母の唄

母の口癖は、
「金持ちに成らんで、良いい、
有名に成らんでも良い   
普通で良い、平凡が一番、平凡が一番の幸せや・・」
母の言い付けをしっかり守り、至って平凡な人生を歩んで来た私で有る。
「金持ち」にも「有名」にも成らなかった。
私の、やせ我慢 負け惜しみで有る。

カズエの子で「カズの子」と呼ばれた、私は50有余年、母の恩を受けながら、それを当然の事と思い、母の人生を思い考えた事が無い。

当然の様に、母として、見ていただけで、ひとりの女の一生として見た事も、考えた事も無かった。

母にも当然、子供時代があり、思春期が有り、青春時代が有った。
母の幼い時、母はどんな遊びをし、ケタケタと無邪気に笑い、些細な事でメソメソ泣いたのか。

思春期、クスクスと笑い、シクシクと泣いたのだろうか。
何に悩み、何に感動したのか。
青春時代、思いを寄せた人はいたのか、誰に恋をし、どんな夢を語り合ったのか、その恋の行方は・・・、

私の知る、オバサンに成った母は、我先に唾を飛ばして喋る事も、ゲタゲタと笑う事も無かった。
上品とまでは、言わないが、控えめな母だった。

思い出しても、母の口から、恋話等を聞いた記憶は無い。
母は、息子のわたしに 恋話を、面白、可笑しく話してはくれなかった。
勿論、母親の恋話など、聞きたくも無く、興味も無かった。

息子としては、母から、こんな恋をしたと聞かされても、
「気色悪い、止めてくれ・・・」
その場から、逃げるだろう、その恋が、情熱的であれば有る程、複雑な思いに成るだろう

母が臨終の枕もとで、母の二人の妹のはなしを聞いてから、母を一人の人間として・・一人の女・・として純粋に、見ることが出来る様になった。

妹二人の会話である。

 「カズ姉は、ハイカラさんやったな~・・」
 「そうや・・着物の着方も、粋な着方をしたな~・・」
 「そうや・・そうや・・私らはあんな着物の着方は似合わんな~・・」
 「それが、よう似合おうたなぁ~・・カズ姉には、」
 「ホンマハイカラさんやった・・・」
娘時代の思い出話は、その後も続いた。

そう言えば母の昔の写真を見ると、「ホンダのカブ」と言う50CCのバイクに跨って写る、写真が有って、息子の私が言うのも変だが、結構な美人で有った。
そんな母は、どんなこどもで、どんな娘で、どんな女だったのか。
そんな事を、素直な気持ちで思う様に成った。母が亡くなってからの事である。

数少ない母の言葉と、母の生き方を思い出し、母の「こども時代」「思春期・青春」そして、私の知る「母の時代」を少な過ぎる点を並べ、線で結びたい。

少女の頃
母の子供時代は「尋常小学校」と言った。
みんなが着物で通ったのだと言う、
「貧乏人の子沢山」今では、死語だろう、母も、「兄が二人、姉が一人、妹が二人」の六人である。

まだその時代は、大らかだったようで、母の同級生の友達は、何番目かの妹を子守りをする為、学校に連れて来たと言う、
教室の人気者で、休み時間など、女の子達はみんなで、其の幼い妹と遊び、テストの時間などは、先生がその幼い妹を抱いて、見回りをする。
その妹が、グズリ出すと、みんなであやした。
先生も又、幼い妹は厄介者では無かった。
教室の雰囲気を明るくしてくれる、天使の様な存在だった。

その同級生もまた、姉が同じ様に、学校に連れてきていた。
勉強が良く出来たという。

「そら、勉強出来て、当たり前や、入学する前から、学校に来てるんやもんな~・・・」
「先生とも、顔なじみで、特に親切に教えて貰える、」と笑っていた。

その頃の、遊びと言えば、「お弾き」「あやとり」「かくれんぼに鬼ごっこ」
母も、みんなに負けまいと、勉強はボチボチで、運動神経もボチボチの母は、一生懸命、みんなに着いて、野山を走り回っていた事だろう。

運動会では、花形だったのか・・・・・・それとも、ドキドキしながら、出番を待ったのだろうか・・?
学芸会では、主役が張れたのだろうか・・・?・・それとも、その他大勢だったのだろうか。
楽しい、毎日だったのだろうか・・・・?

