな匂いが漂ってくる。
あ~、腹減った。
ふと時間が気になり、ズボンのポケットからスマホを取り出し確認すると、とっくに30分が過ぎていた。
やべっ!
後、残り10分で戻らないと。
時間が経つのがこんなに早いなんて。
焦ってガバッと起き上がると、そのタイミングでバランスを崩しドッポーン!
池の水はまだまだ冷たくて、薄っすらと生臭かった。
バシャバシャ、バシャバシャ!
たっ、助け…ブクブクブクブク。

聞くとたったの5分ほどの救出劇だったそうだが、ボートから落ちた僕にはとてつもなく長い時間に思われた。
頭の先から足の先まで全身ビッショビショ。
あ~あ、折角の休日が。
僕は公園の管理事務所の中のだるまストーブの前で、借りた大きなバスタオルを頭から被ったままぼんやりしていた。
ズボンと着ていたパーカー、それに靴下と靴は脱いで干してもらっている。
身につけているのはヨレヨレのパンツと、やっぱり首の辺りがヨレヨレのTシャツ1枚、足元はおじさんに借りた木製の下駄。
いわゆる「便所下駄」だ。
リュックの中は全部ずぶ濡れだったけど、仕事じゃないから別に大した物は入れてなかったし、スマホは何故か無事だったから良かった。
あ、そうか、何故かじゃなかった。
先月防水機能が優れてるらしい新しい機種に変えたんだった。
若い人気の俳優がCMやってる、あのスマホだ。
それにしても寒い、そんでもってバカだな。
「馬鹿」ってなんで馬と鹿って書くんだろう?
馬も鹿も利口な動物じゃないか。
バカそうなのって、そうだな、なんだろう?
ああ、犬?
犬ってどっちかっつうとバカっぽい仲間だと思うけど。
違うか、そんなこと言ったら愛犬家の皆さんにこっぴどく叱られちゃうか。
ははは。
僕の脳裏に実家で飼ってる雑種犬ペロンが浮かんだ。
あはは、あいつもバカだったなぁ。
ワンワン吠えるばっかりで、全然教えたこと覚えないでやんの。
顔と手以外きちんと拭く気が起きないものだから、髪からはポトポトと池の水が滴った。
それが管理事務所のコンクリート色の床にいくつもの円を描いていた。
「大丈夫か?兄ちゃん、ほれ。」
笑うのを必死に堪えている様な表情の公園事務所のおじさんから、温かい缶の「おしるこ」をもらった。
自販機から買って間もないといった感じのおしるこの缶は、熱すぎてバスタオル越しじゃないと持っていられなかった。
「ははは、あったかいうちに飲めぇ。なぁ。風邪ひいちまうからよぉ。」
おじさんの優しさが身に沁みた。
ようやく飲める温度になったおしるこに口をつけようかという時、ストーブの反対側にカップルがやってきた。
見ると、若い男の方は別にどこも変わったところは見当たらないのだが、連れの女性は僕と同じビッショビショ。
二人の会話によると、ボートから桟橋に移る際に女性が一人ドボンとなったらしい。
泣いている女性の濡れた服装は、デート使用の可愛らしいスカート。
多分、付き合って間もない二人といったところだろうか。
とにかく男の方は優しい。
「ちょっと待っててくれるかい?今からなんか着替え買ってくるから。」
若干引きつった表情の若い男は、駆け足で事務所を出て行った。
あ~、それにしても僕と同じ人がいるなんて。
ふふふふふふ。
何故だか自分でもよくわからないけれど、笑いたくてしょうがなかった。
そして、やっぱり彼女もおじさんから僕と同じ「おしるこ」をもらっていた。
人のことを笑ってしまったけれど、いいなぁ、彼女。
彼が着替え買って来てくれるんだもんなぁ。
羨ましい。
は~、僕も誰か…そこまで考えた時、脳内にふと女友達の顔が浮かんだ。
幼稚園、小、中、高校まで一緒だった幼馴染のキリコ。
つい先日あった高校の同窓会で何年ぶりかでばったり再会して、あいつも同じ街に住んでるって言ってたっけ。
しかも勤務先まで近くて。
あ、そだ、キリコ。
この間交換したばかりのアドレスにメールしてみた。
(元気?あのさ、ちょっと頼みたいことあんだけど、今いいかな?)
(何?めんどくさいことならおとこわり)
すぐさま届いたメールは「お断り」が「おとこわり」になっていた。
男を割んのかよ、はははは。
(あ、ごめん、めんどくさいかも)
(じゃあ、無理!バイバイ!)
(あ、ちょっと待って!ごめんなさい、俺さ、今、ずぶ濡れなのよ)
(なんで?)
(あ、いや、公園の池に落ちちゃって)
(は?どぅいうこと?)
キリコのメールは「どう」が「どぅ」になってた。
それって英語の「ドゥ」じゃん。
メールを打ちながら、僕は脳内で笑った。
(え~とね、公園で一人でボートに乗ってまして、そんでもってドボンと池に落っこちちゃって、今はパンツまでずぶ濡れで公園の事務所であったかいおしるこ飲んでます。)
キリコは受け取ったメールの内容に驚くと同時に、ケタケタと笑いが止まらなくなった。
(何?それ?)
(あ、いや、だから、そういうことなんですよ)
(へぇ、で?)
(でって…いや、着替え買って来てもらえないかと)
(なんであたしが?)
(だって、幼馴染だし)
(他に誰かいないの?友達とか彼女とか)
(いないの、全然いないの、頼れるのはお前だけなの、お前しかいないの、世界中で俺を救えるのはお前だけなのよ、だから、お願い!キリコちゃん。ねっ!いいでしょ?お願い聞いてくれたらなんか美味しいもんご馳走するから)
キリコからの返信が途絶えた。
そっか、そうだよな、あのキリコだって休日だもん、用事とかあるかもしんないよなぁ。
僕はメールでは強気に「俺」としているけど、実際少し弱気になった。
キリコならきっと来てくれるはず。
そう思いつつも、脳の反対側ではそんな訳ないかと真逆のこともよぎった。
もらったおしるこの甘さと温かさが、体を芯から温めてくれた。
体の前の方は随分乾いたので、今度は椅子の向きを変え後ろを干すことにした。
缶のおしるこを飲みきった頃、さっき着替えを買いに出た彼が息を切らして戻って来た。
「はぁはぁはぁはぁ、ごめん、遅くなって、お店、ちょっと混んでて。」
彼の手には公園の駐車場側の向かいにあるドラッグストアのレジ袋。
息が整っていない彼は、彼女の横にあったパイプ椅子の上に買って来た物を次々と並べていった。
中から取り出したのは女性用のピンクの靴下に、子供からお年寄りまでみんなが履いてるデザインのこれまたピンクのサンダル、そして、女性用のパンティにスポーツ様のブラジャー、そして白い猫のキャラクターがついたTシャツと袋に入ったスウェットの上下。
僕はわざとらしく立ち上がると、彼の買って来た物をじっくり眺めた。
「みさきちゃん、大丈夫?さっ、これに着替えて!ごめんね、こんなのしかなかったんだけど。」
「ううん、こうき君ありがとうね、ごめんね、着替え一式買って来てもらっちゃって。」
「そんなのいいから、ほら、着替えておいでよ!ねっ!」
「あ、うん!」
いいなぁ、彼女。
優しい彼だなぁ。
見知らぬ男女のやりとりに僕はほんわかと温かい気持ちになった。

僕と彼だけになったストーブの前に、今度は60代と思われる年配のご夫婦がケタケタと笑いながらやってきた。
案の定二人はずぶ濡れだった。
「あらぁ、あはは、私達だけじゃなかったのねぇ。ふふふふふ。」
ふっくらとした奥さんは楽しげに笑った。
「ははは、そうだなぁ、結構落ちる人いるんだなぁ。はははは。」
旦那さんは僕の方を見て、ニコニコ笑った。
彼女の着替えを待つ彼と共に、僕も夫婦の会話に参加することになった。
聞くと、37回目の結婚記念日だからと結婚前にデートでよく来たこの公園に来て、昔のようにボートにでも乗ろうかとなったんだそうだ。
だが、借りた手漕ぎボートに乗り込もうとした途端、奥さんがよろけ、手を差し伸べていた旦那さんもつられて一緒にドボン。
乗る前に落ちたので、料金は返ってきたと笑っていた。
「ふふふ…おっちょこちょいなのよねぇ、あたしもお父さんも。ふふふふふ…。」
同居している長男夫婦が着替えを持って迎えに来てくれるのだと言っていた。
やっぱり事務所のおじさんからもらった温かいおしるこを飲みながら、ご夫婦の話に耳を傾けた。
そうしていると、着替え終わった彼女がこちらに戻って来た。
足取りはどこか重かった。
「みさきちゃん!着替えた…んだね。」
その場の視線が一斉に彼女に集った。
全員、何て言ったらいいのか必死に言葉を探した。
「あ、その…え~と…。」
優しい彼が言葉を発すると、それに反応した彼女がいきなりワーッと泣き出した。
彼が買って来たスウェットはサイズが若干小さかった様だ。
体のラインがわかるほどピッチリと密着しているスウェットはもうスウェットには見えず、どちらかと言うと「全身タイツ」感が否めなかった。
駄目だ!駄目だ!