思春期・青春期
母の恋の話は、聞いた事が無いが。
息子に話したところで、拒絶されるに違いない。
今考えても、母の恋話をどんな気持ちで、どんな顔をして、聞けばいいのか解らないし、きっと茶化してしまっただろう。

聴きたくは無かったのかも知れない、母は、女では無く、母だから、うまく言えないが、母だからである。

一度、こんな話をして、母は涙ぐんだ事が有った。
大阪に行きたいと言っていた、青年の話である。

その青年には、病弱な妹が居て、両親が居なかった為、遠縁の家に身を寄せていた。
その兄妹の肩身の狭い思いは、想像に容易い。

その青年は、母にこう話したと言う、大阪に出て、「うどん屋」をしたいと。
母が「うどん屋をしたいなら、大阪に行かなくても出来る」と言うと、
真剣な顔で、
「妹を、大阪の大きい病院に入院させたいのや・・」

母も、その青年には、病弱で寝たきりの妹の事は知っていたので、それ以上、言葉は、掛けられなかった。

親戚に預けられて、自分の事より、病弱な妹が、きっと肩身の狭かろうと、青年は、朝早くから、夜遅くまで、預けられていた、親戚の田畑に出かけ、必死に働いていた。

妹を、大きい病院に入院させられるのは、両親が居ないのだから、自分しか居ない、妹を早く、一日も早く、自分が引き取り、しっかりと療養し、病気を治しやりたいと、焦っていた。
青年は、妹を置いて、一人大阪に行く事が出来なかった。
今は、せめて妹の傍にいる事しか、出来ない、歯がゆさが有った。
どうする事も出来ない苛立ちと、休み無く働き、心身共に、疲れていたのだろう。
無理が祟り、妹をおいて亡くなってしまった。

残された、妹が、どんなに悲しく、心細かっただろう。
母も又、どんなに悲しかっただろうか。
その妹も、兄を追う様に、この世を去った。

「あの兄妹は、何のために、生まれて来んやろなぁ~‥」
「頭の良い人で、きっと成功したのになぁ~・」
「きっと,みんなの為になれる、人やったのに・・・」

母は、暫く黙っていたが「悔しいな・・・」と一言呟き、目に涙を一杯、溜めその話を止めた。

これが、母の恋だったのだと私は、思っている、母に、胸の内を話した青年も又、母のことを、憎からず思っていたに違いない。
母は、その青年が「好きだった。」とは言わなかった。

母は、何十年と言う間、心に秘めていたのだろう。
として、その後も二度と、その話を聞くことは無かった。

母が父のところへ、嫁いで来た。
太平洋戦争が始まりろうしていた頃、母は新しい生活に不安も有ったに違いない。
現代の様に、恋愛と言う言葉は、映画の中の話、お互いに相手の顔も知らず、祝言の日に知るのである。
顔を見た事も無く、話をした事も無い者同士が、初めて、顔を合わすのが、結婚式の日である。
今では、考えられない事である。

余談では、有るが、私の叔母、父の妹の話。
同じように、顔も知らず、結婚式の夜が来て、一人、また一人と帰って行って、最後に残ったのが、お婿さん・・・叔母は、笑ってこう言った。
「一番、男前が残った・・・」
「大当たりや・・・!!」
実際、当時の歌手「春日八郎」に似ていた、(今の人には、分らないと思う。)
この婿さんは、度胸も良く、母が頼りにしていた一人だった。

次兄の不吉な夢。
母が、嫁に来て間も無く、次兄に「赤紙」が来た。「召集令状」である。
太平洋戦争で有る。
次兄は、数か月の訓練を受け、戦地に向かう。
その訓練期間の事、母の両親の元に、訓練中の次兄から、電報が届いた。

「カズ(母の愛称)が、頭を丸めて、泣いている夢を見たので、様子を見てきて欲しい。」

祖父は、その足で、母の様子を見に来た。
何回も家の周りを回り、何回目かに、母が、洗い物を持って、外に出て来た。
昔、前の川に洗い場が有り、水も綺麗で、洗い物をする母の姿を見たので有ろう。
何も変わった様子も無い事を、確認した祖父は、母に何も言わず、合わずに帰った。

「心配なし、カズエは元気」と知らせた。

この事は、母では無く、次兄の身に後に起こる事を、暗示していた。
戦地に向かう前に、休暇が有り、次兄は家に帰されたが、その間に結婚をする、
「産めよ、増やせよ」の国策の為か、夫婦として居られたのは、数日の事、戦地に向かった。

名も無い南の小さな島で、次兄は、戦死。
届いた、骨壺には、小さな石が一つ入っていたと言う。

母は、次兄からの電報で、父親が様子を見に来た事を、次兄の戦死した後から、聞いた。
「兄ちゃん、らしいな~・・・・。」
「苦しまんと(苦しむ事無)死んでいて欲しい・・・」
「攻めて、一思いに、苦しまんと・・・・」
母の次兄に対する、思いで有った。

次兄は、まだましかも知れない。
母は、召集を受けて、出兵していく、人を何人も見ている。
万歳・万歳に送られて行く、父親の足元に、
「お父ちゃん・・行くな・行かんと居て・・・!!」と、しがみ付く、我が子を、振り切って、汽車に乗り込む、父親を見たという。
幼い子が、汽車を追いかけて、泣き叫んでいた。

それに、比べたら、
「夫婦の情も、まだ浅かっただろう・・・・」
「それ程の未練も・・・無かっただろう・・娘が出来た事も、何も知らずに・・・」
母は、自分自身にそう言い聞かせている様だった。
優しかった、次兄の戦死。

私が生まれたのは、1951年(昭和26年)の終戦の、6年後である。
 
よちよち歩きが出来る様に成った私は、薄いガラス瓶を持って、歩いていた。
川の洗い場は、大人が大股で降りる程の段差があり、よちよち歩きの私は、足を踏み外した。
右手に割れた、ガラスが食い込んだ。
母のオロオロする姿が、今も目に浮かぶ、母は、手ぬぐいを右手に巻き付けたが、見る見る内に赤く染まったと言う。
私は、その時の事は、覚えて居ない、痛かったには違いは無いが、母の背中で、泣いていたのだろう。
3キロ程離れた、集落に医院が有り、母の背中が、左右に揺れていた事は、覚えている。
喘息の持病が有った母は、全速力で走っていた。苦しかったに違いない。

母は、その話を思い出すたびに、ガラス瓶を持っていることを、知らなかったと、自分を責めていた。
何十針か縫ったが、幼い私は、母の言う事を聞かずに、傷口をぬった手のひらを、握ったり、開いたりするため、傷口が開き、何度も医者に行った。
今も、右手には、傷跡が有る、

暫く、時が経ち。
二人の兄が小学校に行っていたのだろう。

母が、喘息(気管支炎)で寝込んでいた。
余程、苦しかったのだろう、電話等無い時代、私に手紙を持たせ、親元に行く事に成った。
「いいか、この手紙を、おばあちゃんに、渡すんや・・分かったな・・・」
母は、ゼイゼイと息をし、咳き込みながら、私に手紙を渡した。
風呂敷に包み、背中に縛り付けた。

初めてのお使いである、当時はバスが通っていて、10キロ足らずの親元に行くのだ。
バスに乗った事も無い私は、停留場で待つ間、何度も母の顔を見上げて、
「よう・・行かん・・」
と言いたかったが、ゼイゼイと苦しそうな母を見て、なにも言えなかった。

まだ当時は砂利道で、砂ボコリを巻き上げながら、バスは近づいて来た。
不安は最高に高まった。

バスが止まり、当時は車掌さんが乗っていた、母は、車掌さんに事情を話なのだろう、私の顔を見ながら、
「僕は、偉いな~ぁ・・」
と、微笑みながら、頭を撫ぜた。

この車掌さんは、とても親切で、お年寄りが、バスに乗ろうとして、遅れて来ても、バスを降りて、向かえに行く、車掌さんの「笛」の合図で、バスは走り出すので、笛が鳴るまで発車出来ない。