この場合絶対に笑っちゃいけない。
テレビでよく見かける女芸人のようないでたちの彼女。
髪はまだ生乾きのままで、メークは涙で流れている。
どうしよう、面白さと切なさでいっぱいだよ。
好きな男とのデートでこんなの。
可哀想に。
やっぱ笑うのは失礼だよな、うん。
ごめんね、彼女、みさきちゃんだっけか?
ホントにごめんなさい。
一瞬でも笑った自分の軽率さを反省。
そんな場面だが、彼はやっぱりどこまでも優しかった。
「みさきちゃん、帰ろうか。」
そう言いながら涙の彼女の腰にそっと手を回すと、反対側の手で彼女の荷物をそっと持った。
そして、ぺこりとこちらに一礼すると、二人はゆっくりと事務所から出て行った。
やっぱり優しいなぁ、彼は。

若い二人の後に年配のご夫婦の家族が心配しながら迎えに来た。
「あなた、お家はどこかしら?送って差し上げましょう。」
奥さんにそう声をかけていただいたけれど、「あの、大丈夫です、もうちょっとで乾くし、僕、自転車なんで。」と丁重にお断りすると、「そう、じゃあ、風邪などひかない様に気をつけて下さいね。」なんて温かい言葉をかけてもらった。
ご夫婦と迎えに来た長男さんが行ってしまうと、僕は何だか少しだけ寂しい様な気分になった。
いいなぁ。
僕の脳裏に小学1年生の頃の記憶が勝手に流れ出した。
あれは入学して間もない、まだ給食が始まったばかりの頃だったと思う。
予報通りに4時間目の終わり辺りから雲行きが怪しくなると、あっという間にザーザーと大雨になった。
僕は朝家を出る前に「傘を持って行きなさい。」と言う母の言葉を無視して、そのまま駆け出すように外に出た。
幼稚園の時、母と手を繋ぎ一緒に家の近くで送迎バスを待ったのと違い、自分一人の力で歩いて学校へ行く自由が嬉しかったから。
途中で合流するキリコ達とワイワイ子供だけで歩く楽しさを覚えてしまったから。
学校の玄関でどんよりとした空を見上げて一人「どうしよう」と困惑している間にも、どんどんと友達や他の上級生達は持って来た傘を差して帰って行く。
車で迎えに来てくれるお母さんも、中にはいたっけ。
散らばっていく色とりどりの傘の波に逆らって、一つの大きな見覚えのある傘がこちらに向かってやってきた。
「あっ!お母さん!」
「お~い!迎えに来たよ~!おいでぇ!」
大人用の大きな傘に入ると、僕はすぐさま母にぺったりとくっついた。
「どしたの?ようちゃん。そんなに甘えて。」
優しい笑顔の母にそう言われたけれど、僕は「違うよ!お母さんにくっつかないと濡れちゃうから。」なんて言い訳したんだったな。
あ~、懐かしい。
ちょっぴりセンチメンタルな気分で涙が出そうになった時、不意に大きな声が聞こえた。
「お~い!着替え!持って来たよ!」
「えっ?」
聞き覚えのある声の主は、キリコ。
「えっ?なんで?」
「なんでって、あんたが呼んだんでしょうが!」
「え、だって、返信来ないから、なんか別の用事とかあるのかと…。」
「そんなの…別にいいじゃん!ほらっ!それより着替え!着るの?着ないの?どっち?」
「あ、着ます!着させていただきます!キリコ、ちゃん、ありがとうございます。」
僕は丁寧にお辞儀をすると、キリコが持ってきてくれたレジ袋を覗き込んだ。
さっきの「優しい彼」が持って来たのと同じドラッグストアの袋。
「あ、そだ、ハサミハサミ、ほらっ!これ使って!」
キリコは肩からかけたバッグから、おもむろにハサミを取り出しタグなどを切り外すように促した。
「あ、はい、ありがとうね、キリコ…ちゃん。」