優しい車掌さんは、私をヒョイと抱き上げ、助手席に座らせてくれた。
足が床に付かなかった、事を不安に思った。

母の親元の停留場に着くと、又ヒョイと抱き上げて、下ろしてくれた。
橋を渡り、山裾の母の実家まで、700~800メートルは有った。

橋の中程で、振り返ると、車掌さんは、まだバスには乗らず、心配そうに手を振って、見ていてくれた。
橋を渡り切った時、バスの発車を知らせる、笛の音がした。
振り返ると、車掌さんは、ドアを開けたまま、乗車口に立ち、わたしに「ガンバレ」と言った様な気がした。

この車掌さんは、出歯で、お世辞にも「器量良し」とは、言えなかったが、今も、わたしの心を、熱くしてくれる。

橋を渡り、堤防を下って、暫く歩くと、山裾に建つ母の実家まで、こどもにとっては、長い登坂に成る、その先は左右に分れる「T字路」が有り。
左に曲がれば、道沿いに母の実家は有った。

尋ねた母の実家は、留守。
暫く、玄関に待っていたのだが、誰も帰ってこなかった。
隣家の誰かに、尋ねれば、祖母の居場所も分かったのだろうが、頭の回る、わたしでは無かった。

同じ道を、引き返す、「T字路」に差し掛かると、前方に「乳母車」を押して、近づく人、が有る、祖母である。
「オバアーちゃん・・・・」
思わず、泣きながら、祖母の足元にしがみ付いた。
驚いたのは、祖母の方で、
「なんや・・何事や・・・一人か・・・母さんは・・・?・・」
「一人で来たんか・・・?・・・母さんは・・・?・・」
何度も、「ひとり来たんか」「母さんは・・・」と繰り返した。

パニックに成っている、祖母より、心細さが全て消えた、私の方が冷静だった、風呂敷包みを肩から、外して手紙を取り出し、祖母に渡した。

その後、祖母と母の待つ家に戻ったのだが、どの様に祖母に連れられ、戻ったのか、記憶に無い、緊張の糸が切れ、安心したのだろう、祖母に付いていれば、なんの心配も無いのだから。

停留場に向かって、あの「T字路」を曲がっていたら、祖母を見つける事は、出来なかっただろうし、祖母も、幼い孫が一人、尋ねて来る等とは、思わず、後ろ姿を見たとしても、わたしだとは、気が付か無かった、かも知れない。
この事は、話に出る度、
「苦しさのあまり、自分の事しか頭に無かった・・小さなお前が、ばーちゃんに会えなかった時、如何して帰って来るか・・考えてもいなかった・・・・ごめんな・・ごめんな・・」と、母はわたしに詫びた。

母の喘息(気管支炎)は、気疲れと、百姓仕事の過酷さからだろう。
12~3反の田んぼが有った。
百姓仕事は、人力だった。
「田お起こし」
「スキ」と言う道具で、広い田圃を一スキずつ、起こす作業の事。
「砕き田」
「三つ鍬」と言う、三本の刃の付いた鍬で、一スキずつ起こした、土を小  さく砕く作業の事。
「カクリ田」(どの様な字を書くのか、不明)
「西遊記」の猪八戒が持つ、釘が一列に何本も並んだ道具・・・?
其の道具で、砕いた土を更に細かくして、田圃を平らに均す作業。
その前までは、耕作をする為の牛を飼っていたが、その牛を手放した時から 耕運機やトラクターに代わるまで、正に田畑を耕すのは、母と父が牛馬の代わりである。
辛く苦しい、重労働であった。
父は、酒に逃げる事が出来た、母にあたり散らす事が出来た、しかし母は、何も逃げる物が無い、あたり散らすものも無い。
その時代の女性は、そんなものだったのかも知れない
それが終わると、田植えをする。
全て手作業で有る。

朝から、晩までこれらの作業は続く、現代の機械化農業と比べれば、当時の百姓仕事は、大げさでは無く「奴隷」の様なものだった。
我が家も「耕運機」が「トラクター」に成り、「田植え機」に成り、「コンバイン」に成った時、母は、「天国や、」と言っていた。

父はそんな時でも酒を飲み、母に当たり散らすので有る。
憂さ晴らしに酒を飲む、百姓仕事の辛さからか、世間に対する不満からか。
父はそれで、気は晴れるかも知れないが、母は、たまったものでは無い。

朝早く作業に出る、母が遅れて行くと、機嫌が悪くなる。
夕方、暗くなると作業が終わる、父は、さっさと足を洗い、手を洗い、家の中へ入る。
母は、父の後から、手足を洗い、家の中へ。
父は、直ぐに「飯・・・」「飯は未だか・・・愚図が・・・」と叱りつける。
理不尽極まり無い、父の口癖は。
「この・・ゴクタレが・・・・」である。
「ゴクタレ」の意味は、怠け者とか役立たずと言う意味、母は、そう言われ続けたのだ。

その頃が、母の一番辛かった時だと思う、そう長い間では無かったのだろうが。わたしには、長く辛く、寂しい日が続いた、母が居なくなったのだ。
毎日、泣き疲れて、眠る日が続いた。
そんなある朝、炊事場から物音がする。
父は、まだ寝ている。
そっと起きて、まだ薄暗い夜明け前の炊事場を覗くと、母が、かまどの前に座って、ご飯を炊いていた。
嬉しかった、母の横に座り、母の顔を見上げると、竈の赤い火が母の顔を、照らしていた、赤く腫れた目をして、唇が震えていた。
母の膝に、手を置くと、母の手が握り返した、その強く握りしめた手を、わたしの肩に回して、母は私の体を引き寄せた。

母は、きっと夕べ遅くに、父に詫びを入れ、帰ってくれたのだろう。
母には、何の落ち度も無いのに。
何年か経ったある日、母は、しみじみと、話した。
「何度も死のうと思ったけど、お前たち三人のこどもの、お蔭で死なずに済んだ・・・」
死なずに済んだのでは無く、息子三人を残しては、死ね無かったのだ。
こども達に、普通の平凡な一生を、送らせる為に。

前出の「春日 八郎」似の妹婿が、父から、「ゴクタレ・怠け者」呼ばわりされる、母に、意見をしに来た。
母の話を聞き、「話が違う」と逆に、父を説教して帰ったと言う、妹の婿さんに、で有る。

又、喘息が出ると、往診をして貰った、その頃は珍しい「女医さん」が居て、その女医さんは、車と言えば、バスだけの時代、他の開業医の先生も「スクーター」の時代、「いすゞ・ヒルマン」と言う車に、さっそうと乗っていた。
男勝りの女医さんだった。
母の事を、心配してくれたのだろう。往診に来る度に、
「お父さん・・もう少し、お母さんを大事にしなきゃだめよ。」
と言って、帰って行った。

わたしが小学生の頃、この女医さん、当時三十代だったと思う、わたしの同級生が、休み時間、鉄棒の上を綱渡りの様に歩いていて、足を踏み外し、しこたま、股間を打ち付けた、全体重が一点にかかった、死ぬほどの苦しみである、職員室に走り、先生に知らせた。
学校を暫く休み、登校してきた、この友達は、診察して貰ったのが、この女医先生で、死ぬほど、恥ずかしかつたらしいい。
母が、頼りにしていた、人の一人で有ったのだが。
その後、五島列島に引っ越したという事だった。

妹婿に・女医さんに意見され、息子三人が大きく成ると、三人共、母の味方をする、その事も逆に、父を孤独にして、益々酒に逃げる様に成って行く。

財布は父が握り、思う存分酒が、飲めただろう。
母の、自由になる、金は無かった。

中学生の頃、みんなの居る、廊下で給食係りの先生から
「給食費未だです、明日持って来なさい」と言われた、事も有った。

小学生に傷を負わせた事も有った。
額から、血が噴き出していた、その子は家に帰った。
遅刻した、わたしは先生に事情を話した。
先生は、「親と一緒に謝りに行って来なさい」と言う。
家に帰り、母に話し、母と一緒に謝りに行った。
母が、ペコペコと頭を下げていた。
何を言われても、ただ頭を下げていた。
どの位の時間、謝っていただろう。
要約、その家を出た、許して貰った訳では無く、相手に言う事が無くなったのだろう。

母に、あんなに、頭を下げさせた事が、辛かった。
帰り道、母は黙ったままだった。
きっと怒っているのだろうと思いながら、母に謝る事も出来なかった。
帰ったら、父に報告するのだろう、父はきっと酒を飲んでいるに違いない、腹立ちまぎれに、怒鳴り散らすだろう、わたしよりも母にで、有る。
だが、何事も無く、夕飯の時が来て、呼ばれるままに膳に付くと、わたしの好きな「カレーライス」だった。
この日のカレーは、大きく切った、ホクホクしたカレー味のしみ込んだジャガイモが入っていた、うまかった。