「あ、うん、いいよ、そんなの、それよりさっさと着替えてきたら?」
「あ、うん、そうだね。」
着替える前、僕は公園事務所の手洗い場でみかんが入ってたであろうオレンジ色の網に入った黄色い石鹸で、顔や耳や首などと一緒にざざっと髪も洗った。
そのまま、洗えるだけの手や足を頑張ってって借りたバスタオルで拭くと、そのままトイレに向かった。

「あ、いいんじゃない?サイズ大丈夫そうだね。」
戻って来た僕を見たキリコの第一声がそれだった。
いつの間にか仲良くなったらしい事務所のおじさんと二人、しげしげと僕を眺めていた。
キリコが買って来てくれたスウェットは、明るいグレーの上下。
そして、茶色のサンダル。
僕はさっきの彼女と「お揃い」だと思ったし、この格好は近所の女子のヤンキーっぽいなぁとも思った。
「あ、ありがとう、ホント、助かったよ。パンツとTシャツまで。ホントにありがとうとしか言えないよ。」
「そっ!」
「うん。」
「んじゃあ、帰りますか?」
「あ、うん、そうだね、あ、あの、バスタオル洗って返しに来ますんで。」
僕がそう言うと、おじさんは「なんもいいってそんままで。それより兄ちゃん、風邪ひかないように。また、今度、彼女と一緒にボートに乗りにおいで。」と言い、ニヤニヤとキリコと僕を交互に見つめた。

「あのおじさん、なんか勘違いしてんのかな?」
「えっ?何が?」
「いや、俺達が付き合ってるっていうか、そういう関係みたいな…感じとかって…。」
「あー、そうなんじゃない?」
「そっか。」
その後、言葉が繋がらなかった。
この前の同窓会で久しぶりに会った時、キリコがこんなに綺麗になってるなんて想像もしてなかった。
僕の中ではいつまでも男みたいな元気な女だったから。
「あ、そだ、なんか美味しいものご馳走してくれるって言ってたよね?」
「あ、うん、いいよ、こんなに色々買って来てもらったんだもん…と言いたいところだけど、俺、今、こんな格好だから入れる店って限られてくると思うけど…そうだなぁ、近所のラーメン屋とか定食屋ぐらいならこんなでも許してもらえ…。」
「あそこ!たこ焼き食べたい!」
「えっ!たこ焼き?」
「うん、たこ焼きがいい!」
「あ、そう、わかった、いいよ!いくらでも…って、ごめん、ちょっと待ってくれる?」
僕は慌ててまだ生乾きの財布の中身を確認した。
「1パック!」
「えっ!1パックでいいの?」
「うん、いい。」
「ラジャー!俺も腹減ったから、じゃあ2パック買うかな。ちょっと待ってて。」
たこ焼きを買っている間、キリコは隣の店で氷水に浸かって丁度良く冷えているペットボトルのコーラを2本買っていた。
それぞれ買った物を手にしながら、僕らは無意識に桜が綺麗に咲いている木の下に陣取った。
「わぁ~、綺麗だなぁ~、桜。」
「そうだねぇ。」
「俺さ、こんな形だけどキリコと一緒に桜見れてなんか嬉しいよ。」
「ん?何?どういうミーン?」
ミーンって…なんで英語混ぜる。
「どういう意味って、そのまんまさ。」
「えっ?」
「だから、キリコと一緒にこんなに綺麗な桜が見れてなんか嬉しいってこと!」
「そうなの?」
「そうなの!」
「そっか、うふふふふふふふふ。」
「なんだよ!やらしい、変な笑いして。」
「だって…あたしもようすけとこんな風な形だけど、今年の桜が見れて嬉しいなって思ったから。」
「そっ?」
「そっ!」
薄いピンクの桜越しに見る青空も、なかなかいいなぁと思った。

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