母は何時も、ジャガイモを小さく刻んで入れる。
わたしが、何度も、大きく切って欲しいと、頼んでも。
「大きく切ると、なかなかジャガイモが、煮えんのや・・・」
と言って、小さく刻むのだ。
この日、母の横顔は、微かに微笑んでいた。

カレーの事で、もう一つ、思い出した、事が有る。
その時のカレーは、一口、口に入れた時、家族一同飛び上がった。
その辛い事と言ったら、口の中が火事の様だった。
唇もヒリヒリして、腫れ上がった、飲み込んだ覚えは無いのだか、喉もヒリヒリと痛い。
兄が、カレー粉の入っていた、缶の説明書を読んで、咳き込みながら、かすれた声で。
「これ・・・業務用のカレー粉や・・・50人分と書いてある・・・・!!」
母も、咳き込みながら、かすれた声で、涙を拭きながら
「いつも買うカレー粉は、箱に入っているが、缶に入っていたので、変だな・・?・とは思った・・」
わたしも、涙を拭きながら、かすれた声で、笑っていた
それから、毎日、毎日、薄めては、薄めては、そのカレーを食べた・・いや、食べさせられた。
兄は、それ以来カレーは、食べなくなった。

中学を卒業すると、近くの工場に就職した。
十六歳で「自動二輪」の免許を取った。
十八歳でオートバイが欲しいと、母に言うと、
「自分の金で、買ったら良い、」
「どうせ買うなら、日本で一番大きなオートバイを買え・・・」
この母の言葉を、仲間に話すと。
「お前、ホンマにおばちゃんの子か・・・?・・」
「調て見た方が良いぞ・・・」
と言われる程、奇異な言葉だったようだ。

38歳の時、「リストラ」つまり、人員整理に遭う。
その時、わたしには、息子が二人と妻は3人目を、妊娠していた。
母には、「リストラ」に遭い「工場を辞めさせられた、」とは、言えなかった。
母が、懸命に育てた「息子」が、会社の取っては、必要の無い「息子」だった。
母に、そうは、思われたく無かった。
「会社・・・辞めて来た・・」
母は、驚きもしなかった。
「そうか・・・どうしたって、食べて行ける、」
「何とか、成るもんや・・・」
きっと母は、わたしの見栄と痩せ我慢を見破っていたのだろう。
兄には、「三人の子供を、如何して育てるんや・・・」
とシコタマ叱られた。

母は、その時、こんな話を聞かせてくれた。
母が、十代の頃、家出を計画した。
京都行って、「髪結い」に成るため、その時代に如何いう方法だったのか、務める所も決まっていたという。
荷物も、誰にも判らない様に、まとめて置いた。
だが、家出する寸前に、親にばれた、姉の密告である。

わたしが、会社を辞めた時に、話す事だったのか、なぜこの時だったのか、私には解らなかったが、その話で盛り上がった事は、確かである。
「もし、京都へ行って、髪結いさんに成って居たら」
「今、若先生として、ちやほやされていたかも知れない・・・」
今、流行りの「オネエ」系の、カリスマ美容師として、
母は、笑いながら、
「お前は、生まれて無かっただろう・・・?」
「いや、・・?・・三人のこどもを生んでいたら、姿形は、変わっていても、お前・・生まれていた、かも知れんなぁ~」
と、真顔で独り言の様に言って、又笑っていた。

自分で旋盤(鉄を削る機械)を買い、仕事を始めた。
母は、何も心配していない様子だった。

だが、仕事を始めたと言っても、簡単に仕事が、入る訳も無い。
2~3か月は何も、仕事が無いまま過ぎて行った。
暫く経って、こどもの夏休みでも、何処にも、遊びに連れて行ってやれず、「マクドナルド」のハンバーグが、精一杯だった。
店内に、妻と三人のこどもが入って行く、車の中で、待っている間、「マクドナルド」の独特の屋根と、真っ青な空が、不安で一杯の気持ちと、正反対だった。
暫くすると、店から、スキップをしながら二人の息子が出て来た、大きな袋を持って、末の娘が、兄二人の後から、スキップのつもりだろう、飛び跳ねる様に、付いてくる、嬉しそうに、ハシャギながら、車に乗って来ると「ハンバーガー」と「フライド・ポテト」匂いが、一緒に入って来た。

母の言う通り、何とかなる物で、わたしは、小さい頃から、宝くじに当たる様な、大きな「運」は無いが、小さな「運」有った。
「T字路」の手前で、祖母に出会えた様に。
親会社の都合で、仕事が無くなると、必ず次の会社から、仕事の依頼が有った。

十数年が過ぎた頃、母が昔の百姓仕事の無理のせいだろう。
腰が痛み、足が痛む、何年か病院通いを妻がしてくれたが、専門的な介護が、必要と成り「デーサービス」に行く事に成る。
送迎のマイクロバスが、わたしの仕事場を前の道を通って行く、偶然、外に出た時、マイクロバスの車窓から、母の顔が見えた、母の優しい笑顔が、通り過ぎて行った。

曲がって痛い腰を、精一杯伸ばし。
痛い足を、精一杯、踏ん張って、送迎バスの窓から、わたしの仕事場を覗き見ながら、通っていた。

シャッターの開いている夏。
「お前が、頑張って、仕事をしていると、嬉しく成る・・」
シャッターが閉まっている冬。
「シャッターの向こうには、お前が仕事をしている、姿が見える・・・?」

送迎バスの座席は、行きと帰りでは逆になる、母は行きも帰りにも、わたしの仕事場が見える様に座っていた。
自分の体が思う様に動かず、腰も足も痛いのに、母は、50面下げた、息子の事が、気がかりだった。

わたしは、母に孝行をした覚えが無い、母に褒められたと言う、覚えも無い
たった一つ、褒められた様な気がする、事が有る。
息子が幼稚園の頃、クワガタを取って来て、虫かごに入れ、息子に見せた。
喜んで見ていたが、虫かごの中で、暴れるクワガタを見て、わたしは思わず「お母ちゃん探してるのかな~・??」と言うと息子は、虫かごを持って、表に出て行った、追いかけると、クワガタを捕まえた神社向かっている。
神社の大きな木の根も根下に、クワガタを逃がしてやった。
きっと 母親のクワガタも子クワガタを探していると思ったのだろう。

息子は、大人になっても優しすぎる、自分が買って来たケーキを、先に弟や妹に選ばせる。
「兄ちゃんは、残った物で良い、お前ら先に好きな物を選べ・・・?」と言うのである
「優しすぎて、心配だ クワガタの件で失敗した・・?」と母に言うと、母は。
「良い教育をしたな・・・良い子に育てたな~あ・・・!」と 笑顔で言ってくれた。
褒めてくれたのだろうか。

少なすぎる母の思い出の点をどんなに繋いでも、途切れ途切れの線にしかならなかった。
末っ子のわたしは、母に尋ねた事が有る、意地の悪い質問で、母は困ると思っていた。
「末っ子が、こどもの中で一番可愛いいと言うのは、本当か・・・?」
と問いかけた、母が困る顔をするだろうと、思った。
しかし、母は、即答で答えた。
「そら・末っ子が一番可愛いいに決まてる、一番早く、親と別れるからや・・」
一番上の兄とは、九つ違う、わたしが10歳の時、兄は19歳、なるほど。
この時、わたしは50歳だったが、母に取っては、齢など関係なく、一番早く親と、別れる事に成る末っ子が可愛いいと言う。

三人兄弟で、長兄は小学校の六年間学芸会(今で言う発表会)では、主役ばかりだった。
性格が良いのか、誰にも好かれる、先生方にも好かれていたのだろう。
当時学芸会で、主役は優等生に決まっていた。
当然主役は、セリフも多いので暗記能力が必要だった。
社会人に成っても、みんなに慕われた。長兄の息子(わたしの甥)が「おやじは、何処でも人気が有る・・見直した」と驚いていた。

次兄も、わたしと三つ違いで私が低学年の時の学芸会で、どの様な内容の劇かは記憶にないが、「横綱の土俵入り」を披露した。場内 ” ヨイショ ” ”  ヨイショ ” の掛け声と喝采の拍手の嵐であった事を覚えている。
次兄は、中学校の時 陸上の800メートルで県大会に出た、スポーツマンで友達も多く、小学生で有りながら、筋肉質で有った為、「横綱」の役は、最適だったのだろう。
「露払いと太刀持ち」を引き連れて、堂々とした土俵入りだった。
余談として「太刀持ちの刀」は、地域のお家柄の良い、同級生が本物の刀を持って来た為、先生方が大慌てをしたと言う。

わたしは、兄たちとは違い、学芸会と言えば、「その他大勢」村人A・Bでハ無く、村人達で有る。
セリフも「そうだ・・そうだ」とか「それが良い・・それが良い・・」と、その他大勢役もみんなで声を合わせて大声で叫ぶ、別にわたし一人が声を出さなくても何の影響も無いのだが、一生懸命大きな声で言うのである。

楽しみは、昼食の時間、わたしには ” 押し寿司 ” 次兄には ” 巻き寿司 ” 母は、朝早く起きて、二種類の寿司と卵焼き等を作り、重たい荷物を持ち、見に来てくれる。
横綱の土俵入りで、喝采を受けた次兄、母も鼻高々だっただろう。
その他大勢のわたしも、同じ笑顔で迎えてくれる。

運動会も次兄は、県大会に出る程、足が速く、リレー等は、余り差が付かない様に、出走者の足の速さを配慮して先生方が決めるのである。

だがその配慮は、次兄を目立たせる演出に成る。
次兄の前で ” バトン ” を落としても、前走者が転んでも、次兄にバトンが渡れば、ビリからゴール直前でトップに成る。
リレーは、「紅白リレー」全校生が紅白に分かれていた当時は その紅白の代表が走った
「字別リレー」各字の代表が走る。
「学年リレー」各学年の代表が走る。
「人生リレー」各学年の代表 卒業生 父兄 の代表が走る。
「クラス対抗リレー」クラスの全員が走る。
次兄は その全てのリレーに出場した、おまけに、人数合わせで 一つのリレーで二回走る事も有った。

わたしは、「クラス対抗リレー」一種目だけに出場、全員が出られるからである。
昼食の時間、次兄は巻き寿司、わたしは押し寿司、そして 母は笑顔で迎えてくれる。
母に言った事が有る「僕も巻き寿司で良い・・もう押し寿司作らんでも良い・・・」母は手を止める事無く「お前の好きな物 食べたら良いのや・・・」そう言いながら、押し寿司を作り続けた。
次兄が卒業すると、父は運動会を見に来なくなった。
ははの笑顔は、わたしが卒業するまで続いた。

寝たきりに成った母を,暫くの間、預かった事が有った。
真夜中に大声で歌った唄が有る。
  ♪~♪~
    金の生る木を床に置き~い~
        主と朝寝がしてみたい~
                   ♪~♪
昔「地蔵縁日」で地蔵堂の境内に「覗きからくり」と言う、見世物小屋が出ていた、その「覗きからくり」の一節である。

幼い時、家族みんなで見たのが、楽しかったのだろうか。
何時も優しく気使ってくれた、次兄に連れて行ってもらったのだろうか。

それとも、「大阪に出たい」と言う青年と、夢を語り合った、二人で観たのだろうか。

息子の名前が記憶から消えても、母の記憶の中に深く刻み込まれた唄で有る。

間も無く、母の一生は、幕を下ろした。
「普通が一番、平凡なのが幸せ」それが、口癖の母の人生は「普通」の人生だったのだろうか。
母の一生は「平凡」な一生だったのだろうか。

母は内緒で、わたし名義の貯金通帳を残していた、金額は僅かな物だった。
喘息と百姓仕事で苦しい中、自分に、もしもの事が有った時に一番幼い、わたしにと、自由に成らないお金を、この通帳に入れたのだ。
感謝しても、感謝しても、感謝しきれない、母の一生。

私もいつの日か終わる人生、「天国」に行きたいとも。
「極楽浄土」に行きたいとも思っていない。
母の元に帰りたい。

母はきっと、「もう来たんか、お疲れさん」と、あの優しい笑顔で、迎えてくれる。
ホクホクの大きな、ジャガイモの入った、「カレーライス」で。

・・・・おわり・・・・

元野 敏
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元野 敏

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